■節子への挽歌3668:人が気付くのは、いつもすべてが終わってから
節子
数学者の、というよりも哲学者の、と言った方がいいかもしれませんが、岡潔さんは、日本人が持たされるようになってしまった近代的自我は結局「無明」だと言っています。
「ほんとうの自分」とか「自我」は「無明」のあらわれだというわけです。
この頃になって、そういうことが実感できるようになってきました。
人は歳を重ねるにつれて、自分がいかに無知であり、無明であり、空であるかを思い知らされます。
彼岸に次第に近づいて、いつか彼岸入りしていくのでしょう。
しかし、十分な備えなしに彼岸に旅立った節子はどうだったでしょうか。
当時は、私自身も此岸しか見えていなかったために、何の手助けも、何の支えもできませんでした。
それが時々、思い出されて、後悔の念に襲われます。
私自身なんと余裕のない、狭い世界を生きていたことか。
人が気付くのは、いつもすべてが終わってからなのです。
今日は、気持ちのいい秋日和です。
節子がいたら、きっと霧降高原にでも行こうかと言いだしたでしょう。
そんな気がするような、さわやかな朝です。
それなのに、どうも気分はさわやかになりません。
自らの無明さから、抜け出られないのがさびしいです。
もう少し歳を重ねなければいけないようです。
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