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2017年9月

2017/09/25

■「亜由未が教えてくれたこと 障害者の妹を撮る」


昨夜のNHKスペシャルで「亜由未が教えてくれたこと 障害者の妹を撮る」というドキュメントが放映されました。
NHKの26歳のディレクター(坂川裕野さん)が、自分の妹を1か月介助して感じたことを映像で見せてくれました。
「障害者は不幸をつくるだけ」という、あの忌まわしい相模原市の事件を起こした青年の発言への、一つの回答です。
坂川さん自身はもちろんですが、家族みんなが実に素直に、その思いを見せてくれました。

障害者をテーマにした番組は、その多くがどこか肩に力が入っている気がして、見ていて疲れることも多いのですが、この番組はとても素直に、そしてとても共感を持ってみることができたばかりでなく、押しつけの姿勢が全くなかったので、素直に反応しながら、いろいろと思いを広げることができました。

再放送があります。
9月27日午前0時10分から、つまり26日の深夜の放映です。
簡単な番組紹介は下記にあります。
ぜひ多くの人に見ていただきたいです。
いつか坂川さんに会いたいです。
http://www2.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2017-09-24&ch=21&eid=09352&f=46

という内容をフェイスブックに書きこみました。
そうしたらなんと友人から、こんなコメントが来ました。

亜由未ちゃんのお母さんが、わたしの大学時代の同級生で!!、仲良くしていたのですが、30年近く前に連絡が途絶えていて、もう会えないのかと思っていました。昨夜テレビを見ていた西川さんから連絡が入り、めでたくつながることができました。深夜までおしゃべりしていました。^^ お母さん、ぜひ呼んでください。めっちゃパワフル&楽しい方です!!

そして、「あゆちゃんち」というFBページをおしえてもらいました。
さらにそこに書きこまれた亜由未ちゃんのお母さんのコメントを教えてくれました。
ぜひ読んでみてください。
これだけでも多くの人に読んでほしいです。
https://www.facebook.com/ayuchanchi/photos/a.489864241116030.1073741829.488057837963337/1039002972868818/?type=3&theater


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■節子への挽歌3673:貧しい人ほど幸せを得やすい

節子
やはりお金は困った時には現れてくるものです。
先日、口座振替をしていた先から振替ができないという連絡がありました。
そこで私の預金口座から振り込もうとしたら、残高がなんと20万円しかないのです。
銀行預金などはほとんど見たことがないのですが、いつの間にかどんどん減額していたのです。
それにしても貯金が20万円!
さすがの私もいささか不安になりました。

要するに私の年金収入だけでは、毎年赤字だったというわけです。
気が付きませんでした。
だとしたら、仕事を減らして、何もせずに隠居生活するか、あるいは逆にお金をもらえる仕事をするか、どちらにするか考えなければいけません。
いささか納得できないのですが、それにしても貯金が20万円とは白内障の手術もできそうもありません。
節約ぶりが不足していたのでしょうか。
そういえば、最近ちょっと太ってきたような気がします。
それで昨夜は、夜の食事は娘が98円で買ってきたトウモロコシ1本にしました。
美味しいトウモロコシでした。

ところが、です。
今朝、携帯電話を他社に乗り換えるために(いよいよスマホに切り替えます)、いろいろとネットで手続きしていたら、忘れていたあるネット銀行口座に預金残高があったのです。
宝くじに当たったような気がします。
ちょっと恥ずかしいので金額は書きませんが、これであと3年は生活は安心でしょう。
なにしろ現金出費に関しては私はほとんどお金を使いませんから。
医療保険にも入れそうです。
夜もご飯が食べられそうですし、もう少しお金をもらわなくてもすむ仕事も続けられそうです。
実に幸せな気分です。
幸せは、相対的なものですから、貧しい人ほど幸せを得やすいのです。

今日は良い日になりそうです。

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2017/09/24

■節子への挽歌3672:時間があったのにお墓に行きませんでした

節子
このお彼岸はお墓に行けませんでした。
まあそういうこともあるでしょう。
もしかしたら明日行けるかもしれません。

時間がなくて行けなかったわけではありません。
そもそも私は、「時間がなくて・・・できなかった」ということを認めないタイプです。
生きている以上、時間はあります。
問題は、その時間で何を優先するかです。
時間がないのではなく、優先順位が低かったということです。

さらに優先順位のなかには、「何もしないでいる」ことも入ります。
どうしてもやらなければいけないことは、どんな場合でも人は必ずやっています。
だから「時間がなくて・・・」というのは言いわけでしかありません。
そして、人はその優先順位の選び方で、生き方が見えてきます。

今日、私がお墓に行かなかったのは、ただ単に、行く気にならなかったというだけのことです。
お墓参りの優先順位が低くなったということです。
言い換えれば、お墓参りに行かなくても大丈夫になったということです。
でもなんだかちょっと気になるので、明日は行こうかなと思っているわけです。

では今日は、一日中、在宅だったのに、何をしたかです。
まあ意識的にやったのは、大相撲を見たことくらいでしょうか。
豪栄道は日馬富士には勝てないのではないかと昨日の相撲を見てから心配していましたが、まさにその通りになってしまいました。
こころの乱れは、どこかに必ず見えるものです。

あとはなんとなく、だらだらと過ごしました。
娘母娘が来ていましたが、あんまり付き合いませんでした。
娘たちと出かけてしまったからですが。
佐久間さんから新著が届いたので読みましたが、これは送られてきた本はできるだけすぐに読むという条件反射的行動です。
ちょっと思い出して、DVDで「ゴッドファーザー」のパート3を見ました。
最後がどうなっていたかを急に思い出したくなったので、かなりとばしながらでしたが。
この映画はもう何回か観ていますが、哀しい記憶だけが残っています。
見直して、やはり哀しい映画だと思いました。
いつも見てもそう思います。

こんなふうに、何もやらなくても1日は経過するものです。
たぶん一生もまた、何もやらなくても経過するものなのでしょう。
やはり明日はお墓に行くことにしましょう。
やるべきことをやっておかないと、やはりすっきりしませんので。

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■カフェサロン「重度知的障害のある人の一人暮らしとコミュニティ」のご案内

今回のコムケアサロンは、一人暮らしをしている重度の知的障害のある青年の生活記録の映像を見ながら、そういう人たちに寄り添いながら、長年活動してきている中村和利さん(風雷社中代表)に、さまざまな話題を提供してもらいながら、みんなで話し合いたいと思っています。

映像の主役は、シェアハウス&コミュニティスペース『Transit Yard』で自立生活をする“げんちゃん”です。
げんちゃんは常時見守りやケアを必要とする重度知的障害のある青年ですが、Transit Yardでの長時間介護を利用しながら、さまざまな人たちと関わりながら、自立生活をしています。
げんちゃんに関しては、新聞などでも報じられたことがあるので、ご存知の方もあるかもしれません。
https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/genchan?utm_term=.dnJjjMYxzW#.yv0JJQwlrd

そのTransit Yardに関わる人々や重度知的障害のある青年の意思決定支援の営みなどを、映像や中村さんの話に触発されながら、話しあえればと思います。
中村さんからは、Transit Yardの話はもちろんですが、重度知的障害のある人の暮らしについて、制度面の話も含めて、いろいろと話題や問題を提供してもらえると思います。

また中村さんたちは、知的障害のある人たちが、自分が生まれ育った地域で安心した生活をしていけるような社会を目指して、「知的障害者の自立生活についての声明」も社会に呼びかけています。
https://jirituseikatu.jimdo.com/%E7%9F%A5%E7%9A%84%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E8%80%85%E8%87%AA%E7%AB%8B%E7%94%9F%E6%B4%BB%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%AE%E5%A3%B0%E6%98%8E%E6%96%87/%E5%A3%B0%E6%98%8E%E6%96%87%E7%B4%A0%E6%A1%88/
ぜひお読みください。
この声明への関心を広げていきたいです。

あまり見えていないかもしれない社会のもうひとつの側面が見えてくるかもしれません。
コムケアのみなさんには、特に参加してほしいサロンです。

○日時:2017年11月4日(土曜日)午後1時半~3時半
○場所:湯島コムケアセンター
http://cws.c.ooco.jp/cccentermap.pdf
〇テーマ:重度知的障害のある人の一人暮らしとコミュニティ
○問題提起者:中村和利さん(風雷社中代表)
○会費:500円。

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2017/09/23

■節子への挽歌3671:「収」はあっても「支」はない人生

節子
先日、杉野さんからも、最近サロンが多いですね、と言われましたが、サロンが多いのです。
なんともう3か月先の12月まで決まりだしました。
湯島のサロンは大はやりです。
その上、今日はいつかサロンをまたお願いしようと思っていた宮崎さんから、こんなメールが来ました。

今度のサロンに妻がコムケアのメールを時々見ていて、「私も参加してみたいなあ。いいのかな?」と思っていたのだそうです。(知らなかったあ!!)

それで一緒に来てくれることになりました。
とてもうれしいことです。
節子がいたらいいのですが、私だけではおもてなしが全くできません。
お菓子を用意していてもついつい出すのを忘れたり、コーヒーも最近はコーヒーメーカーで作っておいて、勝手に取りに来てよなどと横柄になってきています。
コーヒーを出すのも、最近は受け皿無しのカップだけです。
その上、サロン終了後は何も言わないのに誰かが片づけてくれます。
私は何もしないわけですが、なんだかそれがどうもすっきりしないのです。
何かおもてなしをしたいわけですが、最近はおもてなしされているような気もします。

節子の時代と違ったのは、会費をもらうことにしたのです。
ビ-ルや軽食まで出していたのに、いまはそれも無しの上に会費までもらう。
これは一種の「恩送り」の考えなのですが、なかなかわかってはもらえないでしょう。
といっても徴収するわけではなく、横の机に缶が置いてあって、そこに勝手に入れていくようになっています。
ところがそこに、時々、1万円札が入っていることがあるのです。
間違って誰かが入れたわけではなく、ある人は1万円を入れていくのです。

さらに、サロンでなくても缶にお金を入れていく人がいるのです。
時々、サロンがなかったのにお金が入っていることがあるので、わかります。
まあみんなで湯島を支えてくれているのです。
本当はそういうお金の口座をつくればいいのですが、結局は私が使い込んでしまっているのです。
困ったものです。

もう少しきちんと構想を練って取り組んでいれば、湯島を共有財産にできたのでしょうが、ちょっといまは難しい状況です。
これまた私の失策に起因しているのですが、ほんとうに困ったものです。

しかし本当にうれしいのは、こんなにサロンが多いのに、毎回10人を上回る人たちが集まってくれるのです。
皆勤賞を狙うという人までいるのです。
地元のサロンであれば、そういうこともあるでしょうが、電車に乗ってやって来てくれるのです。
なかには2時間近くかけて毎回来てくれる人もいます。

サロンをやってきたおかげで、私は退屈しなくてすんでいますし、何か困ったことがあれば支えてくれる人もたくさんいます。
でもその一方で、最近、サロン疲れも出てきています。
さてさて、サロンの収支の帳尻はどうなっているでしょうか。
いやいやそう考えるのは私の主旨ではないでしょう。
疲れることと退屈しないで元気になれることは同じことなのですから。
サロンには「収」はあっても「支」はないのです。
きっと「人生」も同じですね。

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■お互いに知り合えば、戦争などなくなるでしょう

トランプさんと金正恩さんとのチキンゲームはますますお互いの弱さを露呈してきていますが、それに拍手する安倍首相のような人もいて、さらにはそれをはやし立てるテレビタレントもいて、このままだと事故の暴発にさえつながりそうな気配を見せています。
暴発は運に任せるしかありませんが、もっと恐ろしいのは日本核武装論が現実化しそうなことです。

何回も書きますが、改めてオスグッドの勇気に感心しています。
当時は日本もアメリカも、エスカレーション戦略論者のハーマン・カーンが大人気でした。
その潮流には、オスグッドは決して乗りませんでした。

オスグッドも引用していますが、アインシュタインは、かつてこう書いています。

我々の世界は、善悪いずれを問わず主要な決定を下すことのできる権力者の手に負えぬほどの、一大危機に見舞われている。解き放された原子の力は、我々の思考以外のすべてを変えてしまった。もし人顆がこれから先も生き残ろうとするならば、我々は事実上、全く新しい思考の方法を必要とするであろう。

オスグッドは、「本当に災難が訪れた時、それを非常識な学者たちや、ワシントンのバカどもや、クレムリンの悪魔のせいにすることは容易いことです。しかし、それでは我々はどうにもならないでしょう」と「戦争と平和の心理学」で書いています。
まさにこの言葉は、いまの状況にも当てはまります。
批判してもどうにもならない。

アインシュタインは、その後、パグウォッシュ宣言などに見られるように、行動を変え、世界に働きかけていきます。
パグウォッシュ会議が始まった1950年代からオスグッドの提案が出た1960年代にかけて、世界は大きく方向を変えそうな時代でもありました。
しかし、なぜか1970年に入ると歴史はまた回帰してしまいました。

なぜそうなってしまったのか。
たぶんそれは、世界の構造原理の変化に無関係ではないような気がします。
システム同士の対立からシステムと人間との対立になったというのが私の考えです。
私には、世界の構造ははっきりと見えているのですが、それはイメージ的なものなので、文字で書くのはたぶんできません。
そういえば、小林秀雄さんが、岡潔さんとの対談で、「アウグスチヌスは、時というものを説明しろといったらおれは知らないと言う、説明しなくてもいいというなら、おれは知っていると言うと書いていますね」と話していましたが、まあ偉そうに言えば、そんなことです。
人が言葉にできることは、自分の世界のほんの小さな一部でしかありません。
世界が見えていると不安は小さくなります。

