■節子への挽歌3622:孫はなぜかわいいのか
節子
兄から教えてもらったのですが、一昨日の地元の市報に、孫の写真が載りました。
赤ちゃん紹介のコーナーです。
当然娘夫婦は知っていましたが、私が気づくかどうかと思い、連絡してこなかったのです。
残念ながら、私は気づきませんでした。
気づかなかったのか、と失望されてしまいました。
親の思いと祖父の思いは、どうも違うようです。
その孫は、昨日わが家に来ていました。
1歳3か月で、まだ言葉でのコミュニケーションはできませんが、少しずつコミュニケーションできるようになってきました。
しかし、娘を見ていて、子育てとはこんなに大変なのかと改めて思うことが多いです。
子どもは勝手に育ちはしないようです。
市報では毎回2人の子どもが紹介されます。
子どもはみんなかわいいですが、娘は自分の子どものほうが可愛いと思っているようです。
これも不思議で、みんな自分に近い子供のほうがかわいく思えるようです。
そんなことは当たり前だと言われそうですが、私はむかしからそれが不思議だったのです。
これに関しては、節子には理解してもらえませんでしたが、結局、私は実際には真逆に娘たちを溺愛して、子育てできなかったという反省があります。
人の評価は、関係性によって決まるのかもしれません。
私にとって節子はかけがえのない存在でしたが、要は夫婦だったからです。
節子に価値があるわけではなく、夫婦関係に価値があったわけです。
人の価値は、関係によって決まってくる。
だとしたら、だれもが自信を持って生きられるような社会のあり方は考えられそうです。
でもそれは、近代西欧が目指す個人主義や自由主義の社会ではないかもしれません。
孫の顔をみていても、最近はこんなことを考えてしまいます。
いささかおかしいような気がします。
困ったものです。
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