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2017年10月

2017/10/31

■カフェサロン「医療・社会保障崩壊のルーツは明治維新」報告

長年、医師の立場から、日本の医療制度の問題点を指摘しつづけているNPO法人医療制度研究会の本田さんのサロンは、台風直前の雨にもかかわらず、15人のサロンになりました。

本田さんは外科医でしたが、還暦を機に外科医を引退し、世直し活動に取り組みだしています。
医療制度改革に取り組む過程で、明治維新にまでさかのぼって調べ出したら、日本の医療制度を変えていくには、日本の国家のあり方まで考えないといけないことに気づいてしまったのです。
そこで今回のテーマは、「医療・社会保障崩壊のルーツは明治維新」となったわけです。

テーマは大きいですが、話は本田さんのとても身近な話から始まりました。
そして、密度の濃い内容の話を、聞き手を飽きさせることなく、常に笑いを起こしながら、1時間半、ぴっちりと話してくれました。
その内容を要約すると、明治維新は薩長の下級武士が大英帝国の阿片マネーを背景に、皇室を錦の御旗に政治利用して徳川から政権を奪取したクーデターだった。そして彼らによるクレプトクラシー(収奪・盗賊政治)は敗戦後70年以上経過した現在も続いている。そしてそれこそが医療や社会保障の崩壊の根因である。
とまあこれが大筋ですが、医師不足や病院経営の実態についても数字でしっかりと論証してくれました。
しかし、メディアが伝える医療の話は、医療事故や医療費増加への危機感をあおるような話ばかりです。
世界的に見て国民人口あたりの医師がいかに少ないか、そして、医師の過労死や自殺の問題、医療面での国家負担の低さ、などはなかなか報道されません。

本田さんの話の内容をきちんとお伝えするのは難しいですが、サロンで使ったパワーポイントを本田さんが提供してくださったので、興味のある人はぜひじっくりとそれを見てください。https://www.dropbox.com/s/41kjan3lrrc2349/2017.10.29%E6%9C%AC%E7%94%B0%E5%AE%8F.pptx?dl=0
併せて、本田さんが今年初めに雑誌に寄稿した論考も読んでみてください。
これもとても興味深いです。
https://www.dropbox.com/s/okqbp3k4q7x0isn/%E6%9C%88%E5%88%8A%E4%BF%9D%E9%99%BA%E8%A8%BA%E7%99%82%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%B6%AD%E6%96%B0.PDF?dl=0

私が本田さんと出会ったのは15年ほど前ですが、その時に、日本の医師が(意図的に)ますます不足する方向にあることを知って驚きました。
その後、本田さんは盛んにテレビに出られていましたが、最近は見かけることがなくなりました。
それが気になっていましたが、その理由も今回よくわかりました。
現場からの情報発信は政策決定者には疎まれるようです。
日本人はマスコミを信じすぎるという話の中で、参加者から学校で「教科書」依存を植え付けられた日本人にとってマスメディアは大人の「教科書」だという「教科書幻想」の話も出ましたが、マスコミまで「国家検定」が行なわる方向にあるのかもしれません。
ちなみに、日本の医師不足はいまなお世界水準に比較して絶対的に少なく、医師が地域的に偏在しているという問題ではないことを本田さんはデータで示してくれました。

本田さんが活動に大きくコミットしていった契機は、日本から病院が消えるのではないかといち早く警告を発していた長崎大学名誉教授の高岡善人さんからの1通のファックスだったそうです。
高岡さんとの出会いから本田さんは渋沢栄一を学びだし、明治維新にまでたどりついたのですが、高岡さんの遺志を引き継ぎながら、その思いを広げるために活動しているのです。
そのあたりのお話もパワーポイントに書かれています。

本田さんは、ドイツの医師、ルードルフ・フィルヒョウの「医療はすべて政治」という言葉も紹介してくれました。
この言葉にとても共感しますが、私は「福祉はすべて政治」だと思っています。
にもかかわらず日本の福祉に取り組むNPOが政治に概して無関心で、受け身的なことをいつも残念に思っています。
政治に関心を持たずに市民活動などできるはずはありません。

ちなみに、最近の日本では、自助・自立・相互扶助の動きを強め、公的な社会保障や医療が後退し、市場化される傾向にありますが、こうした動きの意味を、私たちはもっとしっかりと考えなければいけません。

本田さんは、最後にネルソン・マンデラの言葉を紹介してくれました。

何もせず、何も言わず、不正に立ち向かわず、抑圧を抗議せず、それで自分たちにとっての良い社会、良い暮らしを求めることは不可能です

心に響きます。
これこそが私が考える政治意識であり、社会性です。

本田さんは、「気づいた者」の責任として活動を続けていますが、「気づかない者」の責任も罪深い。
であれば、いろんなことに気づく場としてのサロンをさらに広げていくことが大切だと改めて思いました。

医療シリーズは引き続き継続します。
医療関係者にもぜひ参加してほしいです。


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2017/10/26

■節子への挽歌3688:自分でさえ気づいていない自分

節子
私のブログに出合った在米の日本人が湯島に来ました。
あることを調べていて、私のブログに出合ったのだそうです。
それが、この挽歌だったようで、ドキッとされたそうです。
その方はアメリカにもう30年ほどお住まいのライブラリアンです。
最近、お仕事をお辞めになり、今回は仕事ではなく日本に来ていたそうです。
そして帰国する前に、湯島に来てくれたというわけです。
湯島で私がやっているサロンに関心を持ってくれたそうです。

なぜこんな生き方をしているのか。
その話をする中で、節子のことも少しだけ話しました。
節子を見送って自宅に引きこもりがちだった時に、友人たちが引っ張り出してくれたことを、です。
考えてみれば、あの時から私の生き方は変わってしまったのかもしれません。
陰と陽のある生き方です。
決して裏表ではありませんが、たしかに陰と陽がある。
決して陰のない陽になることはありません。
陽の真っただ中にいても、突然、奈落に引きずり込まれるような気がすることも少なからずあります。
外から見える自分の内側が、どうも違うなと自覚することも時にあります。
困ったものです。

その人はアメリカでIT関係のお仕事もされていたそうです。
ですからネットに関しては、とても用心深いようです。
私のような何でもかんでもネットに開いている生き方とは対照的ですが、注意された方がいいですよとアドバイスされました。
私自身はネットの恐ろしさはかなり自覚しています。
20年ほど前、友人が事件に会った際に、私とのネットでの交流から私のところにまで警察が来たこともありますが、最近はそれどころではないのでしょう。
でもまあすべてをオープンにする生き方は、いまさら変えることもできません。
生活だけではなく、私の場合、心の奥の奥までできるだけオープンにしていきたいと思っていますが、ここまでオープンにしていれば逆に心配もないようにも思います。

しかし、そうは言っても、言葉にはならないこともたくさんあります。
それに自分でさえ気づいていない自分もいる。

最近、そう思うことが時々あります。


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■「今回の選挙結果」を踏まえての政治談議サロンの報告

「今回の選挙結果」を踏まえての政治談議サロンを開催しました。
予想に反して15人が集まりました。
今回の選挙の投票率の低さを跳ね返す気分です(あんまり関係ないですが)。
特にうれしかったのは、自民党支持者も来てくれたことです。
異論がなければ話し合いの意味は高まりません。

最初に、選挙結果に関するそれぞれの感想を話してもらいました。
大方の人はがっかりしていて、なかには「むなしい」という人もいました。
海外に転居したいというような人が少なくとも2人いました。
野党の混乱ぶりは、目に余るものがありますが、結果に喜んでいる自民党支持者さえもが野党はもっとしっかりしてほしいと言いました。

私は、「怒り(失望)」と「希望」を感じたと話しました。
怒りは投票率の低さ。
希望は政策別に政党が整理される兆しが生まれたことです。

みんな一家言ある人なので、話し出したら長いうえに、論点も飛び交いますので、疲れました。
時には、安倍政権支持者と反安倍者でかなりの激論になりました。
でもまあ掴み合いにまではいたらず、しかし建設的な議論にまではならず、まるで国会の論争を見ているような場面もありました。
まあ国会の議論よりは、お互いに誠実だったと思いますが。

若い女性は、政治はよくわからないがもっと安心して住める社会になってほしいと言いました。
しかし、男性たちの理屈っぽい話に退屈したようで、途中で席を替えて聞き役に回り、時々独り言をつぶやいていました。
床屋談義はやはり男の世界だなと思いました。
もっとも女性たちの井戸端会議も最近は実践につながってきているように思います。
女性たちは話しあっているだけだという発言もありましたが、私はむしろ女性たちのほうが実践的だと思っています。
しかし、男性と女性はやはりちょっとスタイルが違います。
できればそれをつなげていくことが大事かもしれません。
いつか政治合コンを企画しようと思います。
いずれにしろ、話しあうだけではなく、何か実践につなげていかなければいけません。