本論に戻れば、人間はみんな平和を欲しているのです。
その点では、アメリカの人たちも北朝鮮の人たちも同じです。
私もそうです。
昨日のテレビの報道ステーションで、仲代達矢さんがどうしてあの2人はあんなに言い合うのかと話していましたが、まったく同感です。
そしてそれに波長を合わせている人が多いのにも私は不思議でなりません。

権力たちは、もしかしたら「平和」を望んでいないのかもしれません。
言い方を変えれば、「争い」で自らの「平和」が得られると思っているのかもしれません。

問題を解決したいのであれば、違いから入るのではなく、同じところから入るのがいいでしょう。
大切なことは、平和を望んでいるのは誰であり、争いを望んでいるのは誰かということを見極まることです。

友だちを増やしましょう。
世界を広げましょう。
お互いに知り合えば、戦争などなくなるでしょう。
そんな思いで、湯島ではサロンを続けています。
百年河清を俟つのも、またいいものです。


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2017/09/22

■節子への挽歌3670:人の人生は死で終わるのではない

節子
雨です。
午前中、我孫子の教育委員会に寄ったのですが、外に出たらすごい雨です。
幸いに原田さんが車で連れて行ってくれたので大丈夫でしたが、そのまま駅に送ってもらい湯島に着いたら、晴れていました。
ところが、最初の来客と話しているうちに湯島も雨が降り始め、そのままなんだかくら~い1日になってしまいました。

最初の来客から夕方のミーティングまで2時間以上の時間ができてしまいました。
それでまた書類の整理を始めました。
整理といっても基本は廃棄です。
一挙には廃棄できないので少しずつやっているのですが、いつも自分のこの30年を思い出すような作業になります。
忘れていた友人からの手紙が出てきたり、私の意気込んだ呼びかけ文が出てきたり、退屈しません。
気がついたら2時間がたっていましたが、ほとんど作業は進んでいません。
東尋坊での合宿のビデオが出てきて、それも見てしまっていたのです。
あの時のみんなはどうしているでしょうか。

改めて過去の資料などを読んでいると、実にいろんなことをやってきています。
それなりに面白くやりがいもあったのですが、まあしかし、だからなんだという気もします。
もっと地道に、節子と一緒に何かをやっていれば、私の人生も変わっていたことでしょう。
しっかりと取り組んでいる人は、それなりに成果を生み出していますが、私の場合は、いろんなことをやりすぎて、いまとなっては何も残っていません。
誰の役にも立たずに、ただただわがままに生きてきただけです。
困ったのです。

しかし、この30年の間に、本当にたくさんの人と出会い、たくさんのことに関わらせてもらいました。
それができたのも、当時は意識していませんでしたが、節子のおかげです。
この頃、それがよくわかってきました。
節子がいなくなってからの私の活動量はとても狭くなってしまっています。
それに勢いもビジョンもなくなってしまっているように思います。
第一、誰かの役立つことは何もできていない気がします。

人の人生は、死で終わるのではないことがよくわかります。
私の場合、もう終わっているわけですが、それを認める潔さがないのです。
困ったものです。

そろそろ夜のミーティングのメンバーがやってくる時間です。
さてコーヒーでも淹れておきましょう。
今日はブレンドもののモカです。
私には4杯目のコーヒーです。
おなかが減ってきたので、誰か何かお菓子でないものを持ってきてくれるといいのですが、まあ期待できないでしょう。

今日もまた昼食を食べ損なってしまいました。
困ったものです。

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■出会い頭にぶつかりそうになってヒヤリとした経験はありませんか

湯島サロンの仲間でもある小宮山さんの会社(コミー株式会社)はFFミラーという、一見すると凸面のミラーを感じさせる平板な広角ミラーをはじめとして、いろんなミラーを社会に提供しています。
しかし、ただミラーを売っているのではなく、自分の会社の技術や知恵を使って、たとえば衝突事故を減らすように、安全で安心して暮らせる社会に近づけたいと思っています。
そのコミーが、今日の日本経済新聞の朝刊に全面広告を出しました。
そして「出会い頭にぶつかりそうになって、ヒヤリとした経験」を募集しています。

ヒヤリ体験を集めて、そうしたことを防いでいくために自分たちにできることはないかという活動を始めたのです。

実は小宮山さんは、物理的な衝突だけを考えているわけではないような気がしています。
そのあたりは話し出すと長くなるのでやめますが、小宮山さんの世界は実に不思議なのです。
たとえば今回の広告の右下に、小宮山さんが作詞した「鏡の唄」が紹介されています。
いろんな歌のメロディに合わせて歌えます。
唄と衝突とどうつながるのか。

いつか湯島で小宮山さんにサロンをしてもらおうかと思っています。

それはそれとして、みなさん、ぜひ衝突ヒヤリ体験を応募してください。
社会をもっと安全で安心な世界にしていくために。

20170922

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2017/09/21

■ソクラテスの嘆き

20日の国連総会で、安倍首相は北朝鮮について、「脅威はかつてなく重大で、眼前に差し迫ったものだ」と述べ、「必要なのは対話ではなく圧力だ」と強調したと報道されています。

いま、50年前に出版されたチャールズ・オスグッドの「戦争と平和の心理学」を読み直しているのですが、ちょうど昨日読んだところに、アメリカとソ連の冷戦関係の時に、アメリカ人とソ連人にソクラテスがインタビューした話(もちろんフィクションです)が出てきます。
それぞれにインタビュー後、ソクラテスは嘆いて言うのです。

「神よ。他人の立場に立って自分の立場が眺められるような能力を、我々すべてに授け給え」
ソクラテスはさらに続けます。
「神よ。自分の立場に立って他人の立場を眺められるような能力を、同じく我々すべてに授け給え」
両国民とも、自分たちはまったく責める気がないのに、相手が攻めてくることを恐れているのです。
オスグッドは、これを普通の生身の人間に要求するということは容易なことではないと書いています。
しかしもし平和を望むのであれば、相手を信頼して「緊張緩和の漸進的交互行為」に踏み出す勇気(GRIT)を持つことだと言っています。
緊張緩和の漸進的交互行は、Graduated and Reciprocal Initiative in Tension-reduction の訳語ですが、頭文字を取ればGRITになります。
核抑止力に関する強力なアンチテーゼとして提案された考えです。

ついでにもうひとつ。
一度紹介したことがあるキム・ジヒャンさんの「開城工団の人々」(地湧社)に出てくる話です。
開城工団(ケソン工業団地)は、北朝鮮が韓国の企業を誘致して北朝鮮国内につくった工業団地で、そこでは韓国の人と北朝鮮の人が一緒に働いていました。
韓国の人も北朝鮮の人も、最初は、お互いに相手を角の生えた鬼くらいに思っていたそうです。
同じ国家の国民だった人たちが、50年もたてば、そうなってしまうのです。

相手を信頼する勇気こそ、私が大事にしていることです。
相手も自分と同じ人間であることに気がつけば、その勇気は出てきます。
時に裏切られるとしても、自分もまた時に裏切ることがないとは言えないことを思えば、許せます。
相手を信頼できない人は、私からすれば、よほど性悪な人なのでしょう。
性悪で弱虫のチキンレースがどんな結末になるのか、思うだけでもおぞましいです。

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■節子への挽歌3669:すぎの梨園の王秋梨

節子
杉野さんの梨園に行ってきました。
ちょっと遅かったので、もうみんな仕事を終えて、後片付けの最中でした。
いつもはネットで仕切られている梨園が開いていたので中に入らせてもらいました。
私が知らなかった王秋梨がたわわになっていました。
これから広がっていくのではないかと杉野さんは話してくれました。

王秋梨は、写真に見るように、形状がラグビーボールのようで、大型。
中国梨との交配種で、貯蔵性が高く、年明け後まで保存できるそうです。
一般に梨はあまり日持ちがしませんが、この王秋梨は3か月くらい持つそうです。
なだ収穫期には至っていないそうで、10月に入ってから中旬くらいまでが収穫期だそうです。
またその頃にうかがおうと思います。
シーズン最後の梨というわけです。

すぎの梨園の梨は節子が大好きでした。
節子に連れて行ってもらったことがあり、そのご縁で私もつき合わさせてもらっています。
ですから、すぎの梨園に行くときは、いつも節子が一緒のような気がするのです。

杉野さんは家族みんなで梨園を拠点にさまざまな活動をしています。
いつ伺っても、みんなが楽しそうに仕事をしています。
それが実にうらやましいです。
私にはもう望めないですが。

今日は5種類の梨をわけてもらってきました。
これまでは幸水の時期が終わると梨はあまり食べなくなっていたのですが、王秋梨は保存が聞く品種だそうです。
10月中旬に収穫したものは年を超しても大丈夫だそうです。
来年の正月には梨が食べられそうです。
節子にもお供えしようと思います。


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■森友・加計学園問題は「小さな問題」?

今朝の朝日新聞の社説に、「森友・加計 どこが「小さな問題」か」と題して、自民党の二階幹事長の記者会見が批判されていました。
臨時国会冒頭での解散について、森友・加計学園の「疑惑隠し」ではないかと問われて、二階さんが、「我々はそんな小さな、小さなというか、そういうものを、問題を隠したりなどは考えていない」(朝日新聞社説の表現)と答えたことへの批判です。
たしかに、森友・加計問題は「小さな問題」などではないことは同感です。

しかし、二階さんの記者会見をテレビで見ていた者としては、ちょっと違和感があります。
二階さんは、森友・加計問題が「小さな問題」だとは言っていないように感じています。
たしかに文字にしてしまうと、そう思われるかもしれません。
しかし、二階さんが言ったのは、野党が非難するような具体的な理由からの解散ではなく、国政の大きな方向を国民に問うための大義に基づいての判断だということだと思います。
少なくとも私にはそう聞こえました。
二階さんは失礼ながら口下手ですが、その朴訥とした発言からいつも感ずるのは大きな視点からの判断です。
もちろん私はその判断そのものに、いつもほとんど否定的なのですが、それは価値観やビジョンの違いです。
そのレベルで批判するのはいいのですが、言葉をあえて都合よく解釈しての批判は、私には賛成できません。

そうした形の批判がいま蔓延しています。
野党の批判が常に私には腹立たしいのは、本質を突くのではなく、表層的な批判に堕しているからです。
要するに批判する基準がないとしか思えません。
なぜなら民進党も小池新党も、要はその基本理念において、安倍政権となんら変わらないため、そういう些末な批判しかできないのではないかと思います。
前原さんの発言も、なんだか借り物のような発言ばかりで信念を感じません。
小池新党に至っては、内容が全くありません。
だからこそ何も考えていない大衆に受けるのでしょうが。

ちなみに、森友・加計学園問題を「小さな問題」にしてしまったのは、野党とマスコミだと思います。
野党は国会であれだけの時間をかけながら、週刊誌での話題のレベルに問題を矮小化してしまいました。
マスコミへの話題提供のサービスとしか思えません。
方針は揺らぐことなく、森友学園は抹消され、加計学園は認可前だというのに校舎の建設はすでにかなり進んでいます。
首相によって憲法が無視される国ですから、国会の議論などどうでもいい話なのです。
野党が分裂と言いますが、要するに野党などないのです。

こんなことは書くつもりはなかったのですが、私の書いた別の記事のコメントについつい徴発されて、またいささか過剰に書いてしまいました。
ついでに言えば、テレビの報道番組はみんな安倍政権支持のキャンペーンを張っているように思えてなりません。
みんなよほど安倍さんが好きなのでしょうね。
だから解散を喜んでいないのではないかと思えてなりません。

久しぶりに書きすぎてしまいました。
困ったものです。
はい。

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■カフェサロン「呼吸器の子・重い障害を生きる意味」のご案内

3年ぶりに、小児外科医の松永正訓さんのサロンを開催します。
前回は、著書「運命の子 トリソミー」を中心にして、「人間」や「生命」の意味を問い直し、人間の関係性(社会)とは何かを、とても生き生きと一人称自動詞で語っていただきましたが、今回は、今春出版された「呼吸器の子」(現代書館)を中心に、さらに深まった松永さんの人間観をお聞きしたいと思います。
松永さんからのメッセージを紹介します。

意識が乏しく寝たきりで、人工呼吸器を付けて自宅で暮らす小学生に私は出会いました。
こうしたご家族に対して私たちは、悲惨であるとか、社会から孤立しているという先入観を持ってしまいます。
しかし在宅呼吸器の子の日常を、私たちは具体的に知っているでしょうか? 
拙著『呼吸器の子』を読み解きながら、重い障害を生きることの意味を考え、私たちの心の中にある障害児に対する思い込みを乗り越えていきたいと思います。

同書を読まれた方も多いと思いますが、私は改めて、生きるということの豊かさと意味を教えられたような気がしました。
同書の最後に書かれている松永さんのメッセージも心に響きます。

本書は、私たちの中に潜む差別思想に対するカウンターブローになるだろうか。
たった一冊の本にそれだけの力はないかもしれないが、可能性を信じないことには世界は何も変わっていかない。
私は愚直に信じることにする。

