■節子への挽歌3607:人はなぜ死を恐れるのか
節子
胃がんの手術をした友人が今日退院です。
あまりみんなには知らせていなかったのですが、しばらく連絡がなかったので心配していました。
連絡をもらったのは数日前なのですが、元気そうな声でした
彼もまた、生きることへの執着はありません。
だからといって死への願望もありません。
ただただ生きるだけ。
私も次第にそういう心境になってきました。
生や死にこだわるのは、生きていないからだと思うようになってきたのです。
まあそのあたりはまだなんとなくそう思うというだけで、整理はされていません。
いまここをしっかりといくることが唯識の健康観だという話を聴いたことがあります。
唯識が言う「健康」とは煩悩から解放されることですが、身体的な病気もまた煩悩のなせるものです。
煩悩の最たるものは、死へのおそれだと私は思いますが、死を恐れる人が多いことには驚かされます。
死は、避けがたい人生の目標値です。
なぜ人は、いつかやってくる死を恐れるのか。
たぶんそれは「痛み」や「苦しみ」ではなく、「別れ」や「執着」からでしょう。
であれば、死を恐れるのではなく、死を悲しむべきです。
恐れて生き続ける人生は、生きることにはならないような気がします。
この年齢になると、友人知人の訃報も多くなりますし、病気の話も多くなる。
私には日常にしか思えない話も、「大変なこと」と感じて、細かに話してくる人もいる。
もう死んでいるのに、死への怖れを話す人もいる。
世の中はさまざまです。
筧次郎さんの本を読んで、死への関心が少し戻ってきました。
人はなぜ死を怖がるのか。
サロンで一度話しあってみようと思っています。
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