投票のための情報をどうやって集めているかという話も出ました。
若い女性は、日々の生活体験からと言いましたが、たぶんそれを投票につなげる言語がありません。
私は、今回もまた論点は政治家たちがそれらしい言葉でぼやかしていると感じています。
憲法改正とか脱原発、社会保障重視などは、いかようにも解釈できる言葉ですから、争点にはならないはずですが、それが争点だと言われます。
しかし、日々の生活から投票先を決められるように、選挙公約(マニフェスト)は日常用語で語られなければ、いつになっても「政治家の選挙」から「生活者の選挙」にはなりません
若い女性参加者は、3.11の被災者はまだたくさん大変な状況なのに、オリンピックをやろうとしているのがおかしいとも言いました。
それがたぶん現場につながっている人たちの素直な気持ちではないかと私は思いますが、今回、オリンピックに言及した人はいないでしょう。

こういう話から発展して、報道の姿勢に関してもかなりの議論がありました。
でも報道の姿勢よりも、報道を受ける方の姿勢も問題にすべきだろうと思います。

党議拘束の話など、他にもまだいろんな話題がでました。

ところで、私が意味のある争点だと思うのは、「原発の再稼働」と「再軍備」の是非です。
この2つは、なにかを変えることではなく、これからの行動ですから、その気になればできることであり、実践したかどうかも明確にわかることです。
こういうところが明確に示されれば、生活者でも判断できます。
政治を生活者に取り戻すためには、具体的な日常用語で政策を語ることから始めないといけないと思います。
同時に、それを理解するだけの知識と意見を、人々は持たなければいけません。
そんなわけで、こうした政治談議サロンは継続します。
問題提起した人がいたらご連絡ください。
だれでも話題提供者になれるのが、政治談議サロンです。
話しあう中から、社会性や政治への関心が高まることが大切ではないかと思います。

報告にかこつけて、なんだか私の意見を書いてしまいました。
すみません。

なおサロンの直前、アメリカ在住の方と会っていたのですが、その人からネット情報がアメリカでどう管理されているかを少しお聞きしました。
ちょっと不気味な話でしたが、私にも注意したほうがいいとアドバイスしてくれました。
いつもサロンの写真を無防備にアップしていますが。今回はそんなわけで少しぼかした写真にしました。
最近のテレビはモザイクをかけた映像が多いですが、そんな時代になっていることを改めて感じたので、その気分に従うことにしました。
もっともそんな「物騒な」話し合いが出たわけではありません。
なにしろ床屋談義ですから。
他愛もない話でしたが、そこにこそ政治の根っこがあるようにも思います。

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2017/10/25

■節子への挽歌3687:毛髪回復作戦を開始します

節子
寒い冬は気をつけなければいけません。
まわりでもいろいろあります。

最近、頭の真ん中がはげてきました。
そこでふと、そこの毛髪を増やしてみようと思いつきました。
そこでいつものように、フェイスブックで以下のようにアドバイスを募集しました。

アドバイスのお願いです。
私の毛髪はかなり薄くなっています。
頭の中央部は肌が見えるほどです。
私は無精者なので、現在は頭髪がぼさぼさにならないための調髪剤を使用しているだけです。
今日、洗髪しながらふと、頭髪回復は可能だろうかと思いつきました。
それで、「困った時のフェイスブック頼み」を信条としている私としてはアドバイスをお願いすることにしました。
何かいい方法はないでしょうか。
植毛などをせずに、まあ簡単な方法で、半年後にせめて地肌が見えないようになる方法はないでしょうか。
費用や努力が必要なことは私向きではありません。
最高のアドバイスは断念することだ、などという冷たいアドバイスも私向きではありません。
どうぞあたたかくて実効性のあるアドバイスをお願いします。
私の頭の真ん中の地肌が見えなくなるアドバイスをくださった方には、お礼にコーヒーをご馳走します。

10人超す人がアドバイスをしてくれました。
自然の流れに任せよという、至極もっともなものも含めて、です。
お礼を込めて回答をフェイスブックに書きました。

一番実行できそうなのが「セロリ療法」です。
私の好物でもありますので、食べることにしました。
それとビタミンCは食べるのでいいのでしょうか。
もしそうならこれも採用。いや既にやっていますね。シャンプーですが、近くの手賀沼を汚してはいけないので一時期石鹸を使用していましたが、最近のシャンプーは水にやさしいそうなのでしばらく前からシャンプー使用に戻しています。
でも、これも採用してみようと思います。
それ以外の案は、難癖をつけてみんな不採用にします。
最近は機嫌があまりよくないためです。

頭皮美容液は、近くの皮膚科のお医者さんと相性が悪いので、不採用。
かつらは、腕時計でさえダメな私にはまったく無理。
剃り上げと髭はいい案ですが、今回の主旨に合いません。
短く刈るのも同様で落選。
今回の目的は、はげた頭に自然に髪が生えることへの挑戦なのです。
見栄えとかという問題解決ではないのです。

「ふのり」はどこで入手できるのかよくわからないのとめんどくさそうなので不採用。
無駄な抵抗はやめなさいというアドバイスも不採用。無駄な行為が好きなのです。
「リアップ」は高価すぎる上に簡単には買えないようなのですが、とりあえず保留。

他にもいろいろとありましたが、結論としてセロリとビタミンCの摂取に努めます。
さてさあてうまくいくでしょうか。

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2017/10/24

■節子への挽歌3686:壁か溝か

節子
2日かけて、英国ドラマ「埋もれる殺意」をみました。
それに関しては今日の時評編で書きました。
いろいろと考えさせられる人間ドラマですが、さまざまな夫婦が出てきます。
みんな愛し合っているのですが、どこかに壁がある。
壁をつくっているのは、悪意からではなく、過去を知られることの不安です。
かなりの人生を別々に生きてきた2人が、生活を共にするのは、それなりに大変なことです。
文化も思考も違えば、好みも価値観も違う。
だから注意しないと溝ができる。

壁と溝は意味合いがかなり違いますが、2人の世界を分けてしまう点では同じです。
壁や溝があっては、なかなか同じ世界はつくれない。
全く同じ世界を生きることは煩わしいし、たまには一人の世界に浸りたいという人もいるかもしれません。
しかし、私が思うのは、同じ世界であればこそ、それぞれの平安な居場所がつくれるのではないか。
となりに、もうひとりの自分がいると思えば、逆にまわりを気にせずに、自分に浸りきれるような気がします。
私たちは、たぶんそうでした。
壁も溝もないからこそ、自分を思い切りだせたように思います。
そういう意味では、お互いにいつも自分をさらけ出せる関係でした。

ドラマの世界はともかく、現実はどうでしょうか。
夫婦の壁や溝はどのくらいあるものか。
私の体験では、夫婦関係を続けていると、壁は低くなります。
逆に気をつけないと溝は深くなりがちです。
私たち夫婦も、溝ができかけたことはあります。
しかし壁がなかったことが、その溝を深めずに埋めていくことができた気がします。

溝がないと気づいたのは、私が会社を辞めると節子に話した時です。
節子は、私が話す前からそれに気づいていました。
拍子抜けするくらい、よくこれまでもったねと言いました。
壁がないため、すべては見透かされていたのです。

壁があろうとなかろうと、夫婦はお互いに見透かせるものです。
一緒にいる時間が少なければともかく、普通に同じ家で寝食を共にしていれば、わかると思えば、すべてがわかるでしょう。
ただし、溝があれば、わかろうとするところに曲解が入り込んで、おかしな実態を虚構してしまうかもしれません。
それがまた溝を深め、壁を高めてしまうのかもしれません。

幸せそうな老夫婦に出会うことがあります。
私たちもきっとこうなっただろうなと思うこともあります。
今生ではそれが実現できなかった。
来世では、それを手に入れたいと思います。