タイトルから、ちょっと専門的な「重い」話だと思われる方がいるかもしれませんが、むしろすべての人の生き方につながっていく、日常的な「明るい」話し合いにしたいです。
前回に引き続き、気づかされることの多いサロンになると思います。
ぜひお気軽にご参加ください。

できれば、事前に「呼吸器の子」をお読みいただければと思います。
「呼吸器の子」は、私のサイトに少しだけ紹介しています。
http://cws.c.ooco.jp/books.htm#170709

○日時:2017年9月30日(土曜日)午後3時半~5時半
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○問題提起者:松永正訓さん(小児科医師)
○会費:500円。

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■カフェサロン「今を生きる先住民族」のお誘い

サロンをやっていると、次々と「知らないこと」が見えてきます。
先日、イスラムのサロンを開きましたが、国内にも知らないことが山のようにあります。
そこで今回は、日本の先住民族である「アイヌ」との交流を重ねている写真家の井口康弘さんにお話をしてもらうことにしました。
井口さんは、いろんな国のマイノリティ(少数民族)とお付き合いがある方ですが、そうした人々の生き方に魅了されているようで、私から見るとご自身も見事にマイノリティの世界を生きています。
だからきっとマイノリティの魅力が見えているのでしょう。

私はアイヌの人たちとの交流は全くありません。
同じ日本人でありながら、イスラム以上に遠い存在です。
アイヌ文様の美しさには魅了されますが(南米のマヤの文様との類似性を強く感じます)、ユーカリの世界には共感しながらもなかなか入れません。
それはたぶん、アイヌの人との接点がないからかもしれません。
知識だけでは世界は見えてきません。
ですから生活の次元でもアイヌの人たちと交流のある井口さんの話をとても聞きたいと思っていました。

井口さんの視点は観察者の視点ではありません。
相手の世界に見事に溶融しながら、しかし、視座がぶれることはありません。
もしかしたら、これが写真家の感性であり、哲学者の理性なのかもしれません。

アイヌに関しても、「歴史を踏まえて、私たち和人(マジョリティ)は先住民族に対してどのような生き方ができるだろうか」というのが井口さんの視点です。
どうしたらアイヌ民族の権利の回復に役立てるか、そのために自分ができることはないか。
常に自らの生き方につなげて考えている。
「後から住みだした人々(和人)が何を奪ってきたのか、という点は明らかにしておきたい」と井口さんは考えています。

アイヌに対するイメージも、さまざまでしょう。
どこかに差別の意識がある一方で、文化や精神性に関しては、どこかに羨望の意識もある。
そんな多面的な視点から、アイヌの人たちの生き方を通して、私たち自身の生き方を問い質してくれるはずです。
もしかしたら、私たちの中にある「マイノリティ」の世界に気づかせてくれるかもしれません。

これは、過去の話ではありません。
アイヌとの関係のようなことは、いまもさまざまな形で、世界に満ち溢れているのかもしれません。
自らのうちにある「マイノリティ」の自分に気づけば、私たちはもっと寛容に、もっと優しくなれるかもしれません。

東京オリンピックの開会式では100人規模のアイヌのパフォーマンスが検討されているそうです。
オリンピックの開会式で少数民族のパフォーマンスを行う最近の風潮には、私は否定的ですが、それでもそれによって、アイヌへの理解が深まることになるのであれば、そのチャンスは活かしたいとは思います。
井口さんは、「日本人として日本の先住民族のことを少しでも語れないと恥ずかしい」と言いますが、それにも共感します。
そんなわけで、このサロンに参加すると少しだけ恥をかかなくてすむようになるかもしれません。

当日は、写真や映像を交えて、身近な存在としてのアイヌのお話をしてくださる予定です。
きっとまた大きな発見があるはずです。
みなさんの参加をお待ちしています。

○日時:2017年10月14日(土曜日)午後2時~4時(1時半開場)
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○問題提起者:井口康弘さん(写真家の哲学者)
○テーマ:「今を生きる先住民族」
○会費:500円。
○申込先:qzy00757@nifty.com(佐藤)

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■節子への挽歌3668:人が気付くのは、いつもすべてが終わってから

節子
数学者の、というよりも哲学者の、と言った方がいいかもしれませんが、岡潔さんは、日本人が持たされるようになってしまった近代的自我は結局「無明」だと言っています。
「ほんとうの自分」とか「自我」は「無明」のあらわれだというわけです。
この頃になって、そういうことが実感できるようになってきました。
人は歳を重ねるにつれて、自分がいかに無知であり、無明であり、空であるかを思い知らされます。
彼岸に次第に近づいて、いつか彼岸入りしていくのでしょう。

しかし、十分な備えなしに彼岸に旅立った節子はどうだったでしょうか。
当時は、私自身も此岸しか見えていなかったために、何の手助けも、何の支えもできませんでした。
それが時々、思い出されて、後悔の念に襲われます。
私自身なんと余裕のない、狭い世界を生きていたことか。
人が気付くのは、いつもすべてが終わってからなのです。

今日は、気持ちのいい秋日和です。
節子がいたら、きっと霧降高原にでも行こうかと言いだしたでしょう。
そんな気がするような、さわやかな朝です。
それなのに、どうも気分はさわやかになりません。
自らの無明さから、抜け出られないのがさびしいです。
もう少し歳を重ねなければいけないようです。

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2017/09/20

■節子への挽歌3667:銀行の残高を見て驚きました

節子
また振替ができないので入金してくださいという手紙が来ました。
銀行預金は入金しないとどんどん減るようです。
まあそんなことは私でも知っているのですが、長年そういうことに無頓着に生きてきたせいで、うっかりすることが多いのです。

この世からお金というものがなくなればいいのにといつも思います。
そのくせ、時々宝くじを買ってしまいます。
お金さえあればいろんなことができると、時々、魔がさしたように思ってしまうのです。
お金がないために支えられなかった人もいます。
しかしお金があったために、関係がおかしくなった人もいますから、どちらがいいのかはわかりません。

それにしてもお金とは煩わしいものです。
言い換えれば、お金はそれだけ便利なものなのでしょう。
お金があればたいていのことはできるのです。
その生活に慣れてしまうと、逆にお金がないとたいていのことができなくなってしまうわけです。
最近の私は、あまりお金には依存していないつもりですが、そもそも生きていること自体にお金がかかってしまうようになっているのでしょう。
生活費のほとんどすべてが銀行からの引き落としであり、私の収入の年金も銀行への自動振り込みなので、実際に私がお金に触れる機会はあまりありません。
私には理想的なスタイルですが、でも必ずどこかでお金がかかっていると思うと不思議な気がします。

さてその銀行口座の残高もいささか危うい水準になってきたようです。
さてどうなっていくか、楽しみです。
お金は天下のまわりものですから、きっとどこかから回ってくるでしょう。
回ってこないとしたら、そろそろ仕事をやめてのんびりしろということなのかもしれません。

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■サロン「私が考える日本の政治課題ー新党創設の動きに絡めて」のご案内

民主主義をテーマにした、リンカーンクラブのサロンのご案内です。
リンカーンクラブ主催の「日本の政治課題を考える」シリーズのサロンをスタートさせます。

リンカーンクラブ代表の武田文彦さんが、その時々の話題を取り上げて、民主主義の視点から問題提起をしていきます。
時にはゲストもお呼びしたいと思っていますが、一番大切にしたいのは、参加者のさまざまな意見の出合いです。
武田さんのキースピーチは、そのための火付け役と考えています。
さまざまな異論反論が飛び交いながら、お互いに気づき合い学び合う場になればと思っています。

第1回目は、いま話題になっている「新党創設の動き」に絡めて、いまの政治状況と政治課題を武田さんの独自の視点で俎上にあげてもらいます。
異論反論大歓迎です。
奮ってご参加ください。

参加される方は、できれば事前にご連絡ください。
よろしくお願いいたします。

〇日時:2017年10月9日(月曜日ですが休日です) 午後1時半~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ(リンカーンクラブ事務局)
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇会費:500円
〇問題提起者:武田文彦さん(リンカーンクラブ代表)
〇テーマ:私が考える日本の政治課題ー新党創設の動きに絡めて
〇申込先:リンカーンクラブ事務局(info@lincolnclub.net


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■解散はいつでも大歓迎です

ルソーの「社会契約論」に、「イギリス人民は、自分たちは自由だと思っているが、それは大間違いである。彼らが自由なのは、議員を選挙するあいだだけのことで、議員が選ばれてしまうと、彼らは奴隷となり、何ものでもなくなる。自由であるこの短い期間に、彼らが自由をどう用いているかを見れば、自由を失うのも当然と思われる」と書いています。
これは国民主権を謳う憲法のもとで生活している日本人にも当てはまります。
主権を行使できるわずかな時間が、選挙の時期なのです。
そういう視点から考えれば、今回の解散は喜ばしいことではないかと私は思います。
なにしろ自らの意思を表明できるのですから。

大義名分がないとか、対抗勢力が弱い状況だとか、問題隠しの解散だとか、野党は言っていますが、そういう発想は私にはまったく共感できません。
自らのだらしなさとやる気のなさを露呈しているだけの話です。
相手を責めるだけの存在では、野党とは言えません。
寄生党というべきでしょう。
民進党も小池新党も、私には亜流自民党にしか見えません。
つまり自民党の一派閥です。

国民も、反安倍の受け皿がないと言います。
そんなことはありません。
受け皿はその気になれば見えてくるものです。
それに投票で白紙を投ずるのも選択肢でしょう。
いくらでも行動できることはあります。
先の都知事選挙の時には、最初から受け皿があったわけでもありません。
もっとも国民の半数は安倍政権を支持しているわけですから、反安倍政党が生まれないのも当然かもしれません。
みんな口では批判しながら、それに甘んじて寄生しているとしか思えません。
まあ私もそうなのかもしれません。

しかし、そうであっても、私は解散は大歓迎です。
自分の意思を政治に反映できるチャンスなのですから。
投票する対象ももちろん決まっています。
それに、解散選挙であれば、それぞれの政治家が考えていることが見えてきますし、政治論議も広がります。
主権者にとっては歓迎すべきことなのです。
大義のない解散などと言っている人の考えがわかりません。
野党にとって解散は大きなチャンスです。
そのチャンスを活かすことなく、解散することを非難している野党は、民主主義をなんだと思って言うのか。
恥を知れ、無知を知れ、と、私は思います。

前原さんは、呼びかける相手を間違っています。
共産党にもがっかりです。
彼らにも、恥を知れ、無知を知れ、と、私は言いたいです。

この機会を活かそうではありませんか。
ルソーが言うように、奴隷状況から解放される、僅かばかりの好機なのですから。

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2017/09/19

■節子への挽歌3666:余計かも知れないおせっかい

節子
また挽歌がたまってしまいました。
ということは、また予想していなかったことが起こってしまったということでもあるのですが、まあ何とかほぼ山を乗り越えました。
それにしても人生はいろいろとあるものです。

15日は久しぶりに大阪に行ってきました。
ある人同士を引き合わせるために一緒に行ったのですが、考えてみれば、何で行くことにしたのか、後で考えたら後悔しました。
そんなことをやっているので経済的にも時間的にも厳しくなっていくのかもしれません。
できればそのついでに自分の用事も果たしたかったのですが、そんな余裕はありませんでした。
ただただ疲れただけです。

まあこういうことはよくあることではありますが、他者のために大阪まで行くというのはよほどのお人好しだと思われかねません。
しかし、そんなことはないのです。
節子も知っている鈴木さんからハガキが届きました。
サンティアゴ巡礼で会ったデンマーク人夫妻が四国巡礼にやってきたそうです。
やや高齢の方たちなのでちょっと心配らしいようです。
サンティアゴと違い日本の民宿は外国語での予約が簡単ではなさそうです。
そこで最初の1週間ほど、一緒に歩こうかと連絡したのだそうです。
そして実際に行くことにしたのだそうです。
昨日、1日目の民宿を予約し、明日、自分もでかけることにしたそうです。
こういう人もいるのです。

考えてみると最近の私の活動はほとんどみんな「誰かに頼まれてのこと」です。
正確に言えば、「頼まれた」わけではないのに「何か役立ちたい」という思いでやっていることが多い気がします。
もっともそれが本当にその人の役に立っているかはわかりません。
感謝してくれる人もいますが、感謝してくれない人もいます。
私が過剰に反応して迷惑している人もいるかもしれません。

まあそんなこんなで、この数日ちょっとまた忙しくしていました。
困ったものですが。

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■カフェサロン「医療・社会保障崩壊のルーツは明治維新」のご案内

高齢社会の到来で、日本における医療のあり方への関心は高まっており、さまざまな新しい試みも広がりだしています。
湯島のサロンでも、時々、医療制度の話題がでますが、なかなか取り組めないでいるテーマです。
しかし、私たちの生活にとって、医療制度や医療政策のあり方はとても大きな影響をもっています。
9月には、「呼吸器の子」をテーマにしたサロンも開催する予定ですが(9月30日)、そうした問題を考えていくためにも、「医療制度・医療政策」や「病院」の問題もこれから取り上げていきたいと思っています。


そこで、まずは長年、医師の立場で、日本の医療制度改革に取り組んできている本田宏さんに、日本の医療や社会保障が置かれている状況に関する基本的なお話をしていただくことにしました。


