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2017/07/08

■節子への挽歌3595:「人とのつながりを捨てる」ことの魅力

節子
世間のなかで生き続けることは、それなりに疲れます。
インドでは、人生を「学生期」、「家住期」、「林住期」「遊行期」と4つに分けて考えるそうですが、この分け方は私にはあまりなじめません。
日本では昔から「隠居」という生き方がありました。
この考えも、私はあまり理解できませんが、それを「人とのつながりを捨てる」というのであれば、共感できます。
「人とのつながりを捨てる」ことの魅力は、極めて大きい。

人は歳をとるにつれて、友人知人は少なくなっていきます。
それがさびしいという人もいますが、私にはある意味で自然の成り行きであり、最後は一人で死んでいくというのはとても納得できる話です。
おそらく私もそうなるでしょう。
ただし、それはあくまでも形の上の話です。

実際には、人は歳をとるにつれて、友人知人は増えていき、最後はたくさんの人たちに見守られて死んでいく。
私はそう考えています。
ちょっと言葉足らずでわかりにくいかもしれませんが、映画「おみおくりの作法」の孤独の主人公ジョン・メイの葬儀にはたくさんの人が集まりました。
現世の人たちではないので、現世の人には見えませんでしたが。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2014/11/post-5ba1.html
人は記憶のなかにも生きています。
記憶の中の友人知人たちは、年を重ねるたびに増えていく。
孤独死も孤立死も、私にはあり得ない話です。
そう思う人たちは、現世だけに、言い換えれば現世の欲の世界に行きすぎている。
そう思います。

つまりこういうことです。
私たちの友人知人は2つの世界に住んでいる。
此岸と彼岸です。
そして、ある時期までは、此岸の友人知人が増えていく。
その人たちは、時を経て、此岸から彼岸へと移っていきます。
そして次第に彼岸の友人知人が増えていく。
そういう彼岸の友人知人たちとの付き合いも、人生の大事な一面です。

此岸の友人知人と彼岸の友人知人は大きく違います。
此岸では人間関係に煩わされたり、付き合いを通して不快を味わうこともありますが、彼岸の友人知人はそんなことはしないのです。
時に嫌な思い出もあるかもしれませんが、彼岸に行くと人は(少し時間がかかることもありますが)みな善人になる。
現世に戻ってきて悪さをすることはとても少ない。
つまり安心して付き合えるのです。

この数日に関しても、現世の友人知人との付き合いは結構ストレスがたまります。
たとえば、昨日も尋常ではないメールが来ました。
何とか彼のためにと思って、これまでいろいろとやってきましたが、先方から絶縁状が来ました。
正直、ほっとしましたが、その一方で役立てなかった悔いが残ります。
まだ一度も会ったことのない、精神を少し病んでいる若者です。
いささかの身の危険も私は覚悟していたのですが、結局会えませんでした。
そういうことがたびたびあると、もう人には関わりたくないと思うこともあります。
彼岸にいる友人知人との暮らしに移りたいと思うこともある。
しかし、たぶん私にはその生き方は定められていないのでしょう。
なんとなくそんな気がします。

「人とのつながりを捨てる」ことは魅力的です。
それができたらどんなに幸せなことか。
しかし、此岸と彼岸はつながっている。
みんなその両方で生きているのです。
不快な思いも甘受しながら、やはり人とのつながりを捨てるわけにはいかない。

生きることは、本当に疲れることです。
マザー・テレサも、きっと疲れて生きていたのではないかと思います。
疲れのない人生など、きっとありえないのでしょう。

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