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■時代に生きるのではなく、自分を生きたい

最近、英国のテレビドラマに興味を持っています。
最近面白かったのは「Unfogotten」です。

「Unfogotten」は、日本では英国クライムサスペンス「埋もれる殺意」としてテレビで放映されましたが、偶然に発見された遺体から、39年前や26年前の事件が掘り起こされていく話です。
http://www.wowow.co.jp/detail/111321
腕時計に残っていた職人のサインから被害者が特定されたり、26年間水没していたポケベルから交流のあった人たちの通話データが復元されたり、ともかく記録が社会システムとして残っていることがわかります。
時計職人が30年前の修理の記録を残しているという文化は、いまの日本では極めて限られたものになってしまっているでしょう。
なにしろ1年前の行政上の重要な記録さえ廃棄され復元が拒まれる社会なのです。
企業も同じです。
最近の大企業の醜態をみれば、もはや記録を残す文化はなくなってしまっているように思います。
消費型になってしまった日本社会では、もう30年前の事件を掘り起こすことなどできないでしょう。
歴史を大事にしない国(組織・都市)には未来がないような不安があります。
このドラマを見る限り、イギリスは違うようです。
長い時間軸で生きている英国社会の蓄積制というか、システム性というか、そういうことにも圧倒されます。
最近はどうなっているかはわかりませんが、このドラマの時代設定は現在です。

このドラマは、サスペンスとありますが、むしろ物悲しい人間ドラマです。
さまざまな人間の生活が時間軸も含めてていねいに描かれています。
だれもが過去を背負って生きている人間であることもさりげなく語られています。
主役の警部や警部補さえも、それぞれ家族にも自分にも、日常的な問題を抱えています。
人の哀しさや素晴らしさがじわじわと伝わってくるドラマです。
イギリスという国の文化やイギリス人の思考も伝わっていきます。
英国人の生きる時間軸も、いまの私たちとは違うようです。

第2シーズンの最終回のなかで、私の心に深く響いた言葉があります。
過去(26年前)のことを調べる警部に関係者がこう言って協力を拒もうとします。
「もう大昔の話じゃないか」
そこで警部(女性です)が語気を強めます。
「昔々って、もううんざりです。
でも昔と言って片づけられないんです。
そのような人間のせいで、被害者は今でも苦しんでいます。
彼らは死ぬまで癒えない傷を抱えるんです」

事件は、10代の時に性的暴行を受けた事件に絡んだ物語です。
26年前当時は社会の価値観が違っていたと、関係者は言います。
「時代は変わった、おれたちも変わった。今はああいう人間を見過ごすことはない」

警部は怒りを抑えてこう言います。
「そうだといいんですけど。でも10年前に見過ごした人も時代のせいにするんです。今の人たちが将来、同じ言い訳をしないことを願います」

Unfogottenとfogotten。
時代に生きるのではなく、自分を生きたいと、改めて思いました。

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■出会いがしらにぶつかりそうになってヒヤリとした体験はありませんか

私の友人の小宮山さんは、ミラーを制作している会社を経営していますが、自社が制作しているミラーをもっと社会に役立てたいという活動をしています。
すでに、駅の階段、病院や福祉施設、学校などで、衝突防止用に使われていますが、もっといろんな場での活用を広げたいと考えています。
それで先月、日経新聞に添付のような広告を出して、「出会いがしらにぶつかりそうになってヒヤリとした体験」を募集しています。
今月末まで募集中ですが、みなさんのなかに、ヒヤリ体験をしたり衝突防止に悩んでいる人もいるのではないかと思います。

もし皆さんの中に、そういう「ヒヤリ体験」をお持ちの方は、ぜひ応募してやってください。
応募要領は次にあります。
http://www.komy.jp/taikendan/

よろしくお願いいたします。

20170922


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2017/10/23

■サロン「Bコーポレーションってご存知ですか」報告

今回の企業を考えるサロンのテーマは「Bコーポレーション」。
台風襲来の最中にもかかわらず13人が参加しました。
台風が来ているのに終わった後もなかなかみんな帰ろうとせずに、話題を提供してくれた石井さんとの話が続きました。
新しい企業のあり方のヒントがたくさんあったような気がします。

Bコーポレーションとは、アメリカのNPO法人BLabが認証した企業で日本ではまだ4社しか認証されていません。
今回お話し下さった石井さんが社長をつとめる会社、石井造園はそのひとつです。
しかも、とりわけ何かをしたわけでもなく、認証されたいと思ったわけでもなく、NPOに評価されるということに興味を持った石井さんが、地のまま申請したら高評価で認証されたのです。

企業を評価する視点は3つあります。
まずは経済的な視点からの評価で、これはたくさんの評価の仕組みがあり、株価もその一つです。
もう一つは、そこで働く従業員の視点からの評価で、たとえば、GPTW(Great Place to Work:働きがいのある会社)調査があります。
これは一度、湯島でもサロンをやりました。
Bコーポレーション認証は、それらとは違い、もっと広範囲の視点での企業評価制度です。
大きくいえば、環境や地域社会などを含めた持続可能な社会(SDGs)という視点から企業を評価します。
ですから評価主体もNPOなのです。
そして、それは同時に、会社そのものの持続可能性にもつながっているという視点です。
私が一番信頼する企業評価の発想です。

石井さんの話はとても人間味あふれる話で、いまの企業が失ってきていることを思い出せる内容でした。
石井造園の経営理念は、「企業活動を通して、幸せを共有する企業を目指す」です。
BコーポレーションのBは、ベネフィットの略ですが、石井さんはこのベネフィットを「幸せ」と受け止めているように思いました。
ベネフィットは何かという話題も出ましたが、コーオウンド・ビジネスに取り組んでいる細川さんが「便益」と訳することに違和感を表明されました。
たしかにもっと広くて深い意味を感じます。
そうした広くて豊かな内容が、石井さんのお話から伝わってきました。

石井造園が取り組んでいる社会活動はいろいろありますが、その方針は「ついでに、無理なく、達成感のある活動」です。
「ついでに」というのは、本業とつなげながら、という意味です。
それでもできることはたくさんあると石井さんは考えています。
「無理なく」は持続性を大事にしているからです。
「達成感のある」は、社員がしっかりと関わっている活動だということでもあります。
この短い方針に、石井造園が社会とどう関わろうとしているかがすべて示されています。
そこから学ぶことはたくさんあると思います。

石井さんのお話を貫いていたのは、人を基点で考えるということです。
最近の多くの会社では、会社という仕組みに人を当てはめがちですが、石井造園は人を基点にして会社の仕組みを考えています。
ですから、有給休暇の前借りとか分割取得とかが、社員の要請によって制度化されてきています。
それは、石井さんの人間観に大きく影響されているように思います。
石井さんが社員のことを話しているうちに涙ぐむ場面がありましたが、石井さんがどのくらい社員と共にあるのかが伝わってきました。
そして社員もまた、石井造園という会社を「私たちのもの」と受け止めているようです。
ですから、社長がいなくても、社長の考えを社員が自ら行動に移していくのです。
その象徴的なことが、まさにあの3.11の時に起こったそうです。
社長が渋滞に巻き込まれて帰社できない状況の中で、会社を開放して、被災者への「ベネフィット」が提供されていたのです。
その後、そのベネフィットのおかげを受けた方からお礼の菓子箱がたくさん届いたそうです。
まさに「ついでに、無理なく、達成感のある活動」そのものです。

もう一つ印象的だったのは、社員が会社のなかだけではなく、社会で輝くことを支援しているという姿勢です。
それが会社の輝きにもつながってくることを石井さんは実感されています。
石井さんの視野は、会社の壁を超えて、社会を向いています。
それこそが、Bコーポレーションの精神だと思います。

他にも緑化基金の話やいろんな話が出ましたが、いずれもそこには人間を感ずるものばかりでした。
いつもメモを取らないので、偏った報告になっているかもしれませんが、できればどなたかフォローしてください。

なお、石井造園のホームページにはいろんな社会活動も紹介されています。
http://www.ishii-zouen.co.jp/company/


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2017/10/22

■節子への挽歌3685:あっという間の3時間

節子
福岡の西川さんが久しぶりに湯島に来てくれました。
西川さんは節子の葬儀にも来てくれました、その後、わが家にまできてくれ、ハーモニカを演奏してくれました。

久しぶりに会う西川さんはお元気そうでした。
なによりも顔が輝いていました。
医療機関による治療は、鍼灸以外は一切やめ、薬の服用も止めた結果かもしれません。
ハーモニカもきっと影響しているでしょう。
西川さんはハーモニカのストリートパフォーマー活動やハーモニカ指導などもしていますが、長年難病に悩まれていたのが嘘のようにお元気そうで、以前は手放せなかった杖も不要になったそうです。
難病や重度の障害を持つ人も、西川さんのハーモニカ指導で奇跡を起こしている人もいるようです。
あっという間の3時間でした。

