■節子への挽歌3642:「明るく死ぬ」?
節子
私が知らないのに節子は知っているかもしれないことがあります。
死から始まる世界のことです。
哲学者の中島義道さんは「明るく死ぬための哲学」という本のなかでこう書いています。
私が死ぬとき、私はまったく新しい〈いま〉に直面するのではないのか。
つまり、死という瞬間を超えた時に、私はどうなるのか。
実に興味ある問題です。
中島さんはこうも書いています。
死んだ後の私こそ実在する、となぜ言ってはいけないのであろうか?死ぬ前の、いまの世界だって、実在しているかどうかわからないではないか、という文脈のなかで語られています。 現世が「無」であれば、そこから離れるということはどういうことなのか。
死は否定的な「無」から離れ、完全に肯定的な「無」に突入することではないのか。
そして、それは「永遠」と紙一重に区別された何かであるように思われる。
いささか難解でわかりにくいですが、なんとなく共感できるところです。
中島さんの書いた「明るく死ぬための哲学」を読んだのは、偶然に目に留まった、その書名です。
「明るく死ぬ」?
問題の捉え方によって、その人の生き方や世界がわかります。
私には、この書物のタイトルは理解しがたいものですが、やはり通読して、理解できませんでした。
「明るく生きる」が、たぶん正しい表現でしょう。
死は、自分ではとらえられない概念だからです。
しかし、中島さんの「私が死ぬとき、私はまったく新しい〈いま〉に直面するのではないのか」という言葉は心に響きます。
ワクワクさせられます。
どんな〈いま〉に直面できるのでしょうか。
東尋坊で活動している茂さんから、「命の番人」のDVDが送られてきました。
改めて観てみました。
茂さんの死に対する姿勢は、実に共感が持てます。
死にワクワクするなどと言ったら、茂さんから蹴飛ばされるような罪悪感がありますが、でも死から始まる物語への誘惑は強いです。
いずれにしろ、人は必ずそれを体験できるのです。
しかし急いでしまうと、体験しそこなうかもしれません。
明るく死ぬためには、誠実に生きつづけなくてはいけません。
そして、生きることには「暗さ」も「明るさ」もないのかもしれません。
すべては煩悩のなせる業、なのかもしれません。
今日はまた夏が戻ってきた暑さです。
この暑さは、地獄の釜の暑さを思わせます。
明日はお施餓鬼です。
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