本田さんは、36年間外科医としてのお仕事をされるかたわら、NPO法人医療制度研究会の副理事長として、マスコミなどでも積極的に発言してきましたが、還暦を迎えたのを機に一昨年、外科医を引退し、医療再生のための活動に加えて、さまざまな市民活動に積極的に参加し、もっと住みよい社会に向けての幅広い連帯を目指す活動に専念されだしています。
その思いは、このままだと日本の医療は崩壊してしまう、それを阻止するためには、日本そのものを真の民主国家に転化をしなければという危機感です。


本田さんの視野は、長く深く広いので、普通はなかなか見えてこない問題を明らかにしてくれるものと思います。
今回もそんなことを感じさせるタイトルです。


本田さんからは、次のようなメッセージをもらっています。


医師不足に疑問を抱き、十数年以上医療や社会保障再生を目指して活動した外科医がたどり着いたのは明治維新だった。
明治維新は薩長の下級武士が大英帝国のアヘンマネーを背景に、皇室を錦の御旗に政治利用して徳川から政権を奪取したクーデターだった。そして彼らによるクレプトクラシー(収奪・盗賊政治)は敗戦後70年以上経過した現在も続いている。

ちょっと話が大きすぎて腰が引ける人もいるかもしれませんが、生々しい医療の現場で活動してきた本田さんのお話は具体的でわかりやすいですから、ぜひとも多くの人に聞いていただきたいと思います。
話はたぶん医療制度を超えて、社会のあり方や私たちの生き方につながっていくはずです。
本田さんがいま取り組んでいる活動やそのビジョンも話してもらえると思います。
とにかくエネルギッシュな人ですので、話に圧倒されるかもしれませんが、それに負けずに積極的な異論反論が飛び交うサロンにしたいと思っています。
もちろん、しっかりとお話を聞いて勉強したいという方も、大歓迎です。


まわりの方もぜひお誘いください。

○日時:2017年10月29日(日曜日)午後2時~4時(1時半開場)
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○問題提起者:本田宏さん(医療制度研究会副理事長)
○テーマ:「医療・社会保障崩壊のルーツは明治維新」
○会費:500円。

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2017/09/18

■カフェサロン「となりのムスリムにイスラムのことを聞いてみよう」の報告

台風が心配されるなか開催された第1回イスラムサロンは16人のサロンになりました。
テーマの関係かもしれませんが、初参加の方も数名いました。
話し手のムスリムのオプさんの家族(パートナーと小学5年の息子さん)も参加してくれました。
息子さんも、父親からきちんとイスラムの話を聞く機会は多くないようで、自分から聞きたいと言って参加してくれたのだそうです。

まずオプさんは簡単な自己紹介をしてくれました。
最初の来日は、山口県でボランティア活動をした時だったこと。
帰国後、自国のバングラディシュで日本から来ていた美希さんと出会って結婚し、日本に移住したこと。
日本はとても住みやすいけれど、日本の人たちにもっとイスラムのことを知ってほしいと思っていること。
イスラムの信仰は深いけれど、1日5回の礼拝などの戒律に関しては、その精神を大切にして、必ずしも形には縛られていないこと。
いまは日本の企業で働いているが、バングラディシュと日本をつなぐ活動がしたいこと。
イスラムのこともバングラディシュのことも、もっと多くの日本人に知ってほしいと思っていること。

それに続いて、オプさんは参加者に、イスラムのイメージや知りたいことなどを問いかけました。
いろんな視点からの関心事や質問がありました。
オプさんはイスラムにネガティブイメージを持っている人が多いのではないかと思っていたようですが、むしろイスラムに好感を持っている人が多かったのが意外だったようです。

オプさんはみんなの質問に答えるような形で、話をしてくれました。
イスラムの教えでは、ハラールとハラームということがよく言われます。
「許されていること」と「禁じられていること」で、たとえば、豚肉とアルコール類は禁じられています。
オプさんは、それにはきちんと理由があってそうなったのだといいます。
でも今はその理由がもうなくなったものもあるはずで、オプさんとしては時代に合わせて、自分で判断しているそうです。
礼拝で唱える言葉の意味は必ずしも意味明快ではないそうですが、繰り返し唱えることの効用もあるという話は、日本の仏教のお経を思い出しました。

ひとわたり話してくれた後で、オプさんはイスラムの生活を支えている大事なことが5つあると説明してくれました。
「アッラーへの信仰告白」「1日5回の祈り」「チャリティ」「断食」そして「巡礼」です。
「アッラーへの信仰」をしっかりと持っていることは絶対的なものですが、祈りやチャリティや巡礼は、その精神をしっかりと持っていればいいというのがオプさんの考えです。
困っている人がいたら、むしろ巡礼費用をチャリティに使うことで巡礼に行ったと同じと認められるというような話もコーランにあるそうです。
オプさんは、ムスリムと言っても、そうした戒律を厳格に守っている人もいれば、柔軟に捉えている人もいると言います。

断食に関しても、食を断つことが目的ではなく、我欲を自制し、自らが苦しみを体験することで、他人の痛みや苦しみを知るところに意味があると言います。
それに夜になれば、みんなで一緒に食べるという喜びもセットになっていることを知ってほしいいと話してくれました。

複数の妻帯が認められているのかという質問もありましたが、オプさんはそれは貧しい時代にみんなで助け合うというチャリティの意味もあったと説明してくれました。
そういうように、厳しく感じられる戒律にも、みんなが支え合って生きていくための知恵が、その基本にあるわけです。
しかしそうした「生きていくための知恵」として生まれた戒律が、誰かによって悪用されている現実があることに関してもオプさんは残念だと思っているようです。

ジハード(聖戦)についても大きな誤解があるようです。
最近のIS関係の報道を通して、好戦的なイメージが広がっていますが、ジハードとは、本来「神の道のために努力する」ということで、むしろ自分に克つという意味合いが強いと言います。
聖戦と言っても、それはムスリムの共同体の防衛のためであって、攻撃を正当化することはないし、コーランでは殺人は厳しく禁じられているそうです。

他にもいろんな話がありましたが、私の記憶に残っていることを少し紹介させてもらいました。
オプさんは、イスラムと言ってもいろいろあるので、画一的に考えないでほしいとも話されました。
たしかにムスリムの女性たちの服装も国によって違います。
オプさんと美希さんの結婚式の写真を見せてもらいましたが、女性たちはみんな実にカラフルで、スカーフなどで顔を覆ってもいませんでした。

サロンでの話を聞いていて、私が感じたのは、ムスリムの戒律には富の再半分機能と社会秩序の維持機能が見事に埋め込まれているということです。
そこから学ぶことはたくさんありそうだということです。
でもまだ1回だけのサロンですから、そんな気がしただけというべきかもしれません。

オプさんは、イスラムの本当の実態がなかなか伝わっていないことを残念に思っています。
ですから、日本の人たちにももっとイスラムのことを話したいと考えています。
日本人がイスラムのことをどう思っているかについても知りたいでしょう。
一方、日本人は、イスラムのことも知りたくてもなかなか話を聞く機会がありません。
今回のサロンは、双方にとって理解し合う契機になりました。
イスラムサロンは継続して開催していきますので、まわりにムスリムがいたらぜひ話に来てもらってください。
私に連絡してもらえれば、場をセットします。
できれば、定期的なムスリムとの交流の場が生まれればと思っています。

ちなみに、オプさんの息子のサミーくんも初めてお父さんからイスラムのことをきいて、イメージがちょっと変わったそうです。
それにとても面白かったので、また参加したいと言ってくれました。
サミーくんのためにも、このサロンはつづけようと思います。

とても気づかされることの多い、また何かが生まれそうな予感のするサロンでした。
オプさん家族と参加されたみなさんに、感謝しています。

Apu01 


Apu02


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2017/09/17

■「みんなのゆる~いカフェ」のご案内

8月に開催して好評だったので、また平日夜の「湯島みんカフェ」(みんなのゆる~いカフェ)を開きます。
前回は、一応、「居場所」がテーマでしたが、今回はテーマなしです。
前回以上に、ゆる~いサロンにしたいです。
途中での出入りももちろん自由。
私は、今回こそコーヒーを淹れる役に徹します。
確約はできませんが。

来たくなったら、気楽に来てください。
突然の参加も歓迎です。
申し込んでいたけれど、当日行けなくなったという人は、無断不参加も歓迎です。
ともかく、だいたいのことが何でも許される、ゆる~いサロンです。
お会いするのを楽しみにしています。

前回の様子は次にあります。
https://www.facebook.com/groups/557493344392535/permalink/957994617675737/

〇日時:2017年10月4日(水曜日)午後6時~8時半(途中の出入り自由)
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇参加費:気が向いたら机の上にある缶にワンコイン(1円でも500円でも自由)を入れてください。みんなでつくるサロンを目指したいものですから。

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■GRIT戦略

相変わらず北朝鮮の核開発行動が国際的な問題になっています。
私は何回か書いているように、「問題の捉え方」が間違っているように思いますし、冷静に考えたら合理性においては、米国や日本よりも北朝鮮の言動のほうに論理性を感じます。
最近ようやくそういう発言が語られだしていますが、問題の設定を間違えば、問題は解決しようもありません。
ついでにいえば、今朝の朝日新聞は拉致問題を大きく取り上げていますが、拉致問題の解決こそが核開発問題の解決にとっても出発点にあるように思います。
ここでも「問題の設定」の間違いを感じています。
解決の順番を間違えてしまえば、行きつくところは違うものになります。

ところで今日思い出したのは、チャールズ・オスグッドの「戦争と平和の心理学」です。
これもホームページやブログで何回か取り上げていますが、いまこそ読み直すべき本ではないかと思っています。
日本で翻訳が出たのが1968年です。まだ日本ではハーマン・カーンのエスカレーション理論が主流で、核抑止論が絶対的に信仰されていた時代です。
会社の上司がカーンがいたハドソン研究所に1年ほど留学したこともあって、核抑止論に違和感のあった私はそれに代わる議論はないのかと探して出会ったのがこの本でした。
この本は、私に少なからぬ影響を与えてくれました。
でもそれは今からもう半世紀近く前の話です。

この本は、当時の核抑止力のためのエスカレーション戦略に対して、まずは相手を信頼して「緊張緩和の漸進的・交互的主導権」をとろうという、デ・エスカレーション戦略です。
緊張緩和の漸進的・交互的主導権、Graduated Reciprocation in Tension-reductionの頭文字をとってGRIT戦略と言われていました。
ネットでGRITを調べたら、「いま米国で最も注目されている成功のためのキーワード」という解説が出てきました。
Guts(度胸)、Resilience(復元力)、Initiative(自発性)、Tenacity(執念)の4要素からなる「やり抜く力」を意味すると書いてありました。
時代は変わってしまいました。
人類の知性はどんどん劣化しているような気がしてなりません。

チャールズ・オスグッドの「戦争と平和の心理学」は、アマゾンで100円前後で購入できます。
読んでもらえるとうれしいです。
GRIT戦略は、いわば「逆向きの軍備競争」ですが、ポイントは2つあります。
ひとつは「自らがしてほしいと思うことを他者にも行なえ」という欧米の黄金律の実行です。
私は、この黄金律には否定的ですが、東洋の黄金律と言われる「自らがされたくないことを他者にしてはならない」にも通じています。
もうひとつは、コミュニケーションは言語よりも行為で行われるということです。
つまり、GRIT戦略は何も国際紛争だけに適用されるものではありません。
成功のためのキーワードではなく、平安に生きるための原理です。
きっと生きる上でのヒントが得られると思います。

読まれた感想を聞かせてもらえるとうれしいです。

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2017/09/15

■節子への挽歌3665:夢の話

節子
長い、それもかなりはっきりした夢を見ました。
残念ながら節子は出てきませんでしたが、場所は湯島のオフィスでした。
間違って隣の部屋に入ってしまったのですが、そこに不思議な風景がありました。
空間的にはあり得ないはずの広い部屋があったのです。
昨日、新たに引っ越してきたという若者がいました。
スポーツ万能、語学万能、そして実に奔放な若者です。
つまり私に欠けているすべてを持ち具えた人です。
空間はたぶん次元を一つ上げることで創出しているのでしょう。
実に広々とした空間になっていて、実に住み心地がよさそうです。
なぜか窓の外の風景までもちがっていました。

私の部屋に移って、コーヒーを飲んで話すことになりました。
ところがコーヒーを淹れる前に、彼はそこに置いてあったコーヒーカップでコーヒーを飲み始めました。
つまり空のカップを彼がつかんだら、コーヒーが湧き出るように出てきたということです。
いささかムッとして、私の入れるコーヒーを飲むように言うと、そのカップのコーヒーは消えました。
そんな細かなことまできちんと記憶に残っています。
近年、起きた途端に夢は思い出せなくなるのですが、今朝ははっきりと覚えています。

問題はそこからです。
彼と話していると、今度は私の部屋に次々といろんな人がやってきます。
彼らは私の部屋を購入したか、あるいは所有しているようです。
づかづかと入ってくるのです。
話している言語もよくわからない。
私が慌てて対処しようとしているのに、隣の彼は穏やかにコーヒーを飲んでいる。
しかし私の困惑を見て、彼が何か言うと、みんなおとなしく部屋から出ていくのです。
その言語は、聞いたこともない言語というか、私には聞こえなかったような気がします。
気づいたのは、私の部屋も空間次元が違っているのかもしれないということです。
そういえば、巨体の黒人が入ってくるなり、あるはずもない玄関横の壁の上部の物入れを開けて何かを出していました。