たくさんの刺激もいただきました。
取り組んでいる活動の話もお聞きしました。
みんな夢のある、しかも社会に新しい価値を提供する活動です。
ともかく自分の人生を生きている。
それが輝いている理由かもしれません。

久しぶりにさわやかな元気をもらったような気がします。
話は尽きなかったのですが、台風で飛行機が飛ばなくなる恐れがあるので、早目に羽田に行くというので、少し早目の昼食を一緒にして別れました。

西川さんを見習わなければいけません。

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2017/10/21

■節子への挽歌3684:人生のど真ん中が空洞

節子
投票日が朝早くから出かけなくてはいけなくなったので、期日前投票に行ってきました。
例年以上に混んでいました。
今回の選挙は、戦争と原発を受け入れるかどうかの選挙ですので、投票先ははっきりと決められます。
大義がないとかどこに投票していいかわからないなどという報道が多いのですが、何も考えない人たちはその報道の言葉を言い訳にして、いつものように何も考えていない気がしていましたが、期日前投票者の多さを見て、ちょっと状況が変わって来たかなという気がしました。
もしそうならばうれしいことです。

節子がいなくなってからの私は、あまり誠実に生きているとは言えませんが、その私から見ても最近の日本人は、自分の人生を生きていないような気がしてなりません。
幸いなことに、私のまわりにはまだ、生きている人間がいるので自分の生き方がむしろ恥ずかしいですが、新聞で見る限り最近の日本にはしっかりと自分を生きている人は少なくなったように思います。
それが証拠に、最近は企業にしろ行政にしろ、学校にしろ施設にしろ、信じがたい問題が多すぎます。

どうしてこんな社会になってしまったのでしょうか。
節子がもし元気だったら、都会とはすっぱり縁を切れたかもしれませんが、私一人ではそうする勇気はありません。
人と会うことで、なんとなく生きている気になっていますが、人と会うと必ずと言っていいほど、心が乱れます。
つまり、社会ともっと関わりたくってしまい、煩わしいことを引き受けてしまうのです。
奇妙な話ですが、これはたぶん確固たる自分がないからでしょう。
人が嫌いなくせに、人に会わないとさびしくなる。
人生のど真ん中が空洞のためかもしれません。

今日は投票に行った後、英国のクライムドラマを5時間も見てしまいました。
39年前の殺人事件を掘り起こし解決するというドラマです。
とても暗くて、惨めな気持ちになるドラマですが、最後はさわやかな終わり方になっています。
心に響くセリフもいくつかありました。
生きるとは何か、家族とは何か、愛するとはどういうことなのか。
そんなことを考えさせられるドラマでした。
シリーズ2もありますが、さて見ようかどうか迷っています。
最近はドラマや映画を観ると、なんだか自分の人生を問い質されるような気がするようになってきました。

今日もまた寒い1日でした。

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■サロン「メディアリテラシーから読み解く世界の素顔と「陰謀論」」のお誘い

10月の政治を考えるサロンは、初回だったこともあり、話題が拡散してしまった感がありますが、それを踏まえて、11月から2つの流れで「政治サロン」を継続させていこうと思います。

ひとつは「政治時評」シリーズで、これは原則、毎月、その時々の政治問題を取り上げ、理解を深め自らの考えを深めていくとともに、できれば何か実践的な活動につなげていこうと思います。
まあ、床屋談義的な政治談議です。
次回は、今回の選挙結果をどう受け止めるか、というテーマ。
その後は、問題を絞り込んでいく予定です。

2つ目は、具体的な政治問題ではなく、政治観や政治のビジョン、あるいは政治を通して目指すべき国家観のような問題の話し合いです。
毎回、問題提起者を決めて話をしてもらい、それをベースに話しあうというサロンです。

今回は、その2つ目のサロンのご案内です。
政治にはさまざまな「意図」や「情報操作」があふれています。
そのため、言葉だけが横行して、実態がなかなか見えなくなってきています。
そこで、長年、情報を読み解きながら独自の政治観や世界観を構築してきている、中島正憲さん(ヒューマンアーツ株式会社代表)に、政治を読み解くためのメディアリテラシーを話していただき、そこから見えてくる世界の見方を話してもらおうと思います。

中島さんは、高校時代に映画を創ったことがきっかけで将来映画監督になる夢を持っていました。そのため映画やテレビドラマを食い入るように観察するうち、映像情報の作られ方やその影響力の大きさに興味を持つようになり、さらに大学で新聞学科を専攻して報道の世界に関心を持つと同時に東南アジアを半年かけて一人旅をして来たことで、世界情勢に興味が広がったそうです。
当時の東南アジアは、ベトナム戦争終結後まだ6年。続いて起こったカンボジア内戦で政権を掌握したポルポトが国民を大量虐殺に追いやり、結果ベトナムの侵攻を招いてタイ国境沿いに追いやられたクメールルージュとポルポト派住民の難民問題が生じていた頃で、熱帯の山野にはまだまだ硝煙の匂いが感じられていた頃でした。
そのような当時のアジア6か国を歴訪するうち、世界の多様な価値観と複雑な国際情勢、そして報道されているものが全てではない事に気づいて一体本当には世界で何が起こっているのか?という問いに興味を抱き、以後30数年、一般のメディアを書き手、作り手の立場から見ることで世界の真相を嗅ぎ取る習慣を身につけて来たとのことです。

ちなみに中島さんは、商品開発分野のコンサルタントや発想力・着眼力のトレーナーが、いわゆる本業のお仕事で、社会人としてのキャリアはマーケティングやヒット商品のプロデュースです。
もしかしたら、そうしたいろいろな立場の視点に立たねばならない習慣が、「陰謀論」からも読み解く中島さん独自の世界観を育ててきたのかもしれません。
今回はそうした世界構造の「真相」やこれからの日本のあり方やビジョン、さらに世界を牛耳るウラ支配者の視点や戦略などにも話は広がるかもしれません。

前回同様、どこに話が飛んでいくかいささか心配ではありますが、ちょっと飛躍しながらの話し合いを体験できればと思っています。

世界を広げるためにも、ぜひ多くの人の参加を期待しています。

○日時:2017年11月11日(土曜日)午後1時半~3時半
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○問題提起者:中島正憲さん(「陰謀論」研究家)
○テーマ:「メディアリテラシーから読み解く世界の素顔と「陰謀論」」
〇申込先:qzy00757@nifty.com
○会費:500円。

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2017/10/19

■節子への挽歌3683:アイヌと共に1日を過ごしました

節子
今日も寒い日で、ほとんど自宅で読書をしていました。
先日湯島で開催したアイヌのサロンで触発されて、3冊の本を読みました。
といっても、1冊は北海道で使われている中学校の副読本です。
3冊の本を読んで、私がアイヌについてあまりに知らないことに改めて反省しました。
50年前に読んだ「アイヌ民族抵抗史」がいまなお出版(しかも2年前に復刊)されていることにも驚きました。
事態はほとんど変わっていないのかもしれません。

一昨年出版された「アイヌ民族の歴史」を読むと、アメリカのネイティブ、いわゆるインディアンの歴史と同じような状況だったことを知りました。
当時、アメリカの西部開拓史を読んで、多くのネイティブが惨殺されたことに衝撃を受けたことを覚えていますが、なぜか同じころ読んだはずの「アイヌ民族抵抗史」の内容は忘れていたこともショックでした。

節子がいた頃は、こうした話をよくしたものです。
節子が特に関心があったわけではありません。
しかし、私が知った衝撃を、いつもシェアしてくれました。
そして素直に話を聞き、反応してくれました。
人は話しながら思考を深め、広げます。
節子はまさに私の思考を広げてくれる存在だったのです。

そういうことがもう10年以上できなくなっています。
湯島でサロンをやると世界が広がります。
新たな関心が生まれてくる。
そのやり場がなくて、ちょっと困っています。

これから50年ぶりに「アイヌ民族抵抗」を読もうと思います。
それが終わったら、次はこれも久しぶりに「アイヌ神謡集」です。
今度は少しは理解できるでしょうか。

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2017/10/18

■節子への挽歌3682:「癒える」こともなければ、「癒す」必要もない

節子
昨日、お会いした人が、帰り際に「まだ癒えませんか」とつぶやきました。
1年ぶりくらいにお会いした方です。
お会いした件とはまったく関係のない問いかけだったので、意表を突かれた感じで、しかし即座に「癒えません」という言葉が出てしまいました。
なぜその方がそういう問いかけをしたのか、冷静に考えると理解できないのですが、もしかしたらその方はこの挽歌を読まれたのかもしれません。

