■「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」
昨日、ケソン工業団地で働いていた人が語った北朝鮮のことを書きましたが、その本を読んで、渡辺京二の「逝きし世の面影」を思い出しました。
昨日湯島に行く電車の中で、最初のところだけを読み直しました。
読んでいる人も多いと思いますが、2つの話を紹介させてもらいます。
昨日私が言いたかったことを補足する意味で。
スイスの通日使節団長として1863年に来日したアンベールは、農村を歩き回っていると、人びとは農家に招き入れて、庭の一番美しい花を切りとって持たせてくれ、しかも絶対に代金を受けとろうとしなかったそうです。善意に対する代価を受けとらないのは、当時の庶民の倫理だったらしいと、彼は書いています。
イザベラ・バードの話からも一つ。バードは東北・北海道の旅の後、関西から伊勢に向かう途中でこんな体験をしています。奈良の三輪で、3人の車夫から自分たちを伊勢への旅に傭ってほしいと頼まれた。推薦状ももっていないし、人柄もわからないので断わると、一番としかさの男が言った。「私たちもお伊勢詣りをしたいのです」。この言葉にほだされて、体の弱そうな一人をのぞいて傭おうと言うと、この男は家族が多い上に貧乏だ、自分たちが彼の分まで頑張るからと懇願されて、とうとう3人とも傭うことになった。ところが「この忠実な連中は、その疲れを知らなぬ善良な性質と、ごまかしのない正直さと、親切で愉快な振る舞いによって、私たちの旅の慰さめとなったのである」。
また、「日本で貧者というと、ずい分貧しい方なのだが、どの文明人を見回しても、これほどわずかな収入で、かなりの生活的安楽を手にする国民はない」という、アメリカ人イライザ・シッドモアの言葉も紹介されています。
彼女はこうも書いているそうです。日本人は「木綿着数枚で春、秋、夏、冬と間に合ってしまうのだ」。そんな極限の状態でも、春と秋の素晴らしさを堪能するのに差し障りはない。「労働者の住、居、寝の三要件」は、「草ぶき屋根、畳、それに木綿ぶとん数枚」がみたしてくれる。穀類、魚、海草中心の食事は、貧しいものにも欠けはしない。
日本通だったチェンバレンは、日本には「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」と言ったそうですが、現代の日本はどうでしょうか。
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