さらに奇妙なのは、明後日17日に開くイスラムのサロンに参加しないかと私が彼に誘っているのです。
ここだけいやに現実的な話なのです。
参加者がちょっと少ないので気になっているのが夢にまで出てきたわけです。
彼は、持っていたはずもない予定が書かれた手帳を出して予定をチェックしました。
午前中はどこかで予定があるようですが、午後は大丈夫かもしれないと言います。
そこで目が覚めました。

わけの分からない夢のことを長々書いてしまいました。
夢の内容がやけに詳しく記憶に残っているのが気になったのです。

夢というものは不思議です。
夢と現実はどこかできっとつながっているという思いを私はずっと持っています。
夢の中に、それまで会ったこともない人が出てきて、それもかなり親しくやりとりすることがあります。
どう考えても納得できません。
前世か来世であったことがなければ、あそこまでリアルな感じは出てこないのではないかと思うのです。
夢を通して、私たちは前世や来世や、さらには異次元の世界とつながっている。
そして私たちは、自分では気づかないままに、そうしたたくさんのパラレルワールドを往来しながら生きている。
そう考えれば、現世の死とは、違う世界への移住なのかもしれません。

昨夜は久しぶりに5時間ほど続けて眠れました。
めずらしいことです。
上に書いた夢は、その後、また眠ってしまい、そこで見た夢です。
節子が出てこなかったことが、ちょっと気になりますが。

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2017/09/14

■節子への挽歌3664:来年のカレンダーがもう売りだされていました

節子
今日はあっという間に1日が終わってしまいました。
しかしそのあっという間にいろんなことがありました。
不幸なことに、また新たにやりたいことにも出会ってしまいました。
いつになってもゆったりする生き方に向かえません。
困ったものです。

時間の合間に用事があって100円ショップに寄りました。
なんともう来年のカレンダーや手帳が売り出されていました。
このところ毎年どんどん売りだし時期が早まってきているように思います。
どう考えても自然ではありません。
節子がいたら嘆くことでしょう。
なぜ今をもっとしっかりと誠実に生きないのか、と。
そんなことを思いながら、売り場を通り過ぎました。
こうした動きが人の生き方をおかしくしていくのでしょう。

他人事ではありません。
私も自らの生き方に気をつけなくてはいけません。
そもそも疲れたなどと毎日言うような生き方は反省しなければいけません。
節子はどんなつらい時も、愚痴をこぼしませんでした。
今ここでの誠実な生き方に心がけていました。
それを思い出さなければいけません。

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■節子への挽歌3663:「認知症」より「心身老衰」

節子
昨日はダウンしてしまいました。
一昨日3つの集まりが重なり、しかもいずれもどうもすっきりした結果にならなかったので、なんとなく気力体力ともにダウンしてしまったのです。
昨日は朝起きてもすっきりせずに、でも地元の友人との約束があったので、めずらしく朝、シャワーを浴びて元気を装って出かけました。
評判のいいお店で、お昼をご馳走になったのですが、そんな状況だったので美味しくありませんでした。
まあいろいろあって、2時過ぎには帰宅し、そのまま実はダウンしていました。
やることが山のようにあったのですが、テレビで映画を観るでもなく見ないでもなく、見ていました。
一応、他の人には忙しいと言っていますので、ここに書いてしまうと非難されそうですが、「忙しい」というのは「心を亡くす」ということですから、私としては嘘は言っていないのです。
まあ時々誤解されるのですが。
困ったものです。
前日のサロンの報告も書く気が起きずに、ただただ「忙しく」していたわけです。

夜になってようやく少し気が戻ってきて、サロンの報告を書きましたがどうも頭が回らないのです。
私はどうも「認知症」ではなく、「心身老衰」のほうに向いているようです。
最近の老衰ぶりはかなりのものです。

またつまらないことを書いてしまいましたが、今朝も寝坊をしてしまいました。
今日もまた予定が山積みですが、今日は忙しさに陥らないようにしなければいけません。
そう思いながらパソコンをしていたら、窓の外の手すりに鳩が止まって、私に何か呼びかけてきました。
私は鳩が嫌いですが(鳩に限らず鳥が嫌いです。これは手塚治虫の漫画の影響です)、実はこれは2度目なのです。
もしかしたらわが家の庭の巣から巣立った鳩かもしれません。
そう思って舞冊を返そうと思って窓を開けようとしたらなぜか逃げていきました。
失礼な鳩です。
だから私は鳩が嫌いなのです。

でも、もしかしたら、あれは節子だったのかもしれません。
節子は旅立つ直前に、また「花や鳩になってちょいちょい戻ってくる」と言っていました。
なんで鳥なのかわかりませんでしたが、鳥だと戻ってきやすいのかもしれません。
しかし、だとしたらなんで飛び立っていったのか。

世界には悩むべき問題が山積です。
少しはゆっくりとしたいです。
忙しくない、つまり心を研ぎ澄ませるようなゆっくりさです。

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2017/09/13

■憲法を考えるサロン「元軍国少女が語る憲法への思い」報告

「元軍国少女が語る憲法への思い」には20人を超える参加者がありました。
男性女性半々でした。

元軍国少女を自称されている85歳の高林さん(NPO法人認知症予防ネット理事長)のお話は、ご自身の体験に基づくものなので、説得力があり、とてもわかりやすいお話でした。
高林さんは、京都の宇治にお住まいですが、NPO法人認知症予防ネットの理事長として、長年、認知症予防活動に取り組んでいる方です。

高林さんが憲法への関心を持ったのは、地元の宇治中学校で戦争に関わる体験談をお話になったのが契機だそうです。
高林さんの話を聴いた中学生たちの感想文を読んで、自分には「軍国教育をもろにうけた者」としての視点で語り部的責任があるのではないかと考えるようになったといいます。
思ったら実行するのが、高林さんの生き方です。
そして憲法がないがしろにされている最近の政治状況への憤りもあって、憲法に関しても改めて読み直し、自らの憲法前文を自分でつくってしまいました。

案内文にも書きましたが、高林さんの思いを引用します。

敗戦の経験がなければ、憲法に注文をつけたくなるなど思いもしなかった筈です。 戦争体験と憲法は、私にとりましては表裏一体で、同学年の女学生達の中で、突出した思想の持ち主だったと思いに至ります。 怨霊のような軍国少女にも、1ミクロンの魂が残っています。

憲法と聞くだけで、何時も欲求不満がくすぶります。
私も自分なりの憲法を書いてみようと思った途端、目の前が明るくなりました。
言論の自由の前に、自分の要求を書いてみることが先だと気が付きました。

Takabayashi170912


高林さんの新憲法前文の内容は極めて明快です。
なぜ憲法を変えるのか、そして新しい憲法の理念は何かを明確に示しています。

まず、戦後、日本は「皇国史観」を否定し、主権在民、民主主義、平和憲法を軸にした、新しい憲法を制定したにもかかわらず、恣意的解釈によって9条に違反し、さらには皇国史観の残影の出没を許している現実があることを正さなければいけない、そのために、平成今上天皇の退位が定められたこの転換期に際して、再び憲法の改定を行うべきだと主張します。
そして、改めて政教分離を明確にし、天皇制についても「始めあれば終わりありという天地の公道に従うべき」と主張します。

そして、「国策」理念が、次のように、具体的に明記されます。

「明治以来の富国強兵策は、昭和20年の敗戦までの78年間に、8度の外征を行い、諸外国に多大の被害を与え、我が国もまた甚大な損害と苦難に落ちた。世界で唯一の原爆被災国の責任として、戦争絶対反対、非戦、非武装を世界に誓い、一切の武力による抵抗も行わないことを宣言し、世界平和を追求することに於いて、世界の礎となるべきことを誓う。」
したがって、「自衛隊は解散し、災害救助隊を設立する。兵器は所有しない。害獣に対する麻酔銃に限って所有することを得。世界中からの要請に応えて援助に赴くものとする」としています。
「害獣に対する麻酔銃に限って所有することを得」というのは、高林さんらしいお茶目さです。

以上が前文に明記されている内容です。
個々の条文までは高林憲法案はできていませんが、個人の尊厳を基本とする民主主義理念で一部コメントをしています。
たとえば、「子女」というような「差別用語」が憲法に使っていることを問題提起しています。
そこにこそ、憲法の理念が象徴されると高林さんは指摘するのです。


ちなみに、この「子女」という言葉はだいぶ議論の話題になったのですが、男性と女性とはまったく受け取り方が違っていました。
私は男性ですが、「子女」という日常言葉(最近はあまり使われないでしょうが)にこそ、民主主義をどう捉えているかの本質が現れると思います。
言葉は思考を露呈し、同時に指向を規定します。

皇国史観に関しては、この説明では少しわかりにくいかと思いますが、実はここには高林さんの深い思いもあるのです。
残念ながら今回は、そこまでは踏み込んだ話し合いはできませんでした。
ここには高林さん一流の遊びや余裕も含意されているので、遊び心のある人たちで話し合うと面白いサロンになりそうです。


国策としての「非武装」主義に関しては、反論も多かったです。
最近の国際政治状況を踏まえて、核武装論まで出ましたが、武装によって平和が実現した国家などないという指摘と、逆に非武装で平和を維持した国家があるのかという、「男性」たちの論争がありました。
まあいずれもないというのが正解だと思いますが、大切なのはどちらの生き方を望むかです。
もっとわかりやすくいえば、あなたは誰かを殺さないと生き残れない場合、殺す方を選びますか殺される方を選びますか、ということです。
私は、鶴見俊輔さんが「教育再定義への試み」(岩波現代文庫)で書いていた文章を思い出しました。
ちょっと長いですが、一部省略して、引用させてもらいます。

私の息子が愛読している『生きることの意味』の著者高史明の息子岡莫史が自殺した。 息子は動揺して私のところに来て、「おとうさん、自殺をしてもいいのか?」とたずねた。私の答は、「してもいい。2つのときにだ。戦争にひきだされて敵を殺せと命令された場合、敵を殺したくなかったら、自殺したらいい。(以下略)」

他にもいろんな話が出ました。

高林さんから今朝メールが届きました。

一生涯の決算を、あのような方たちの前で させていただいて、感激しました。 自衛隊を無くして、一億丸腰で、海岸線に一億が仰臥して、北朝鮮からの原爆を丸浴びする覚悟を、世界の人々に示すのが、良いと思っていますが、そこまでは時間不足で口に出せませんでした。 本当に闇夜でなくても棒で殴られても甘受する覚悟でしたが、意外と似たような御意見も聞かせて頂いて、嬉しい思いに膨らんで帰りました。

サロンに参加した人たちからもメールなどをいただきました。
男性たちはあんな感じで政治を語っているのかという女性の感想も聞けました。
こういう話をもっとしていかないといけないですねという人もいました。


高林さんは、学校で話したことなどをまとめて小冊子にしたいと考えています。
私は勝手にまた応援することにしました。
高林さんの了解は得ていませんが、断られても応援するつもりです。
資金集めもしたいですし、出版につなげて読者を広げたいです。
一緒に取り組んでくれる人がいたらご連絡ください。
よろしくお願いします。


なお、高林さんが宇治中学校で話された話の概要は下記にあります。
お時間があればお読みください。
http://cws.c.ooco.jp/takabayashi2017.pdf


憲法サロンはつづけます。

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2017/09/12

■節子への挽歌3662:他者こそ一番すぐれた鏡

節子
なにやら目まぐるしくまわりが動いています。
昔は、このめまぐるしさが、私の生命源でしたが、最近は時々自分自身が混乱してしまいます。
それに多様な相手に合わせて自らを変化させる柔軟性が弱まってきています。
生命の持つ「しなやかさ」を失いつつあるのかもしれません。
というのも、年甲斐もなく「イライラ」することが増えてきたのです。
しかし、そこはよくしたもので、その「イライラ」もすぐに忘れるようになってもきています。
認知症の始まりとも言われそうですが、むしろそれは生命の知恵でしょう。

とんでもない勘違いも増えてきました。
しかしこれも観方を変えれば、「勘違い」に気づく英明さを得たとも言えるでしょう。
若い時には自らのとんでもない勘違いや早とちり、あるいは思い込みも多かったと思いますが、それを勘違いなどとは思わずに、突っ走って来ていたのかもしれません。
特に私の場合は、あんまり常識や遠慮がある方ではなかったので、周辺には迷惑ばかりかけてきた気もします。
そもそも節子と結婚したのでさえ、その一例かもしれません。
迷惑したのは節子ばかりではなかったかもしれません。
しかしそれでもまあ節子は後悔はしていないでしょう。
勘違いの人生も、また楽しいものです。

ただ、自分で自分のことを勘違いするのはいいとしても、他者から勘違いされることはあまりうれしいものではありません。
最近つくづくと私がどれほど世間から勘違いされているかがわかってきました。
もちろんきちんとわかってくれている人も多いのですが、そうでない人もまた多いのです。

鏡が対象を映すものであれば、他者こそ一番すぐれた鏡と言えるでしょう。
人は他者の中に自分を見ます。
他者の嫌なところのほとんどは、自分の持っているものが映し出されているだけのことです。誰かを非難したくなったら、それはまさに自らへの戒めだと考えるのが正しいでしょう。
ですから、最近私は、毎日たくさんの戒めに覆われてしまっています。