その方は江戸っ子を思わせるような雰囲気を持った女性です。
最近、お父上を亡くされました。
それと重ねた問いかけだったかなとも思いますが、彼女は最近夫を亡くした友人が2年たっても涙が止まらないという話をしてくれました。
止まるはずがない、とこれも即座に言葉が出ました。
その人は、きっと「癒えたい」などとは思っていないでしょう。

しかし、そういう言葉を発しながら、「癒える」とはいったい何なのだろうかという疑問も浮かんできました。
今日は歯医者に行ったのですが、治療台の上でそのことを考えていました。
そもそも、悲しみは、悲しみとして残る以上、「癒える」ことなどあるはずもない。
それに「癒す」必要もない。
それが結論です。

癒えてしまったら、それは悲しく寂しい思い出ではなくなってしまう。
死者はそれを喜ばないでしょう。
思い出すたびに、笑いと涙が浮かんでくる。
そういう関係をつづけることこそが大切です。
悲しい時には素直に涙し、楽しい時には素直に笑う。
生前もそうだったように、そういう付き合いを続けるのがいい。
そう思います。

歯医者の治療台の上では、もっといろいろと考えが浮かんできたような気がしますが、要は、改めて、「癒える」こともなければ「癒す」必要もない、ということです。
だからきっと昨日は即座に言葉が出たのでしょう。

今日も寒い日です。
身心がとても寒い。
冬がもうすぐそこなのかもしれません。

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■「今回の選挙結果」を踏まえての政治談議サロンのお誘い

22日の投票日が近づきました。
めずらしく私にとってはほぼ予想通りの展開になっているような気がしますが、まだ結果はわかりません。
いずれにしろ日本の未来を決めるような大きな意味のある選挙のような気がします。
ともかくまわりの人たちには投票には行こうね、と声をかけています。
私の関心は、原原発稼働と再軍備だけですが、それらはまさに同じものです。

ところで、今回の選挙はいろんな意味で、選挙制度のあり方や国民の意識、あるいは政党の意味などを考えさせられる選挙になったように思います。
方向はわかりませんが、いずれにしろ、これまでとは違った動きが出る気配を感じます。

そこで、選挙が終わった10月25日の夜、湯島で「今回の選挙結果」を踏まえての政治談議サロンを開催したいと思います。
急なお誘いですが、もしよかったらご参加ください。
誰でも歓迎です。

○日時:2017年10月25日(水曜日)午後6時半~8時半
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf

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■サロン「呼吸器の子・重い障害を生きる意味」のキースピーチ動画

先日、湯島で開催したサロン「呼吸器の子・重い障害を生きる意味」での松永医師のキースピーチの部分を、近藤さんと松永さんのご尽力で動画に記録しました。
ぜひご覧ください。

https://youtu.be/UiAHRcwsNUA

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2017/10/17

■節子への挽歌3682:歯がないだけでも日常に戻れません

節子
前歯がないと気分が落ち着きません。
欠けた部分を残っているところに押し付けたのですが、話しているとはずれてしまいます。
うっかり飲み込んで窒息したら大変です。
それで無理してくっつけるのはやめました。

今日は2つのミーティングと3人の人に会う予定だったのですが、ミーティングの一つは延期になりましたので、少しほっとしています。
午前中のミーティングもなんとか終わりましたが、どうも気が入りません。
来週開催のイベントの相談でしたが、まあジャムセッション風にやろうということになってしまいました。
歯がないための結論とは言いませんが、まあ企画を詰める気力が出てきませんでした。

歯がないだけでも、人間はこんなに落ち着かなくなるのです。
伴侶がいなくなったら、それが10年続いても、まあおかしくないなと思います。

ところで歯ですが、意識しなければいいのですが、どうもはがないと唇や下の感触が違い、ますます意識してしまいます。
困ったものです。
思考がそこに向いてしまう。
明日は歯医者さんに予約ができたので、それまでの辛抱です。

今日はこれから2組の人がやってきます。
まあ最初の人はよく知っているのでいいのですが、続いてくる人は久しぶりの人で、私のことを必ずしもきちんと知っているわけではありません。
歯がない私を見て、笑うわけにもいかずに悩むかもしれません。
その人と最初は食事でもしようかと思っていたのですが、食事にしなくてよかったです。

歯は大事にしなければいけません。
欠けるかどうかやってみようなどと、馬鹿な考えを起こしてはいけません。
まあしかし、私の人生は、もしかしたらそんな感じだったのかもしれません。
笑われるようなことばかりしてきたような気もします。

今日は湯島ですが、めずらしくランチタイムがとれたのに、食事をする気なれません。
結局、ポタージュスープを飲んだだけです。
さてこれから2つのミーティングをうまく乗り切れるでしょうか。
おなかが鳴らなければいいのですが。

チャイムが鳴りました。
お客さまがきました。

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2017/10/16

■節子への挽歌3681:自分を生きるということ

節子
一昨日、アイヌをテーマにしたサロンを湯島で開きました。
アイヌの島田あけみさんが参加してくれましたが、彼女は「45歳からアイヌになった」といいます。
つまり、それまでは自分がアイヌであることをできるだけ隠して生きていたということです。
たしかにそういう時代でした。
それから16年、先日お会いした島田さんにはオーラを感じました。
自分に戻れば、人は生き生きとしてくるのです。

しかし、自分をしっかりと生きることはそう簡単なことではなさそうです。
社会に合わせて生きていくのが一番楽かもしれません。
しかし、そうできない人もいます。

私は、それなりに自分を素直に生きてくることができました。
それがよかったのかどうかはわかりません。
節子がもし今も隣にいたら、よかったといえるでしょうが、いなくなった今となっては、そう確信することもできません。
しかし、私が私らしく生きることができたのは、節子のおかげです。
私のことを信頼し、理解してくれた、たぶんただ一人の人ですから。
感謝しなければいけません。
人は、自分を無条件に信頼してくれる人がいる時には、自分に素直に生きていけるものです。
節子がいなくなってから、それがよくわかります。
いまの私は、時にちょっと自分らしくないような気がするのです。

今日は寒い日でした。
寒い日は、節子を思い出します。

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■節子への挽歌3680:歯が折れました

節子
昨日、前歯がまっぷたつに折れてしまいました。
困ったものです。

実は、あまり詳しくは書きたくなのですが、硬いものを歯で割ろうとしたのです。
これまで実は数回その行為をやっているのですが、その度に、歯が欠けるかもしれないので止めようと思っていたのです。
その一方で、欠けるかどうか試してみるというワクワク感もありました。
しかしなかなか欠けません。
それでますます続けてしまっていたのですが、昨日、欠けるどころか前歯が完全に根元から折れてしまったのです。
歯医者さんはもう終わっていましたし、月曜日は休診なので、今日は歯なしで過ごしています。

こういう事が起きるたびに思い出すのが、映画「荒野の七人」で、スティーブ・マックイーン演ずるヴィンが語っていたことです。
「裸でサボテンに抱きついた男がいた。どうしてそんなことをしたのかと訊いたら、その時はそれがいい考えだと思ったのだのだそうだ」
とても納得できる話です。
この映画を観たのは、たぶん大学生の頃だったのですが、以来、その言葉が忘れられません。
忘れられないばかりか、そういうことをやってみたいという気持ちが、無意識の中で続いているようで、後から考えるとあまりにも馬鹿げたことを私も何回もやっているのです。
今回の歯が欠けるかもしれないがやってみようと、言うことも、その一つです。
欠けてみて、一方ではしまったと思いながら、やはりね、と安堵もしています。
欠けるのではなく、根元から折れてしまったのは予想外でしたが。

それで今朝から食事が怖くなってしまっています。
それに、歯が1本ないだけでも、実に奇妙な感覚なのです。
今日はちょっと出かける気にならずに在宅で済ませています。
寒い雨の日になったので、在宅できてよかったです。
でかけていたら、風邪をひいてしまったかもしれません。
出かけるなという神の警告だと受け止めましょう。
ありがたいことです。

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2017/10/15

■カフェサロン「今を生きる先住民族」報告

アイヌ民族との交流を重ねている写真家の井口康弘さんにお願いしたサロンには、アイヌ民族の島田あけみさん(チャシ アン カラの会代表)も参加していただき、13人のサロンになりました。

