■節子への挽歌3662:他者こそ一番すぐれた鏡
節子
なにやら目まぐるしくまわりが動いています。
昔は、このめまぐるしさが、私の生命源でしたが、最近は時々自分自身が混乱してしまいます。
それに多様な相手に合わせて自らを変化させる柔軟性が弱まってきています。
生命の持つ「しなやかさ」を失いつつあるのかもしれません。
というのも、年甲斐もなく「イライラ」することが増えてきたのです。
しかし、そこはよくしたもので、その「イライラ」もすぐに忘れるようになってもきています。
認知症の始まりとも言われそうですが、むしろそれは生命の知恵でしょう。
とんでもない勘違いも増えてきました。
しかしこれも観方を変えれば、「勘違い」に気づく英明さを得たとも言えるでしょう。
若い時には自らのとんでもない勘違いや早とちり、あるいは思い込みも多かったと思いますが、それを勘違いなどとは思わずに、突っ走って来ていたのかもしれません。
特に私の場合は、あんまり常識や遠慮がある方ではなかったので、周辺には迷惑ばかりかけてきた気もします。
そもそも節子と結婚したのでさえ、その一例かもしれません。
迷惑したのは節子ばかりではなかったかもしれません。
しかしそれでもまあ節子は後悔はしていないでしょう。
勘違いの人生も、また楽しいものです。
ただ、自分で自分のことを勘違いするのはいいとしても、他者から勘違いされることはあまりうれしいものではありません。
最近つくづくと私がどれほど世間から勘違いされているかがわかってきました。
もちろんきちんとわかってくれている人も多いのですが、そうでない人もまた多いのです。
鏡が対象を映すものであれば、他者こそ一番すぐれた鏡と言えるでしょう。
人は他者の中に自分を見ます。
他者の嫌なところのほとんどは、自分の持っているものが映し出されているだけのことです。誰かを非難したくなったら、それはまさに自らへの戒めだと考えるのが正しいでしょう。
ですから、最近私は、毎日たくさんの戒めに覆われてしまっています。
人は、自らが持っていないものを見ることはできません。
ただ、自らが持っているのにそれに気づいていないものもありますから、人は他者を通して自らの良さも知ることができます。
時に、自分が好きになることもあるのです。
他者との付き合いは、結局は自分との付き合いなのです。
ですから、いささか疲れるとしても、付き合いを捨てることはできません。
捨てる時は、自らを捨てる時です。
最近目まぐるしいのは、なぜなのか。
私が少しまた生き直しだしたということかもしれません。
そういう意識は全くないのですが。
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