人は、自らが持っていないものを見ることはできません。
ただ、自らが持っているのにそれに気づいていないものもありますから、人は他者を通して自らの良さも知ることができます。
時に、自分が好きになることもあるのです。

他者との付き合いは、結局は自分との付き合いなのです。
ですから、いささか疲れるとしても、付き合いを捨てることはできません。
捨てる時は、自らを捨てる時です。
最近目まぐるしいのは、なぜなのか。
私が少しまた生き直しだしたということかもしれません。
そういう意識は全くないのですが。

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2017/09/11

■目黒のさんま祭の報道を見て、いつも思うこと

毎年、目黒のさんま祭の報道を見ていて、2つの思いを持ちます。
一つは美味しそうで食べたいなという自然な気持ち。
もう一つは、ちょっと工夫するだけで社会的な活動になるのになという思いです。

テレビでは、昨日は7000匹が無料で提供されたとあります。
いつも思うのですが、なんで無料なのかというところが以前からまったく理解できないのです。
たとえば、1匹100円で提供したとすれば、70万円が集まります。
70万円集まれば、社会的な活動ができるでしょうし、フードバンクや子ども食堂的な活動に支援できます。
障害者支援にも環境保全活動にも、その使途はいろいろとあります。
いや70万円が重要なのでなく、みんなが楽しみながら、社会をよくしていくことにちょっと役に立てる場になるということです。

100円といえども払えない人もいるでしょう。
しかしテレビで見ている限り、集まっている多くの人は、楽しみたいのではないかと思います。
であれば、そこにちょっとでも「だれかの役に立てる」という要素が入れば、楽しみは倍増するでしょう。
100円で買うということに抵抗感を持つ人もいるかもしれません。
そうであれば、会場のどこかに箱を置いて、お金が払える人はお金を自由に入れるのはどうでしょうか。
基本は100円にしてもいいですが、実際には1円でも、「ありがとう」と書いたメモでも、100万円でも、その人の気持を布施するのはどうでしょう。
お祭りは、富の再配分の機能を持っていたはずですので、ますますお祭り気分は高まるような気がします。

食べ物を無償で配布するという感覚が私にはどうしてもなじめないのです。
無料でもらったさんまが粗末に扱われないかも気になりますが、もっと食べ物を大事にしたいと思うのです。
いつもそんなことを考えながら、このニュースを見ています。

似たような思いを持つニュースは少なくありません。
もっと食べ物を大事にしたいといつも思います。

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■節子への挽歌3661:節子に代わって庭の手入れを少しだけしました

節子
今日もさわやかな秋の日です。
節子がいたらきっとどこかに出かけていたでしょう。

庭の琉球朝顔が今年も庭中を走り回っています。
注意しないと樹木に絡まり痛めつけ、隣家にまで侵入しようとします。
その成長力のすごさには圧倒されます。
そういえば、ワイヤ-プランツも一時期すごかったですが、なぜか最近はおとなしいです。
まあ植物の様子を見ていても、その遷移状況が面白いです。

琉球朝顔は最近は延びてきているのを見ると有無を言わさずに刈り取っています。
購入した時には、大事に育てていましたが、いまは野草の一種の位置付けになっています。
人の評価はまさに移ろいやすいものです。

小さな庭ですが、水やりは結構面倒です。
手入れがきちんとできていれば簡単なのでしょうが、何しろ手入れ不足で鉢は時々倒れているし、肝心の植物よりも割り込んできた野草が生い茂っていたりなのです。
節子がいた頃は毎朝声をかけていましたが、まあ私も時々思い立ちますが、一週間とはつづきません。
声をかけないと花木は素直に育ってくれないのです。
節子が大事にしていたかなりの花木が枯れてしまっています。
困ったものです。

今日、気が付いたのですが、生い茂っている野草の影に曼珠沙華が咲きだしていました。
この花は、独特の雰囲気を持っていて、私の心象風景としては、お墓とつながっています。
死人花とも彼岸花とも言われますが、昔はお墓でよく見かけました。
わが家に咲いている理由は、節子と無縁ではありません。
曼珠沙華の球根を節子の闘病時代につかったのです。
残念ながらあまり効果がなかったので、たくさん買った球根を庭に植えたのです。
節子が旅立った翌年から庭で花が咲きだしました。
よく咲くときもあれば、あまり咲かない時もありますが、今年は3か所で花が咲きだしていました。

節子がいれば、この時期は花の苗を買いによく出かけたものですが、最近は手入れも大変なのでまとめ買いに行くこともなくなりました。
もう今あるものを維持するだけも大変なのです。
彼岸はそんなに忙しくないでしょうから、たまにはボランティア活動に現世に来てほしいものです。
たくさんの花木を残していくと残った家族は大変なのですから。
まあすでに半分くらいは枯らせてしまったかもしれませんが。

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2017/09/10

■カフェサロン「オランダの社会と教育」報告

湯島サロンへの初参加の方5人を含めて、多様な立場の人たちの14人の集まりになりました。
教育関係者も多かったですが、教育への関心の高さを改めて感じました。

折原さんは、10ページにわたるレジメをつくってきてくれました。
オランダの教育の実態を多くの人に伝えたいという折原さんの思いが伝わってきます。

折原さんがオランダの教育に着目した理由は、オランダの子どもたちが世界一幸せだということからだそうです。
2007年のユニセフの「子どもの幸福度調査」ではオランダは総合1位。
たとえば、子どもが「自分は孤独である」という項目でいえば、オランダは2.9%で最も低かったそうです。
ちなみに日本は29.8%で最も高かったそうです。
また、オランダでは90%の子どもたちが「学校が楽しい」と応えています。
だからと言って、いわゆる「学力」が低いわけではなく、「学力」も世界トップクラスなのです。
ちなみに、2016年の「生活満足度の格差」調査でも、世界の主要国の中で最も格差が少ないのがオランダでした。

オランダも1980年ころまでは「オランダ病」と言われていたように、経済も生活も問題を抱えていました。
子どもたちもハッピーではなく、出生率も1.5を割っていました。
日本と同じような状況だったわけですが、なぜ日本とは違った展開になったのか。
転機になったのは、政府と企業家と労働組合が一緒になって取り決めた「ワッセナーの合意」と言われるものです。
そこから「同一労働同一条件(同一賃金ではありません)」を基本にしたワークシェアリングが生まれ、人々の働き方や生き方が変わりだしたのです。

オランダの教育現場が変わったのは、そうした社会全体のあり方や人々の生き方の変化の上にあるのです。
その視点がないと、たぶんいくらオランダ詣でをしても役には立たないと思います。
折原さんはそうしたオランダの状況をていねいに説明した後、ご自分も参加された2013年のオランダの教育現場視察のDVDを見せてくれました。
映像から伝わってくるオランダの教育現場は、書物などで読む以上に現実感があります。
映像が終わった後、感動したというためいきが参加者から出るほど、日本の学校現場とは違うものでした。
私も学校の職員室が生徒たちも自由に集まれるカフェのような雰囲気なのに感動しました。
そこにオランダの学校の本質のすべてが見えるような気がしました。

紹介したいことは山のようにありますが、それは折原さんの本や論文、あるいは折原さんが紹介してくれた記録ビデオ『教育先進国リポート オランダ入門編』(監修リヒテルズ・直子)を見てください。
ちなみにビデオにはチラッと折原さんの姿も出てきます。

少しだけ私の印象に残ったことを書きます。
オランダの義務教育は5歳からだそうですが、4歳になると翌月から小学校に入学でき、
1年生のクラスに入って、5歳児と一緒に教育を受けられるのだそうです。
つまり毎月入学者がいるということです。
ここにオランダの人たちの基本的な価値観を感じます。

授業は一斉に教えるようなスタイルではなく、生徒一人ひとりに合わせて、寄り添いながら成長を支援し見守っていきます。
子どもたちの学びに接しながら、活動に偏りがないよう、必要最小限度のアドバイスをするのが、先生の役割だそうです。
個人別のプロファイルがしっかりと作られ、数字で評価するのではなく、その子の成長に役立つことが先生によってしっかりと残されていきます。
学びの場も窮屈な教室だけではなく、廊下さえもが学びとして使われます。
授業のスタイルは、日本のような一斉授業ではなく、数人のグループを基本に行なう個別教育です。
したがって、日本のような検定教科書はなく、学校が独自に選んだ教材を、一人ひとりの子どもの発達段階や適性、そして、特別のニーズに合わせて選びながら子どもに提供するそうです。
書きだしたらきりがないので、このくらいにしましょう。

話し合いでは、日本の教育現場との違いやなぜそういう教育がうまくいくのか、どんな人が先生になるのか、など、いろんな話が出されました。
これも紹介するときりがないので、私の意見だけを書いておきます。
私は、オランダの教育がうまくいったのは学校だけの話ではなく、その根底には社会や経済の変化とみんなの生き方の変化があったからだと思います。

よく言われるように、ワッセナー合意によって、オランダでは働き方への基本的な考え方が変わりました。
その結果、それぞれが自らの生き方に合わせて働き方を選べるようになった。
つまり「しなやかに働き、しなやかに生きる」ことができる社会になったのです。
自分の納得できる生き方ができることで、みんなが幸せになり、笑顔が増えてきた。
親やまわりの大人たちの笑顔が増えれば、子どもたちは精神的にも安定してきます。
しかも自らに会った学び方を支えてくれる仕組みがある。
そうなれば、子どもたちものびのびと学ぶことができ、当然、学校は楽しい場になり、学力も向上する。
私は、オランダの教育の成功は、制度の問題だけではなく、そうした大人たちの生き方に大きく起因していると思います。
働き方を自分で選ぶのと同じように、自分の子どもたちが通う学校もまた、自分たちで選ぶという文化が育っているのです。

「世界一子どもが幸せな国」の理由を知りたくてオランダに出向いて得た答は、「大人が、親が幸せだから、子どもも幸せ」だということだった、と「ワンモアベイビー応援団」の人たちは、その報告をまとめた「18時に帰る」という本に書いています。

親や先生が余裕なく働いている社会では、どんなに制度を変えても問題は解決しない。
私はそう思います。
一番の問題は、私たちの生き方なのではないかと思います。
ちなみにこれは、学校教育だけの話ではありません。
私は、さまざまな分野で活動している人たちとささやかな付き合いがありますが、私がいつも気になっているのは、このことです。

書いていたらきりがありませんね。
前回のサロンは、食を切り口に同じようなところに行きつきましたが、今回は学校教育から私たちの生き方に行きついた気がします。
学校が荒れているのではありません。
私たちの生き方が荒れているのです。
私も生き方を改めて問い直そうと思います。
そう気づかせてくれた折原さんと参加者のみなさんに感謝します。

なお、最後に折原さんは、リヒテル直子さんの「民主的シチズンシップ教育」についてのビデオも見せてくれました。
これはこれだけで大きなテーマになります。
これについては改めて別の形でサロンをやることを考えていますので、また案内させてもらいます。

Orihara


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■節子への挽歌3660:死に喜びを、生に恐れを

節子
とても気持ちのいい、秋らしい朝です。
今日はちょっと寝坊する予定だったのですが、いつもよりも早く目が覚めてしまいました。
しかし残念ながら頭がすっきりした目覚めではなく、頭が重い目覚めでした。
頭の左側の後頭部が重いのです。
ちょっと気になって、念のため血圧を測ってみたのですが、私的にはむしろ低い数値でした。
高血圧のせいではなさそうです。
まあ時々起こる現象ですが、こういう時はパソコンに向かう気が起きないので、今朝の朝の1時間はめずらしく庭に出ていました。
秋のさわやかな風に包まれていたおかげで、頭痛がなくなりました。

今朝、録画していたテレビの「こころの時代」の往生要集の番組を見ました。
死への恐れを緩和する話が説かれていましたが、どうも違和感があります。
しかし、鶴林寺の吉田さんが、往生要集は死に方のマニュアルであると同時に、生き方のマニュアルだと話されていたのは納得できます。
死に方も生き方も、同じコインの裏表ですから。
みんなそれを知っているのに、なぜか生には喜びを、死には恐れを持ちがちです。
しかし、よく考えれば、死ほど平安なものはないでしょう。
それに比べて生には平安は保証されていません。
死に喜びを、生に恐れをというのが正しいような気がしますが、なぜか誰もそう言いません。
その番組を見ながら、私も僧になればよかったなという気がしてきました。
気づくのが遅すぎました。
いやそう思えば、そうしたらいいだけの話です。
出家はしませんし、仏教の勉強はしませんが、僧らしく生きようかと思いました。
というわけで、今日から僧的な生き方をすることにしました。
何が変わるかと訊かれれば、何も変わりませんとしか言えませんが。

午後、娘の友人が、節子に供花に来てくれました。
毎年命日の前後に来てくれていますが、いつもとてもあったかくなるような、節子らしい花束です。
それにしても10年たっても、まだ花を届けてくれる。
それも電車に乗ってやってくるのです。
どうして来てくれるのかと娘に訊いたのですが、娘も「さて?」とわからないようです。
不躾な私としては、直接聞いてみようと思って、いま挨拶がてら話に行ったのですが、さすがに訊けませんでした。
人の関係は不思議なものです。

ちょっと元気が出てきたので、パソコンを開きました。
昨日のサロンの報告を書かなくてはいけません。

さわやかな風が入ってきます。
夏の仕事場は地獄ですが、秋の仕事場が天国のように気分がいいです。
秋の風は、心を安らげてくれます。
風を受けていたら、眠気が襲ってきました。
娘たちは出かけるそうなので、パソコンをやめて昼寝をしようかと思います。

