■節子への挽歌3621:死を繰り返すムスリム
節子
昨日、唐突にイスラムに言及しました。
それには理由があって、やはり私はあまりにイスラムを知らないという気がしてきたからです。
イスラムに関しては、昔からそれなりに興味を持って、井筒俊彦さんの「イスラーム文化」をはじめとして、それなりに書籍は読んで少しは知識はあると思っていましたが、だれかと話すにはあまりに知識不足です。
たとえばジハードが戦争を是認しているなどと指摘されて、そんなはずはないと思いながらもうまく反論できないのです。
イスラムは寛容な宗教だという思いが、私にはあるのですが、それもうまく説明できません。
それで、湯島のサロンで、ムスリムの人に来てもらって、イスラムについて話し合いをしてもらおうと思い立ったのです。
フェイスブックで呼びかけたら、すぐに数人の方が反応してくれたのですが、とてもぴったりの方から連絡をもらいましたので、9月にはイスラムサロンは実現できそうです。
バングラディシュの方です。
バングラディシュは、インドからの独立の時に、私もきわめてささやかに応援した記憶があります。
それはそれとして、ムスリムの人たちにとっては、死ぬことは「あの世」への引っ越しであると聞いたことがあります。
だからムスリムは死を恐れないというのです。
そして、ムスリムは毎日生と死の世界を往復しているとも聞きました。
夜、就寝するのはアッラーがその人の精神を一時的に奪って死をもたらすのだそうです。
そして、朝、アッラーによって精神が戻されて目が覚める。
そこで、ムスリムの朝一番の仕事は、生を戻してもらったことへの感謝なのだそうです。
朝の目覚めのない死は、「大死」と呼ばれるそうです。
それもまた、アッラーの行為です。
自らをすべてアッラーにゆだねる。
なんと平和な宗教でしょうか。
でも私にはあまり納得はできません。
と言っても深い意味はありません。
ただ、私の場合、最近は夜中によく目が覚めるので、ぴんとこないだけです。
しかし、寝ている時に、「あの世」に行っていたような気がしないでもないのですが。
イスラムは、ある意味ではとても仏教につながっているような気がしています。
それは私の直観的なイメージなのですが、砂漠の宗教などという表現に出会うと、私の直感が間違っているような気もします。
でもなぜか私はイスラムに親しみを感じます。
節子とはイランに行ったことがあります。
サファビー朝の首都だったイスファハーンのイマーム広場の美しさは感動的でした。
そこの近くのショップで節子はなぜか料理用の小道具を買いましたが、それが使われたのは見たことがありません。
バスの時間を気にしながら買ったお皿は、いまリビングに飾っています。
あの旅は、とても思いで深い旅でした。
旅で知り合った人たちは、もうみんな旅立ってしまっているでしょう。
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