井口さんは、2013年に行われた、ニュージーランドのマオリ民族とアイヌ民族との草の根交流活動の映像をまず紹介してくれました。
ニュージーランドでは1970年代からマオリ民族の文化復興と権利回復が進んでいます。
そして、マオリの文化がニュージーランド社会や経済に大きな貢献をしているそうです。
その一方で、日本でアイヌ民族が先住民族として認められたのは2008年。
アイヌがアイヌとして生きる社会にはまだなっていないようです。
それを知った、マオリの人たちがこの交流活動を呼びかけてくれたのです。
それ以前から、島田さんはマオリと交流がありました。

2013年、マオリの呼びかけで、若者を中心に15人のアイヌが1か月にわたりニュージーランドを訪れ、マオリの歴史・文化・教育制度などを学びました。
そのときに、マオリの人たちから、「40年前にはマオリは一つになれなかったが、いまは団結して立ち上がれるようになった。きっとアイヌもそうなれる。私たちが持っている経験・知識はすべて皆さんと分かち合いたい」と言われたそうです。
その時の映像を井口さんは見せてくれたのです。

映像からは、マオリの人たちの生き生きした表情と豊かさ、そして誇りが伝わってきます。
参加したアイヌの若者たちが、大きなエネルギーをもらったことがよくわかります。
マオリとの出会いが、変化の芽を育てはじめ、帰国後、研修参加者によって、マオリの取り組みをモデルにした新しいプロジェクトが立ち上がりました。

島田さんは、45歳からアイヌになったと言います。
アイヌとして誇りを持って生きはじめたということでしょうが、そのきっかけの一つが、マオリとの交流のようです。
井口さんの映像のおかげで、そうした島田さんの言葉が素直に理解できました。

Ainusalon

後半の話し合いではいろんな話が出ましたが、きちんとした話し合いをするには、私はあまりにアイヌを知らないことに気づきました。
学生の頃からアイヌには関心があり、それなりにアイヌ関係の本は読んでいますし、知里幸恵さんがまとめたユーカラから選んだというアイヌ神謡集も読んではいるのですが、それらはまったくの知識でしかありません。
訊きたいことは山のようにあるのですが、どう訊いていいかさえわからないことに気づかされました。
それに私の中で浮かんできた質問などは、もしかしたら瑣末な話かもしれないという気がしてしまいました。
マオリとアイヌの交流の映像が、あまりに大きなメッセージを与えてくれたからかもしれません。
そこに出てきたマオリやアイヌの人たちの表情は、あまりに明るく、豊かでした。

いずれにしろ、私たちが知っているアイヌ像は、かなり現実とは違うようです。
たぶん多くの人は、アイヌの人たちの写真を見たことがあるでしょう。
それはもしかしたら、創られた映像だったかもしれません。
それに関しては、西坂さんが具体的な材料を示しながら話してくれました。

島田さんに言わせれば、アイヌに対する差別意識はまだ残っているようです。
日頃アイヌとの接点のない私は、具体的に差別をイメージすることさえできません。
しかし、まだ生きづらさはなくなっていないようです。
そうした状況を変えていくためには、子どもたち若い世代に、アイヌの誇りを取り戻すことが大切だと島田さんは言います。
マオリの人たちとの交流がそれを育ててくれると島田さんは考えています。
アイヌを生きることの楽しさや喜びを体験することが大切だと言うのです。
とても共感できます。
ですから、マオリから勇気と希望を受け継ぐために、第2回交流プログラムを開催したいと、今その準備に取り組んでいます。
資金的な支援を現在クラウドファンディングで呼びかけています。
ぜひみなさんも協力してくれませんか。
https://readyfor.jp/projects/ainu-maori
アイヌ文化の復興を目指していくことが、日本がもっと多様で、調和のある、平等な社会になることにつながっていくと島田さんたちは考えているのです。
問題はアイヌだけではなく、私にもつながっている「みんなのプロジェクト」なのです。

小田原からわざわざ参加してくれた露木さんは、最近の中国の少数民族同化政策につなげて、話をしてくれました。
日本も同じようなことをやっていたら、中国に対抗できないのではないかと言うことです。
世界各地で少数民族の問題が広がっていますが、日本の国内にも同じ問題があることに私たちは気づかなければいけません。

同時に、これはまた、少数民族問題だけではなく、障害者やハンセン病、さらには福島の被災者などにもつながる話です。
つまり、私たちの社会のあり方に関わっているのです。
今回のサロンで、アイヌ問題から見えてくることの大きさと深さを改めて感じました。
今回も自分の無知さを改めて思い知らされるサロンでした。

井口さんは、このサロンの打ち合わせをしていた時に、「後から住みだした人々(和人)が何を奪ってきたのか、という点は明らかにしておきたい」と言っていました。
それは実は、私たちの生き方から失われていること、あるいは最近の社会の生きづらさにもつながっていることに気づかされました。
それに関してひとつだけ紹介します。
島田さんは、死者の送り方について、お金のかかる和人の葬式と死者と共にあるアイヌの人たちの送り方を少しだけ話してくれました。
とても共感しました。
そこにもしかしたら、すべてが象徴されているのかもしれないと思いました。

東京オリンピックの開会式で検討されているというアイヌのパフォーマンスも話題になりました。
魂の入らない商業主義的なものにならなければいいのですが。

島田あけみさんが身心から発する「深い思い」、「生命の躍動」の刺激があまりに大きかったので、今回もまた消化不足で、うまくまとめられず、不十分の報告ですみません。

井口さんが紹介してくれた映像をもっと多くの人に見てもらいたい。
アイヌの文化にもっと多くの人に触れてもらいたいと思いました。
なお、10月21日、島田さんが代表を務めるチャシ アン カラの会の主催で、横浜のスペース・オルタで、「アイヌ感謝祭」が開催されます。
チラシを添付します。

Img2443


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■それでもあなたは原発再稼働に賛成しますか

NNNドキュメント「放射能とトモダチ作戦」 米空母ロナルドレーガンで何が? の再放送を見ました。
衝撃的な内容でした。
その番組の最後のナレーションは、

トモダチ作戦で頑張ってくれた若き米兵らが、原発事故の放射能で被曝して健康を害したとして、402人が裁判を起こしていることを、あなたは知っていますか?

でした。
私は知りませんでした。
すでの9人が被曝で亡くなっていて、もう身体が自由に動かなくなった人たちも少なくありません。
にもかかわらず補償も十分ではないようでした。
なにしろ裁判になっているくらいですから。

番組解説にはこう書かれていました。
http://www.ntv.co.jp/document/backnumber/archive/post-66.html

福島第一原発の事故。汚染されたのは東日本の陸上だけではなかった。実は、放射性物質の約8割は太平洋上に流れ込んでいたという。そして東北沖で"トモダチ作戦"として支援活動していたのが米空母ロナルドレーガン。当時、艦内では放射能アラームが鳴り響いていた。乗組員の兵士らは今、続々と放射能による健康被害を訴え死者は9人に。そして米兵ら400人以上が東電などを訴えている。空母で一体何があったのか?

海上の空母の乗組員でさえ、こうした状況にあるのに、なぜ福島原発では死者が出ていないのか。
そこに大きな疑念をもちました。

録画しておけばよかったのですが、録画しませんでした。
再放送なので、いまのところ再放送は予定されていないようです。
ネットのユーチューブ流れていますが、もし可能であればぜひ見てください。
見られないかもしれませんが。
http://www.dailymotion.com/video/x63roud

身心が凍るようなメッセージが伝わってきます。
この番組を見たら、脱原発とか再稼働とか議論することさえ無意味に思えます。

もし自分がその当事者になったら、と思うと、今度の選挙の投票先は明確です。
再放送がないのがとても残念です。

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2017/10/14

■節子への挽歌3679:「いい人生だったのだろうか?

