■節子への挽歌3618:ゴミ屋敷に住んでいるような状況
節子
8月です。
いろんなことに巻き込まれていて、あまり状況を整理できないまま、8月になってしまったというような感じです。
生きていることの面白さがどんどん広がりながら、しかし関わる消化力はどんどん低下する。
人生は、「余剰」のなかで終わるのだなということがよくわかります。
独り身の友人が、財産を余剰なくきれいに使い切って終わりたいと言っていましたが、そんなことはできないでしょう。
人は必ず何かを残していく。
時にそれが「借金」だったり「未決のトラブル」だったりするとしても、それもまた「余剰」と言えるでしょう。
人生を自己完結することはできない。
最近の日本では、3世帯に1世帯が預貯金を持たない無資産階級だそうです。
そういう意味では、私はとても恵まれています。
貯金はついに100万円を切ってしまい、なかなか出張もできなくなってきていますが、自宅はありますし、その気になれば、収入になる仕事もできるでしょう。
実際に時々させてもらっています。
幸いに今は、年間の収支はほぼバランスしていて、余命期間を考えながら身軽になれる状況です。
ただ、関心や活動はなかなか整理できずに、綺麗な終焉は迎えられそうもありません。
友人を少しずつ減らしている友人もいますが、私は今なお友人が増える一方です。
だから「不惑」どころか、「多惑」「創惑」から抜け出られません。
物欲はあまりないのですが、知欲や活動欲が抑えられない。
実に困ったものです。
困ったというのは、そうした知欲や活動欲に誠実に取り組めればいいのですが、身体がなかなかついていきません。
やらなければと思いながらも、ついつい「まあいいか」などと気を抜いてしまう。
この歳になったら、身の丈を超えた思いを持ってはいけないのですが、ついつい歳のことを忘れてしまう。
考えてみれば、いまの私は「ゴミ屋敷」に住んでいるような状況かもしれません。
そういえば、私の狭い仕事部屋は、まさにゴミ屋敷のように、散らかっています。
でも片づける気力もない。
8月は、私は活動が大幅にダウンするつきです。
無理をするのはやめましょう。
しかし、世界はあまりにも面白いことが多すぎて、まだまだ世界を広げたくなります。
これはたぶん、節子がいないせいです。
大切なものがない人は、むやみやたらに気を向けられるものを探していく。
ゴミ屋敷の住人は、大切なものを失った人なのです。
それを見つけさせてやれば、きっとゴミ屋敷人生から抜け出せるでしょう。
それはわかっているのですが、どうにも抜け出せずに困っています。
ほんとうに、困ったものです。
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