■節子への挽歌3649:「自らの生き方」という幻想
節子
人が、自らを生きることのむずかしさを、最近つくづく感じます。
というか、そもそも、そうした「自ら」などというものは存在するのか、という気もします。
私自身は、そうした「自らの生き方」を大事にしてきたつもりですが、果たしてそんなものはほんとうにあるのか。
私のまわりにも、自分の考えに基づいて時代に迎合することなくしっかりと生きているように感ずる人はいます。
しかし、それもまたもしかしたら、定められた生き方なのかもしれません。
今度、湯島でイスラムをテーマにしたサロンを始めようと思います。
それで改めてイスラムのことを学び直していますが、イスラムには、すべての人間(あるいは万物そのもの)の運命は神によって定められているという「カダル」という信仰があるそうです。
もっともシーア派のムスリムの信仰には、この思想はないようですが。
「カダル」は「定命(ていめい)」と訳されますが、仏教でいう「定命(じょうみょう)」は、生れ落ちる前に定められた寿命のことですから、人の生きる時間はあらかじめ定められているということになります。
いずれにしろ、こうした信仰のなかには「自らの生き方」という発想はないわけです。
つまり、信仰とは「自らの生き方を捨てること」であり、神や仏や天に帰依することです。
しかし、それはまた「自らの生き方」に気づくこととも言えます
そう考えれば、与えられた「自らの生き方」(ミッション)を守ることこそが信仰とも言えます。
そこで、頭が混乱してきます。
もしそうなら、「自らの生き方」は、自らの外にあることになりますから。
そして「自ら」とはいったい何者だという、根源的な問題に行き当たってしまうわけです。
社会や時代に迎合して生きている人を、私は「別の世界の人」と感じてきました。
そして、自分はやはり「異邦人」だなとずっと思ってきました。
大学生の頃、カミユの「異邦人」を読んで、「異邦人」という言葉を知って以来です。
その言葉は、私の心情に見事すぎるほどにぴったりしたからです。
カミユの小説の主人公と違い、私は「別の世界の人」ともなかよくやってきましたが、意識的には「異邦人」としての自分の生き方を大事にしてきたつもりでした。
たしかに、時流からは脱落し、生きづらさも感じていますが、自分の世界の中では逆に実に生きやすいのです。
話がまた広がりすぎだしましたが、なぜ私が、生きづらくもあり生きやすくもあるのかが、最近少しわかってきた気がするのです。
それを一言で言えば、要するに「自らの生き方」などはないということに行きつきます。
時代に合わせて生きる自分と幾分「異邦人」の要素を持った自分とが、混在しているだけの話なのです。
それは当然のことでしょう。
なにしろ「私」は、「大きないのち」の一部が、期限付きで遊ばせてもらっているだけのことなのですから。
今朝は、なんだかとても大きな話を書いてしまいました。
幻想かもしれませんが、最近、世界がとてもよく見えてきました。
言葉では説明できないのですが、すべては仮想。
そんな考えが、少し理解できるようになってきたのかもしれません。
いのちの火が消えつつあるのかもしれません。
こんな言い方をするとまた誤解されそうですが、最近自分が長生きしそうな気がしてきて、それに怖れを感じだしています。
私には、自らの死よりも他者の死を体験する生が怖いのです。
自らの死はこわくはありませんが、他者の死は時にとても恐ろしい。
そういうことから早く自由になりたいものです。
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