節子
今日も寒い日です。
こたつが欲しいほどです。

最近なぜか「煩悩」が増してきているような気がします。
方向が反転してしまったのです。
困ったものですが、周りの人たちの生き方への羨望の念が高まっています。
みんなが幸せそうに感ずることが多くなってきています。
ここで「みんな」と言うのは、「すべての人」と言ってもいいでしょう。
それに比例して、何やら自分の生き方が貧しく感じてしまうわけです。
自分の生き方に否定的になる経験はあまりなかったのですが、どうも最近はそんな気分が生まれてきています。
この歳になって、おかしな話ですが、どうもすっきりしない日が続いています。

これは言い換えれば、自分への「肯定感」のゆらぎです。
彼岸への旅立ちの時に、「いい人生だった」と言えるかどうかはとても大切です。
節子は、「いい人生」だったと言っていましたが、果たして私には言えるかどうか。
最近、あんまりそうも思えなくなってきたのです。
ちなみに、ここで「いい人生」と言うのは、自分に恥じない人生だったという意味です。
今年の春までは、私はその意味では「いい人生」だったと確信していました。
でもどうも最近はそう思えないのです。

何があったのでしょうか。
心当たりはありませんが、最近、長い人生を振り返ると何やらたくさんの「後悔」のようなものが押し寄せてきます。
それが私の気持ちを萎えさせているのかもしれません。
この気分がいつ反転するか。
待つしかありません。
いまさらこれまでの人生を変えることはできませんから。

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2017/10/13

■国の責任とは何なのか

10月10日、福島地裁は原発事故に関して国の責任認め賠償命じる判決を出しました。
原発事故をめぐる集団訴訟は全国18の都道府県で1万2000人余りが訴えを起こしていますが、今回の福島地裁の判決は3つ目の判決です。
原発事故を防げなかった国の責任を認めたわけです。
原告代表は、「国の責任が認められたことは評価できる」と話しています。
私は当然だと思いました。
賠償金ももっと払ってもいいのではないかと思いました。

ところで、こういう「国の責任」を認める判決が出た時、私は「国」とは何なのだろうかといつも悩みます。
政府という意味でしょうか。
それなら理解できますが、では政府とは何なのか。
私を含む国民が、社会統治を委託している人たち、つまり行政府ということでしょうか。
その政府の責任が問われ、賠償金を支払うということは、統治を委託した私たちの税金で賠償するということです。
ということは、実際には政府を構成する統治者たちが賠償金を負担するわけではありません。
賠償金を負担するのは、被告(被災者)を含めた国民であって、責任が問われる行政府の人ではありません。
これはおかしいのではないのか。
いつもそう思うのです。
国の責任とか政府の責任などと言わずに、行政府の誰かを被告にすべきではないかと思うのです。
政府の責任が問われて賠償金が認められたのであれば、賠償金は政府のトップである首相や管理責任者が払うべきではないかと、私はいつも思うのです。

神戸製鋼が今回とんでもない不祥事を起こしました。
昨今の企業は一体どうなっているのかと思うのですが(私の考えでは1980年代頃から日本の企業はおかしくなりだしています)、株主訴訟で経営者の責任が問われ、場合によっては賠償金の請求が個人にも行くでしょう。
不祥事があれば、社長が謝罪に出てきます。
しかし、国家の場合は、そういうことはほとんどありません。
それがどうしても理解できません。

もう一つ理解できないのは、賠償金額が低すぎることです。
もし自分が被害当事者になったなら、こんな賠償金で生活が戻るはずはありません。
少なくとも私の感覚では一桁は違います。
被災者とそうでない人との感覚の違いでしょうが、あまりにも低すぎます。
そして、こういう問題が起きても、相変わらず原発はコストが安いなどと言っている人が多いことも不思議です。
さらに、原発再稼働を支持している人がいることは、私には信じがたい話です。

こうした裁判の被告は、「国」などという制度対象にするのではなく、首相や行政官僚にすべきではないかと思います。
もし国にするのであれば、賠償金は国民全員で均等に負担するようにすべきです。
もちろん原告も含めてです。

得をする人と損をする人。
誰かが得をし、だれかが損をするための制度が国家なのでしょうか。
そんな国家は変えていかなくてはいけないと思います。
国の責任と言われて、自分の責任につなげて考えられない人は主権者ではありません。
国に責任があり、賠償金を支払わなければいけないということは、国民一人ひとりが問われていることです。
でもほとんどの人は、国の責任を認めた判決を読んでも、自分とは無縁だと思うでしょう。
どう考えてもおかしな話ではありませんか。

ともかくこうした判決が出ると、私はいつも悩んでしまいます。
頭がこんがらがって仕方がありません。

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■節子への挽歌3678:認識障害

節子
今日はまた雨です。
それに寒いくらいです。
私の気分と同じように、天気も毎日変わります。
自然の影響を受けやすい私はそれに振り回されそうです。

影響を受けるのは自然からだけではありません。
一番大きいのはやはり「人」でしょう。
今朝もパソコンを開いた途端に、心が沈んでしまうメールが3通。
人と付き合うのは大変です。
どうして人との付き合いはこんなにも食い違うものなのでしょうか。
善意のつもりが他者を傷つける。
相手の善意の行為が私を傷つける。
たぶんあまりに気楽に人と付き合いすぎているのでしょう。
節子が言っていたように、そしてある友人が諭してくれたように、付き合う人は選ばなければいけないのかもしれません。
でも私には選ぶことができないのです。
みんな同じに見えてしまう。
たぶん「認識障害」なのです。

しかし、こうした「身心が沈む出来事」も、ある意味では、私の世界を広げてくれます。
他者が起こすことは、私にもまた起こす可能性があることです。
自分と無縁でないと思うと、私と他者が重なってきます。

昨日、ある人から相談を受けました。
知人からとても不快な仕打ちを受けたようで、それに関しての相談でした。
電話などで話して一応解決したのですが、その後もまたメールで、いろんな情報を送ってきてくれました。
やはり忘れられないのでしょうか。
その人にメールしました。

忘れるというよりも、まあそういう人だったと思い、ある意味では赦してやるのがいいと思います。 そうしないと自分の心が乱されかねませんから。 そんなことで心を乱すのはもったいないです。

実はこれは、私自身がいまの私に行っていることのような気がします。
その人からメールが届きました。

〇〇さんのことは、気持ちのよいものではなく嫌な、苦い感じがいまだに残っていますが、 〇〇さんは、何も感じていないと思います。 人は、分かりませんね。 自分にとっては辛いことでしたが、赦す、諦めるようにします。

私もそうしないといけません。
しかし私が「認識障害」であることをもっと早く知るべきでした。
今となっては、認知症と間違われそうです。
困ったものです。

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2017/10/12

■節子への挽歌3677:「人の痛み」と「金の力」

節子
今朝の日の出時には靄がかかっていましたが、8時過ぎから陽が出はじめ、さわやかな秋日和になりそうです。
しかし世間は相変わらずいろいろとあって、早朝から電話がありました。
ちょっと内容は書けないのですが、昨日、駆け込み寺的にあった電話の続きです。
調べてみたらこんな事実がありましたという内容ですが、人を信じてだまされそうになったという内容と言っていいでしょう。
まあよくある話ですが、その双方が私の知っている人なので、いささか事情は悩ましいのです。

話はとんでもなく変わりますが、アメリカのフーバー大統領の回顧録がようやく日本でも翻訳出版されました。
1300頁の大著なので読む勇気はまだでませんが、それを翻訳した人の書いた本を読みました。
そこにフーバー大統領の生い立ちが書かれていました。
貧しい環境で育ったようです。
だからこそ、人の痛みがわかり、生活視点での政治を行ったようです。
今日、電話があった事件に絡んでいる人も、貧しい環境に育ったようです。
そのために、お金の力を学んだようです。
それがその人の生き方につながったのかもしれません。
私も若干の被害を受けましたが、電話してきた方は、それを忠告してきてくれたのです。

同じ環境でも、そこから学ぶことは違います。
「人の痛み」と「金の力」。
そこから生き方が大きく変わっていきます。

同じ時代に育っても、人はこんなにも価値観が違ってしまうのだ、と最近痛感しています。
どうしてこんなに「貧しい時代」になってしまったのか。
とても哀しく寂しいです。

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2017/10/11

■節子への挽歌3676:2週間ほど中断した挽歌を復活させます

節子
挽歌の遅れを挽回しようと思ったにもかかわらず、また書けない数日が続きました。
習慣は一度破ってしまうと破ることが習慣になってしまうのかもしれません。

まあそれはともかく、元気ではあります。
身心はあまり活性化していないのですが、どこかが悪いわけではありません。
しかし、そうした状況が問題なのかもしれません。

先日、上高地で「神様」らしき人に会ったと書きましたが、数日前にまた、電車の中でそれらしき人に会いました。
ちょっとトラブルで電車に走って飛び乗ったのですが、前に座っている人が席をあけてくれました。
座ってから、その人を見たら、あの上高地であった人に雰囲気がとても似ていました。
フェイスブックには書いたのですが、もしかしたらもしかです。
でもその人というか神様は、次の駅で降りましたので、確認はできませんでした。

守護神という人もいますが、ユカは、そろそろお迎えに来ているのではないかと言います。
死神が調査に来ているのかもしれません。
そういえば、上高地でその神様に会ってから、身心から生命力が抜かれたような気もします。
上高地であった神様よりも電車であった神様のほうが、少しだけ元気そうでした。
私のおかげかもしれません。
死神にも役立てたとしたら、それはもううれしい限りです。

