■節子への挽歌3608:過去も未来の現在の中にある
節子
まあよくあることではあるのですが、たぶんこの10日ほどに読んだ本の中のある文章が気になって、どの本かを探すのに1時間以上取られてしまいました。
この10日では読んだ本は10冊にも満たないのですが、思い出した文章がありそうな本に限れば4冊しかありません。
手元にある3冊は3回も見なおしましたが、見つかりません。
1冊は図書館から借りた本なので、図書館にいって調べてみましたが、そこには見つかりません。
私の思い違いでしょうか。
私の頭のなかには、左ページの最後の10行くらいで、次のページにわたっていたというイメージは浮かんでくるのですが。
文章の内容は、北欧とイギリスの学校制度にまつわるものです。
どうして見つからないのか、実に不思議です。
私の思い違いでしょうか。
実はこういう経験はこれまでも何回もあります。
いまもなお見つからないのもあります。
もう30年近く前ですが、アメリカのナバホ族の7代先の掟に関する記事です。
その時は心当たりのあるかなりの本を読み直しましたが、見つかりませんでした。
いまもなお見つかりません。
私の蔵書の中の、どこかの本にあるはずなのですが。
そうしたことから、キーワードをパソコンに残し後から検索できるようにしてきているのですが、今回の文章は気になりながらも、残す必要もない私も知っていることだと思ったのでしょう。
ところがこれも奇妙に思われるかもしれませんが、その気になる文章の中身も思い出せないのです。
となるとこれは夢かもしれません。
節子も知っているように、私は夢と現実を時々混同して話します。
夢もまた私には現実だという感覚がどこかにあるからです。
ですから今回のことも夢なのかもしれません。
しかしこうしたことは気になりだすと頭から離れません。
今日も朝からまた心あたりの本をぱらぱらとめくってその文章を探そうとしていますが、もう4回目なので、探そうというよりも頁をくっているだけです。
自分の記憶が、新しい記憶を生み出していく。
もしかしたら、過去もまた時間と共に変わっていっている。
そういうことが最近よくわかってきました。
過去は終わってはいないし、未来ははじまってもいないわけではないのです。
そういうことを改めて実感させられる体験の、いま渦中にいます。
ちょっとモヤモヤしてすっきりしないのです。
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