■節子への挽歌3631:お盆が近づきました
節子
今年もお盆が近づきました。
お盆は、人のつながりを確認し合うための、とても大切な行事だと思いますが、その意味を私が理解したのは、節子を見送ってからかもしれません。
お盆は、彼岸から亡くなった人が戻ってくると言われても、なかなか実感できませんが、自らが死を体験すると、その意味がわかってきます。
私はまだ自らの死を体験していませんが、哲学者のウラジミール・ジャンケレゲィッチが書いているように、「第二人称態の死」つまり「あなた」であるところの、自分にとって親しい存在の死は「ほとんどわれわれの死のようなもの、われわれの死とほとんど同じだけ胸を引き裂く」のです。
節子の死は、私には自らの死の疑似体験、あるいは死の予行演習だったのかもしれません。
ところで、日本では古来、死者はある一定の期間を経て、個人から先祖に溶け込んでいくとされています。
33回忌とか49回忌など、地方によって違うようですが、「弔いあげ」あるいは「問い切り」と言われて、そこで個人としての死者の法要は終わります。
そうした「最後の死者儀礼」が終わると、仏壇の位牌を檀那寺へ持って行き焼却してもらったり、個人ごとに建立されている墓石は横倒しにしたりすることもあるそうです。
そして、死者は個人の霊を離れ、「ご先祖さま」になっていくのだそうです。
最近読んだ波平恵美子さんの本で改めて知ったことなのですが。
節子が「ご先祖様」になるまでにはもう少し時間がかかりますが、まあその前に私は同じ個人の霊として彼岸で節子に会えるでしょう。
明日は迎え火ですので、わが家の仏壇も掃除しました。
節子のお墓は個人のものではなく、私の両親と同じお墓です。
両親の仏壇は私の兄の家にありますので、実はお盆には、それぞれのところに戻るわけです。
したがって節子はいつも同居している、私の両親と別れて、わが家に戻ってくるというわけです。
戻ってきた節子は、私たちと一緒に、兄の家に戻ってきている私の両親のところに挨拶に行く。
なにやら複雑です。
兄の家にはお寺のお坊さんが読経に来てくれますが、わが家までは最近手がまわらないので、私が般若心経を読経します。
いささか心もとないですが、まあ私たちにはそのほうがお似合いなのです。
今年は節子の初孫もたぶん手を合わせてくれるでしょう。
涼しいせいか、私の疲労感もかなりなくなりました。
気になることも少なくないのですが、この期間は忘れることにしようと思います。
今日はめずらしく静かな1日になりそうです。
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