平安な秋の日です。

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2017/09/09

■節子への挽歌3659:久しぶりに友人に会うと時の経過に気づきます

節子
Fさんがまた緊急入院です。
Mさんは元気そうでした。
いろいろと気になることは多いです。
私もちょっと疲労気味で、朝と昼に栄養ドリンクを飲んで何とか乗り越えました。
最近どうも疲れが抜けません。

気になることは多いですが、たとえ悪いニュースでも、届いているのは安心です。
一番気になるのは、届いていないニュースです。
便りがないのは良い便りというのは若い時の話で、私のような歳になると、そうも言っていられないのです。
だからと言って、連絡するのも正直ちょっと気が重いこともあります。
どうもそういう関係の人が増えてきてします。

自分自身についていえば、静かに退場していくのが理想です。
しかし、他者の葬儀には行けますが、自らの葬儀には参列できないので、自分も参列できる葬儀を、できればしたいと思っています。
それをいつすればいいかは難問です。

今日のサロンに10数年ぶり、もしかしたら20年ぶりくらいに来てくれた人がいます。
精悍になっていて、最初はちょっと思い出せないほどでした。
私はその分、衰えているのでしょう。
彼から変わらないですねと言われると、ついその気になってしまいますが、正直かなり変わっているはずです。
最近疲れが抜けないのが、そのことを物語っています。
自分では気づいていませんが、身心は順調に、終焉に向かって成長しているのでしょう。
抗うつもりはまったくないのですが、どこかでそれを受け容れられない自分がいるようです。
困ったものです。

明日の午前中の用事が延期になりました。
ほっとする自分に気づきます。
明日はゆっくりできそうです。

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2017/09/08

■節子への挽歌3658:人に会うのは「時期」がある

節子
先日湯島に来た人が、書棚にあった飯田史彦さんの「生きがいの創造」を見て、自分もこの本に助けられたと話してくれました。
それで飯田さんとの不思議な出会いを思い出しました。

飯田さんはまだ大学院生の時代に私のところにやってきました。
その前にどこかで会っていたはずですが、それは思い出せません。
ただその時、やって来た目的ははっきりと覚えています。
「前世に佐藤さんに頼まれたことを伝えに来ました」と切り出したのです。
前世?
残念ながら私には記憶がなくなっていました。
それからいくつか具体的なことを話してくれましたが、思い出せません。
でもまあ、彼がそういうのですから、そうなのでしょう。
そこから少し深い付き合いが始まりました。
その後もちょっと不思議なことが起こりましたが、私はそういうことにはきわめて違和感がないので、自然体で対応していました。

その後、彼は福島に転居しました。
福島に行った時には、彼が自動車で会いに来てくれたりしましたが、彼の大学には行く機会を失しました。

節子が亡くなった後、少しして、彼に会いたくなったことがあります。
連絡したら、いまは佐藤さんに会える状況ではないと言われました。
その理由はわかりませんが、彼が「ない」というならそうなのでしょう。
その後の飯田さんの活動は耳には入っていましたが、この10年、交流はありません。
最近は著作も送られてこないので、ついつい忘れてしまっていました。
その飯田さんを思い出させられたのです。
たぶんこれもまた意味があるのでしょう。
というのは、最近また、飯田さんの世界に関心が向きだしているのです。
いや、関心が向きだすというよりも、世界が近づいたというべきかもしれません。

久しぶりに連絡を取りたくなりました。
まだ「会う時期」ではないといわれるかもしれません。
「会う時期」になっているといいのですが。

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2017/09/07

■節子への挽歌3657:運不運。幸福不幸。

節子
昨日の話です。

節子が好きだったリビングの蛍光灯が壊れてしまいました。
なぜか節子はいつもリビングの蛍光灯にはこだわっていましたので、いろいろと探して買い求めたものです。
機能主義の私は、蛍光灯にはほとんどこだわらないのですが、私以外の家族はみんな、ケースがガラスでないとだめだとか、いろいろとこだわりました。
いや、時期的にそうした時期だったのかもしれません。
廃棄するのも抵抗があったので、兄に頼んでみてもらいました。
兄は、ものづくりが好きで、昔はテレビも自分で組み立てたりしていました。
私が中学校時代に最初に見たわが家のテレビは兄の手づくりでした。

それで、兄に来てもらって、直してもらうことにしました。
節子の位牌の前にあった大きな供花を見て、まだこんなお花が届くのか、と兄は感心していました。
命日の前に節子の滋賀の友人たちから大きな花が届いていたのです。
たしかに10年もたったのに、お花を届けてくれる人がいるのは節子の人柄かもしれません。
私からすれば、それほどの人柄ではないのですが、まあ私よりはいい人柄なのでしょう。
私にはたぶん花は届きません。

蛍光灯を見てもらいました。
ところが、故障の原因がわかりません。
なにやらややこしい構造なのです。
たかが蛍光灯で、と思うのですが、なにやら複雑な配線構造になっています。
結局、1時間半かかりましたが直りません。
途中で一度、点灯したのですが、またダメになってしまいました。
修理に出すよりも最近のLED仕様のものを買った方がたぶん経済的には負担が少ないでしょう。
でも修理してももうダメかもしれません。
10年くらいが寿命だと説明書に書いてありました。
どこもなんともないのにどうも割り切れません。
節子が選んだものだと思うと迷います。
でもまあ、今日はあきらめて、一緒に食事に行きました。

兄とは考え方も違うので、会うたびに論争になるのですが、まあ今回は無事平和に食事を終わりました。
人は近ければ近いほど、いろんなことが見えすぎたりわがままになったりで、うまくいかないことも少なくありません。
もし節子が元気だったら、私たちは果たしてうまくいっていたでしょうか。
2人とも歳をとってわがまま度が高まり、喧嘩が増えていたかもしれません。

もしかしたら、私は一番、いい関係の時に節子を見送ったのかもしれません。
私たちの関係が一番いい時に、その時が来たのかもしれません。
それはとても幸運なことかもしれません。
しかし、そのためにいまでも節子から解放されずにいるとしたら、不運なことかもしれません。
運不運。幸福不幸。
もしかしたらそれらは同じものかもしれません。

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2017/09/06

■節子への挽歌3656:良い風も吹き出しています

節子
昨日はちょっと元気が出る出会いがありました。
私が15年ほど前に翻訳した「オープンブック・マネジメント」に興味を持ってくれたおふたりの方が訪ねてきてくれたのです。
おふたりは、最近欧米で広がっている「コーオウンド会社」(従業員が所有する会社)を日本でも広げたいと活動している人です。

「みんなの会社」は私が理想とする会社のあり方ですが、それへの私の働きかけはあんまりしっかりと取り組まなかったために見事に挫折しています。
医や挫折どころか、着手さえしないままになっています。
会社時代に取り組んだCIプロジェクトも見事に挫折しましたし、その後の活動も何ら成果を上げずに終わっています。
私の思いにつながる切り口は2つありました。
一つは協同労働の協同組合。もう一つがオープンブック・マネジメントでした。
「オープンブック・マネジメント」を出版した時には、これで日本の会社は本来の姿を取り戻して元気になるだろうとさえ思っていましたが、見事に不発でした。
協同労働の協同組合は、本流の経済に寄生する姿勢から抜け出せずにいました。
いろいろと関わらせてもらえる契機はあったのですが、どこかでフルコミットできずにいました。
それで私自身はNPOの世界に関わりだしましたが、ここもなにやら違和感がありました。
ここでも「みんな組織」ではなく「お金に従属する組織」を感じてしまうことが多いのです。
どうやら私の居場所はないなと感じ始めていました。

そんな時に、従業員所有事業協会を立ち上げたおふたりがやってきてくれました。
久しぶりに昔の話をしてしまいました。
話しているうちに、なぜか企業への関心が少し戻ってきました。
生産活動が「雇用の場」から「協同の場」に変わっていけば、経済も社会も大きく変わるでしょう。
それを正面から取り組もうとしている人たちが現われはじめた。
何か元気が出ます。
私に何ができるかを、久しぶりに考えたくなりました。

節子
あんまり元気の出ない11年目のスタートでしたが、まあ良い風も吹き出しています。

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2017/09/05

■大衆の時代の憂鬱

先月、久しぶりにオルテガの「大衆の反逆」を読み直しました。
前にも2回ほど読んでいますが、今回が一番共感できました。
私もだいぶ保守的になってきたのかもしれません。

オルテガの大衆観をいくつか書き出してみます。

大衆とは、自分に対して特別の要求を持たない人々、生きるということが現在の自分の姿の繰り返し以外のなにものでもなく、自己完成への努力を自ら進んではしようとしない人々のことである。

大衆とは、善い意味でも悪い意味でも自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずること喜びを見出しているすべての人のことである。

大衆人は他の人々が建設し蓄積してきたもの否定しながら、いまだにその自分が否定しているものによって生きている。

なんだか自画像とも重なってくるような気がして、心が滅入ります。
以前読んだ時には、かなりの反発もあって、自分はオルテガが言うところの「大衆」ではないと勝手に思っていたものです。
しかし、まあ今にして思えば、典型的な大衆人です。

オルテガを引き合いに出すまでもなく、近代は大衆が豊かになった時代です。
しかし、大衆の豊かさは、政治の自己中心化を進め、短期志向を生み出します。
それはまた、経済優先から金銭重視へと生活を変質させてきました。
豊かさの概念が、そこでは大きく変質していますが、みんなどこかで少しは気にしているものの、その流れから抜け出そうとはしません。
お金がないからできない、理想はともかくお金がなければ生きていけない、とみんな言います。
パンよりもバラだろうという人はめったにいません。
しかし、パンだけの人生に何の意味があるのか。
ウィリアム・モリスは、「わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない」と言いましたが、バラでなくとも、野の花でもいい。
それに野の花は独占しなくてもいいのです。
気をつければ、まわりに見えてくる。

オルテガの「自分が否定しているものによって生きている」という指摘にも身が縮みます。
原発を否定しながら、電力の恩恵を手放せてはいません。
安倍政権には批判的ですが、その恩恵も受けています。

大衆の時代は、いかにも憂鬱です。
オルテガなど読まなければよかったと後悔しています。
困ったものですが。

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■企業を考えるサロン「Bコーポレーションってご存知ですか」のご案内

今回の企業を考えるサロンは、テーマに「Bコーポレーション」を選びました。
話題提供してくれるのは、日本では数少ないBコーポレーション認証企業の石井造園株式会社の社長の石井直樹さんです。
http://www.ishii-zouen.co.jp/company/
石井造園は、横浜を拠点に造園業をやっていますが、その経営理念は、「企業活動を通して、幸せを共有する企業を目指す」です。
言葉だけのお題目ではありません。
それは石井さんの人柄に触れればわかると思います。

Bコーポレーション(ベネフィット・コーポレーション)とは、企業活動に携わるさまざまな人たち(社会)のベネフィット(利益)を考慮しながらの経営を目指している会社のことで、アメリカにあるNPO法人Bラボが認証した組織に与えられる名称です。
日本ではまだ数社しか認証されていませんが、石井造園はその一つです。
認証された企業はいずれも、地元経済と密接にかかわり、事業を通して地域社会との共存共栄を経営理念に掲げています。
現在の資本主義経済のあり方に警告をならしているアメリカの経済学者ロバート・ライシュも、企業の社会的責任(CSR)の限界を超えるものとして、このBコーポレーションに注目しています。
かつての近江商人の「三方よし」に通ずるところもあり、私は日本の風土に合っている経営形態ではないかと思っています。

今回は、なぜ石井さんがBコーポレーションに挑戦したのか、なぜ日本ではBコーポレーションの広がりが弱いのか、などのお話しと共に、石井造園の実際の経営や石井さんの経営観を具体的な事例を踏まえながらお話していただこうと思います。

私は、企業のありようが、社会の方向を決めていくのではないかと思っています。
企業のあり方は、企業に勤める人だけの問題ではありません。
企業に勤める人も企業と縁のない人も、どなたでも歓迎です。
気楽に遊びに来る感じでご参加ください。

〇日時:2017年10月22日(日曜日)午後1時半~3時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「Bコーポレーション 石井造園の場合」
〇話題提供者:石井直樹さん(石井造園株式会社社長)
〇参加費:500円
○参加申込み:qzy00757@nifty.com

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■節子への挽歌3655:相談を受けるよりも相談する相手が欲しいですが

節子
人は、自分の世界でしか世界を見ることができないということを最近実感しています。
私の世界が広がるきっかけを作ってくれたのが節子でした。
節子の世界と私の世界はかなり違っていましたから。
節子は西日本の人であり、私は東日本の人でした。
それだけでも世界は大きく違っていました。
節子の生家は信仰を実践している浄土真宗、私の家は形だけの曹洞宗。
節子は農村で育ち、私は都会で育ちました。
子ども時代の生活環境は、世界を規定していきます。

私たちに共通していたのは、世界を広げたいという思いでした。
節子は、しかし、自己主張の強い私の世界に対応するのは大変だったでしょう。
私のわがままな独りよがりは、会社を辞めるまで続いていました。
私の生き方が大きく変わったのは、やはり会社を辞めてからです。
それに付き合ってくれたのが節子でした。
私一人では、たぶんダメだったでしょう。
節子のおかげで、なんとか自分の生き方を見つけられました。
そして気がついたら、主従が逆転していました。
節子から学ぶことは多かったです。
言葉で説明はできないのですが。
節子は、いわば私の鏡のような存在でした。

