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2017/07/27

■節子への挽歌3615:歳をとるということ

節子
先週湯島に来た友人が教えてくれた「モリー先生との火曜日」を読みました。
20年ほどに出版されて話題になった本です。
この本のことは聞いたような気もしますが、読んでいませんでした。
ALS(筋萎縮性側索硬化症)であと数か月のいのちという恩師モリー教授のことを知った昔の教え子が16年ぶりに訪問し、数回にわたり「最後の授業」を受けた記録です。
とても共感できることが多い内容でしたが、私が一番関心を持ったのは、モリー教授の次の発言です。

「ほんとうのところ、私自身の中にすべての年齢がまじり合っているんだよ。3歳の自分、5歳の自分、37歳の自分、50歳の自分ていうように。そのすべてを経験して、どんなものだかよくわかっている。子どもであるのが適当な場合には、喜んで子どもになるし、思慮深い老人であるのがいい場合には、喜んでそうなる。何にだってなれるんだ! 私は今のこの年までのどんな年齢でもある。わかるかい?」。

私が持っている感覚ととても似ています。
時間は流れ過ぎるものではなく、積み重なっていくもの。
だから逆に流れることもある。
今日の午前中、畑仕事をしていて、なんとなく感じていたことにつながるなと夕方ふと思いました。

大地は間違いなく歴史を積み重ねています。
時間が積み重なっていると言ってもいいでしょう。
畑に行けば、私と畑の付き合いの歴史(ちょっと大げさですが)がはっきりと読み取れます。
自宅もそうです。
空間には、時間が積み重なっている。
そして間違いなく私という身心もまた、時間の積み重ねです。

モリー先生が言うように、人は「今のこの年までのどんな年齢でもある」。
そう考えると、年齢は直線を進むのではなく、面積を広げることになります。
そして、その気になれば、どんな年齢の時にも戻れる。
なんだか地平が広がるような話です。

たまに畑をすると、やはり思考が変わります。
さて当分時間が取れそうもありませんが、来週はまた畑に出かけようと思います。
ただただ野草を刈り取る仕事です。
草刈り瞑想とでも言いましょうか。

今日こそ熟睡できそうです。
真夜中におかしな覚醒が起きなければですが。

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