しかしその節子もいなくなってからもう10年。
この挽歌も、節子に語るというよりも自分自身に語るようになってきました。
節子は今や私の内部にこそいるからです。
しかし、時には鏡を通して自分を見たくなることもあります。
頭の中での内語ではなく、声を出してその反響を聞くことで、世界はもっとよく見えてきます。
節子相手にそれができなくなったことが、残念です。
もしかしたら、それが時々、気が落ちる原因かもしれません。
節子がいた時は、呟くことで結果的には相談できていたのだと改めて伴侶の存在の意味を実感します。

今日は4人の若者たちと会います。
私も誰か会いに行ける人が、時々欲しくなります。
一人で立つことに、最近は少し疲れましたが、言い換えれば、相談を受ける歳になってしまったのでしょうから、弱音を吐かずに、しゃんとしなければいけません。


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2017/09/04

■節子への挽歌3654:秋には一抹の寂しさがある。

節子
節子がいなくなってから11年目の始まりは、いささか不穏なスタートを切りました。
今朝、あることを思い出したのですが、確認したら私のとんでもないミスが発覚しました。
ここにはちょっと書きづらいのでやめますが、まあかなり大きなミスで、他者への迷惑も生じます。
早速に謝罪のメールを書きましたが、その咎は基本的には私自身にやってきます。
いかにも情けないスタートになりました。
先が思いやられます。
今日は朝から心穏やかではありません。
困ったものです。

晴れないのは私の心だけではありません。
今日は空がどんよりとしています。
昨日、友人から

9月に入ってしまいました。
やはり、この季節は何とはなしに一抹の寂しさを呼び覚まします。

というメールが来ました。
たしかにそうです。
秋には一抹の寂しさがある。
その寂しさを共有できる人がいれば、それは幸せにつながっていくかもしれません。
楽しさを共有するよりも、寂しさを共有するほうが、たぶん幸せであったかくなるでしょう。
もしかしたら、伴侶とは、そうした寂しさを温かさに変換する関係なのかもしれません。
節子がいない今は、寂しさを、ただ寂しさとして受け止めるしかありません。

不穏なスタートのためか、なにやら暗い挽歌になってしまいました。
青い空を見れば、気分は変わるのですが、あまり期待できそうな気配はありません。

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2017/09/03

■節子への挽歌3653:11回目の命日

節子
11回目の命日です。
今年はただ娘たちと一緒にお墓に行っただけです。
日常のなかに節子も同化してきました。
10年かかってしまいましたが。

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2017/09/02

■カフェサロン「食はしあわせのたね」報告

「食」を切り口に、「人がつながるしあわせ」をテーマにした高石さんのサロンは、気づかされることがとても多かったです。
福祉の原点を問い直される気がしました。
食は生きることの基本ですが、文化の起点でもあります。
たくさんの人に聞いてほしいお話がたくさんありました。

高石さんは、学校の先生を辞めて、「ゆいの家」という活動に取り組まれだしたのですが、先生時代に体験した「食の大切さ」の話から、いま取り組んでいる活動まで、具体的な事例も交えてとてもわかりやすく話してくれました。
現在は、「食」からしあわせの種まきをするために「食からの未病学」を立ち上げて、料理教室や講演活動などをされていますが、未病のための陰陽講座のさわりの話もしてくださいました。

高石さんは、食のあり方次第で、生活や言動が変わってくること、食を通じて人の関係が変わり、まさに食は「幸せ」につながっていることを、たくさん体験されています。
「食」は単に栄養補給だけではなく、もっと大きな意味をもっています。
しかし、昨今の状況は、そうした「食」のもつ豊かな意味が軽視されているのではないかと高石さんは言います。
運動会での給食の話や、子どもたちが自分たちで食事をつくるという学校の活動の話なども出ましたが、お聞きしていて、食を通して、学校での「いじめ」や不登校などの問題も、あるいは先生たちの悩みの多くも、解決できるのではないかと思いました。

学校に限りません。
家庭においても職場においても同じことかもしれません。
一緒に食事をすることの意味はとても大きいですが、最近は「孤食」も増えてきています。
とてももったいない話だと思います。
せっかくの「食」の役割を、活かせていない社会になってきているのではないか。
「食」を通じて、社会の実相が高石さんには見えているのでしょう。

高石さんは食の意味を3つあげました。
「料理も食もほんらいとても楽しいこと」
「食は自分にとっての最高の主治医であること」
「食を通して人は豊かにつながれること」
お話を聞いていて、とても共感しました。

福祉分野で活動している参加者の方たちも、食の効用を話してくれました。
企業に関わっている人は、食を通じてコミュニケーションが豊かになった事例を話してくれました。
食の効用はたくさんあります。
ただ「食べるだけの食」にしておくのはもったいない。
時間の都合で遅れてきて参加してくださったのがマクロビオティックに取り組んでいるおふたりです。
一度、湯島でもサロンをしてもらったことがありますが、いよいよ京都で活動を開始するそうです。
今回は、たまたま東京に来ていた青森の薬剤師の方も参加してくださいましたが、サロンの始まる前に聞いた「薬剤師」のお仕事のお話はとても共感できるものがありました。
薬も食と深くつながっていますが、薬剤師の人にもぜひサロンをやってほしくなりました。
どなたかやってくれませんか。

高石さんのメッセージは、高石さんのブログでも読み取れます。
http://www.at-ml.jp/70023/%E3%80%8C%E9%A3%9F%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E6%9C%AA%E7%97%85%E5%AD%A6%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%AF/
ご関心のある方はお読みください。

ゆっくりしたサロンでしたが、考えさせられることが多く、私自身少し食のあり方が変わりそうです。
Takaishi20170902


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■節子への挽歌3652:死にいくための食メニュー

節子
久しぶりにマクロビオティックコンビのおふたりが湯島に来ました。
京都に料理教室とお店を出店することになったのだそうです。
今日は高崎の高石さんに「食はしあわせのたね」というテーマのサロンをしてもらったのですが、そう言えばと思って連絡をしたのですが、ちょうど京都の報告に来たいと思っていたとのことで、お二人そろって、予定を調整してきてくださったのです。
高石さんとお引き合わせしたいと思っていたのですが、それが実現できてよかったです。

高石さんが友人を連れてきてくれました。
青森の薬剤師の方です。
その方のお話もとても興味深いものでした。
まあこんな形で湯島からはいろんな人の出会いが生まれ、おかげで私の世界は広がります。
不思議な空間です。

京都のマクロビオティックのお店は、なんと弘道館のすぐ近くのようです。
お話したら、おふたりは老松の太田さんの名前を知っていました。
ここでもまた何か新しい風が起こるかもしれません。
お店が開くのは年末か年明けだと思いますが、いつか私も行けるといいのですが。

今日は食に関する話だったのですが、節子に聞かせたい話ばかりでした。
食で多くの病気は治るという話もありました。

マクロビコンビのおふたりは、人の顔を見るとその人の健康状態や食生活がわかるそうです。
今回は元気そうだと言われました。
前回よりはよくなっているようです。
それはそうでしょう。
最近は実に質素に生きています。

以前、このおふたりに薦められて完全玄米食をつづけたことがありますが、あんまり頑張りすぎて、もう玄米食は食べたくなくなってしまったといったら、がんばり過ぎはよくないと言われました。
今度もまた何かを勧められると困るなと思っていましたが、今度は糠漬けの話が出ました。
勧められると素直に従って、3週間で飽きてしまって、元の木阿弥というのが私の場合多いので、辞退させてもらいました。

おふたりは、ますますお元気そうです。
食の大切さを感じますが、私自身は元気に生きる食生活よりも安らかに死ねる食生活のほうに関心があります。
それも時間が自分で決められるともっといい。
死期がわかったら、おふたりに頼んで、安らかに死にいくための食メニューを頼もうと思います。
理想的には1か月くらいかけて、人生を仕上げたいものです。
1か月、死を楽しんで生きる。
これって実にいいアイデアのような気がしてきました。
いかがでしょうか。
なんだか、死に方を考えるも結構楽しいものです。
不謹慎なと叱られそうですが、その余裕が、節子との別れにはありませんでした。
いま思うと、節子には辛い思いをさせてしまったかもしれません。

明日は節子の11回忌です。
早いものです。

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■民進党の代表選で感じたこと

民進党の代表が前原さんに決まりました。
総会を見ていて残念だったのは、新しい出発という高揚感を全く感じられなかったことです。
政権交代という言葉がむなしく響くような気がしました。
たぶん民進党の人たちの多くが、自らの社会的な位置づけをきっちりと評価できていないのではないか。
つまり、彼らは外に出てくるよりも、反安倍という機軸にしがみつきながら、安倍政権に寄生しているように感じました。
そこからは、躍動感も期待感も生まれない。

しかし、反対するという形で権力に寄生するというのは、民進党に限りません。
小池新党と言われる人たちの動きも、同じに感じます。
いや、自民党そのものもまた、ある意味で「反対」が主軸になっている。
つまり現在の日本の体制への反対です。
維新に関しては、大日本国憲法時代に戻ろうと明言しています。
ただ「反対」の大合唱です。
今や日本の政治からは「大きな物語」が消えてしまった。
というよりも、もしかしたら私たち現代の日本を生きる人たちから、それが消えてしまったのかもしれません。

先月、久しぶりにオルテガの「大衆の反逆」を読みました。
そこでの指摘は、いまもなお示唆に富んでいます。
昨日の朝日新聞の「異論のススメ」に、佐伯啓思さんが「現代文明の没落 貨幣で思考、衰える文化」と題して、シュペングラーのことを書いていました。
オルテガは、シュペングラーの「没落」論には異を唱えていますが、それはともかく、シュペングラーの指摘も、いまますます現実感を強めています。

日本に力のある野党ができないのは、政治家の責任ではないように思います。
国民が求めていないのではないのか。
政治には野党が不可欠だという常識の中に私たちはいますが、果たしてそうなのか。
自分たちが寄生している安倍政権への未練がましい愚痴として、受け皿がないなどと言っているとしか、私には思えません。
そもそも自民党と民進党とどこが違うのか。
原発にお墨付けを与え、米国依存に賛成し、生活のための財政から国家維持のための財政をめざし、文化よりも経済優先のTPPを持ち込んだのは、菅民主党政権と野田民主党です。

いま必要なのは、受け皿づくりではなく、国家形成原理としての理念です。
日本がどこを目指すのか、それをこそ議論するべき時期ではないか。
いやそうした議論を国民の中に起こすべき時期ではないか。

民進党の総会の報道を見ながら、そんなことを考えていました。
生き方を見直すべきは、わたしたち一人ひとりです。
成熟社会においては、政治は私たちの生き方の鏡でしかありません。
せめて自分だけは、後悔のない生き方をしたいと改めて思いました。

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2017/09/01

■節子への挽歌3651:「迷ったらやってみる」

節子
ある問題に悩んだ友人が、相談してきました。
一度悩みだすと、悩みは次々と出てくるものです。
昨日またメールが届きました。
最後に思い出したのが、節子の言葉です。
「悩んだらやってみる」という、私たちの信条です。
そこで、こう返信しました。

私も女房も、迷った時にはやる、というのが共通の信条でした。 そう決めるといろんな意味で生きやすくなります。 迷うことがなくなるからです。

それを読んで、その人からまたメールが来ました。

「迷ったらやってみる」という信念を教えていただきましたが、 それは結婚にも適用してよいものでしょうか。

事が結婚であれば、誠実な人なら慎重になるでしょう。
でもまあ、私は、私たちのことを踏まえてこう返信しました。

「迷った時はやる」というのは、私たち夫婦の場合はすべての適用でした。 どの場合に適用するかを考えていたら、疲れます。 ちなみに私たちの結婚の場合、女房は迷っていましたが、 というよりも最初は否定的でしたが、 結果的にはよかったおかげで、 私以上に女房の方が、「迷った時はやる」という信条にいたり、 逆に私にその信条を植え付けました。 考えてみると、やらないで後で後悔するよりも、 やってしまった場合は、後悔せずに挽回できるから、 私はその信条を採用しました。 あんまり参考にはならないでしょうが、 いろいろと考えても先は見えてきません。 それにどういう選択をしてもまわりの人にはそれなりに影響を与えます。 自分でやると決めれば、覚悟もできます。 覚悟があれば、ほとんどのことが乗り越えられるはずです。 それに問題が起これば人生は豊かになりますし。

その人から返信が届きました。

全ての言葉にとても勇気づけられました。 やはり「覚悟」が僕にとってのキーワードなのかもしれません。 「問題が起れば人生は豊かになる」 という観点は本当に佐藤さんらしくて大好きです。 心を強く持ってがんばります。

肯定的に受け取ってくれてうれしいです。
しかし、問題が起れば人生は豊かになる、のはたしかではありますが、苦労が増えるのもたしかです。
まあ、今度の相談相手はまだ若いので、苦労もきっと楽しめるでしょう。
私は最近、体力も気力も老化し、苦労はあんまり歓迎ではありませんが、まあよくやってきます。
困ったものです。
そろそろ信条を、「迷ったらやめる」に変えたほうがいいでしょうか。
でもまあこう言い切ってしまった以上、この信条を最後まで続けようと思います。

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