とまあこんなことを書いているうちに、少しまた魂が戻ってきました。
今度こそ、挽歌を書き始めます。

天気予報とは大きく違って、今日は冬空で寒いです。
テレビ報道と違います。
これはもしかしたら、あの死神の仕業でしょうか。
困ったものです。
でももしかしたら今日もまた会えるかもしれません。
午前中出かけるのが楽しみになりました。

世界にはまだまだ解明されていないことが多いのです。

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■富山には悪い人はいない

富山市の路面電車ライトトレールが「信用降車方式」を採用したそうです。
いわゆる信用乗車方式と同じですが、後者の際に支払う乗車賃の確認を省略することによって、降車時間を減らしスムーズな運行を可能にするためです。
テレビで報道されていましたが、取材された富山市民は口をそろえて、富山には悪い人がいないので無賃乗車など誰もしないと言っていました。
このテレビを見た直後に、友人から電話がかかってきたので、富山には悪い人がいないそうだという話をしたら笑われてしまいました。
でも私は富山には悪い人はいないと信じます。
いや世界には本来は悪い人などいるはずもない。
悪事を働く人はいるかもしれませんが、それはそれぞれに事情があるのでしょう。
しかし、悪事に手を染めてしまうと、いつの間にか「悪い人」になってしまうおそれがないとは言えません。

ところで、「悪い人がいない」という前提で仕組みをつくるのと、「悪い人がいる」という前提で仕組みを作るのかで仕組みは全く違ってきます。
悪い人がいることを前提にして仕組みをつくると、たぶん仕組みは複雑になり、管理コストも大きなものになるでしょう。
そのコストは、何ら価値を生み出すことのないコストとも言えます。
つまり「無駄」が発生するわけです。
そのコストを負担する料金も高くなりますから、料金を支払わないという思いを持つ人も増えるかもしれません。
負担能力のない人で、どうしても電車に乗る必要がある人は、もしかしたら「やみなく」無賃乗車をしてしまうかもしれません。
そして悪循環が回りだしてしまう。
いまの日本の社会は、そんな方向で、無駄なコストがどんどん膨れ上がり、それに便乗して不当に利益を得る人も生まれてきます。
そして、生活には無縁な「経済成長」が実現していきます。
最近の「経済成長」は、いかに無駄を多くするかで実現される面が大きくなっています。
幸いに富山市はまだ、そうした悪循環に飲み込まれずに、悪い人がいない社会を維持しているのでしょう。
言い換えれば、無駄の少ない社会と言ってもいい。

社会の仕組みの設計は、人を、善い人にも悪い人にもします。
政治の対立軸に関連して、社会構造原理の話を書きましたが、私が考える「システム vs 人間」の「人間」は、すべて「善い人」です。
つまり、「善い人」を基点にして政治を考え、社会や組織を構築していくということです。
そうしたベクトルからは、地方分権などという発想は出てきません。
分権は、人間からシステムへの、あるいは人間から中央に向かう方向ですから、むしろ「中央分権」です。
言葉の意味が全く変わってしまう。
つまり私が使っている言葉の意味は、ほとんどが誤解されてきたのかもしれません。
そのことに最近ようやく気づきだしました。

今日も友人と電話していたら、私が白を黒と言いくるめると言われてしまいました。
私にとっては最初から黒は白なのですが、どうもそれが伝わりません。
困ったものです。

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2017/10/10

■サロン「私が考える日本の政治課題ー新党創設の動きに絡めて」の報告

選挙公示前日の昨日、「日本の政治課題を考える」シリーズのサロンをスタートしました。
リンカーンクラブ代表の武田文彦さんによる、日本の政治課題への問題提起を踏まえての話し合いでしたが、副題に新党創設とあったため、そしてたまたまいま新党の立ち上げが政局を混乱させていることもあったため、進行役の私の思い違いもあり、話が拡散してしまい、参加者には混乱を与えてしまったかもしれません。
すみません。

しかし、いや、だからこそですが、話題はいろいろと飛び交い、それぞれの思いもかなりでて面白かったです。

まず今回の解散の理由にされている、今の北朝鮮との緊張関係はそもそも誰がつくりだしたのかという話から始まりました。
それは憲法違反による安保法制の制定で、自衛隊の位置づけが変わってしまったことではないかというのが、問題提起者の武田さんの指摘です。
またなぜ森友・加計問題の説明責任について、もっと野党は突っ込まないのかも話題になりました。
いずれも、政府の本質にかかわる問題ですが、政局的な話のため、そのあたりで議論が始まってしまいました(私の責任です)。
その後、武田さんの問題提起によって、領土問題、財政問題、核武装議論、国民投票制度、エネルギー問題、地方分権など、話は拡散してしまいましたが、これもひとえにひとえに進行役の私の責任です。
武田さんは、究極的民主主義に向けての政治制度の変革と同時に、新たな日本国家のありようについて、思考を重ねてきていますが、そうした課題がどっと出てきてしまったので、私自身がいささか混乱してしまい、整理できなかったのです。

新党に絡めて、「維新」とはなにか、なぜ「革命」ではないのかという問題提起もありました。
武田さんは、幕藩政治から議会制民主主義になり、産業革命も成し遂げ、国家の内実も大きく変化した明治維新を評価しています。
しかるに、戦後の政治体制は、敗戦後復興体制とも言うべき体制であり、今も厳然とそういう体制が残っており、アメリカに隷属する国家に成り果てている。
しかも、その事実を気がつかせないくらいに日本人はそうした状況に違和感を持っていない。
そればかりか、アメリカに隷属することを誇りとするかのように、トランプ大統領が当選したとき一番に駆けつけるような首相を選んでしまっている。
それを変えなければいけないというのが武田さんの思いです。
さらに武田さんは、小さな島国で生きている私たちが自立していくためには、食糧やエネルギーの自給体制を確立しなければいけない。
そのために、科学技術立国、重脳国家を目指し、理系人材の育成にもっと力を入れるべきだと考えています。
そういう武田さんの国家観あるいは国家ビジョンに話題が届く前に、議論は広がりすぎてしまい、さらにそうした問題を解決するためには新党が必要だというような話にまで行ってしまい、そのあたりでタイムオーバーになってしまいました。

そんなわけで、いろいろと話は出たものの、なにやらすっきりしなかった人も多いと思いますが、お許しください。
でも参加者のひとりからは、面白かったというメールが後で届いたので、それをもって良しとしましょう。
ちなみに今回の選挙結果については、意見は分かれました。

ところでこれに懲りることなく、このサロンは継続します。
次回はもう1回だけ寄り道します。
詳しい案内はまた追ってさせてもらいますが、政治を読み解くメディアリテラシーの話も踏まえて、メンバーの中島さんの日本国家像を話してもらいます。
またかなり混乱するサロンになりそうですが、まあそれもいいでしょう。

参加者は10人でした。
みんな一家言あるうるさ型でしたので、つかれました。
はい。
でも帰宅して、次のユーチューブを見たら、元気が戻りました。
ぜひご覧になってください。
https://www.youtube.com/embed/dmqT-ICLeTE

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■投票先は自分軸があればすぐ見えてきます

選挙活動が始まりました。
今回は、とてもわかりやすい選挙だと思いますが、どうもマスコミは大きな構造を見えないようにしているような気がします。
選挙後の政権構造のゆくえなどよりも、やはりしっかりした政策理念に整理すべきだと思いますが、8つの政党の関係構図を描くときには、ほとんどが与党グループ・希望グループ・それ以外にマッピングし、しかも与党グループと希望グループを対極に置き、そこに立憲民主党などを第3局に位置づけています。
つまり、基本構図が、政策とは関係ない、安倍・反安倍なのです。
これでは痴話げんかにしか見えません。

私は現在の日本が未来を考える時に大切なテーマは、「9条」と「原発」だと思います。
ですから、「9条を変える・変えない」と「原発再稼働指示・新規稼働ストップ」の2軸で4次元マップをつくれば、整理しやすいと思います。
そうしたチャートをぜひとも出してほしいですが、出てきません。
もちろん軸は他にも設定できますが、教育無償化や社会福祉重視などのようなことは、ほとんど誰も賛成でしょうから、政策手段の優先に関する軸であって、政策理念の対立軸にはなりません。
財政再建や消費税も、政策理念ではなく、政策手段であって、次元が異なります。

そういうマップに基づいて、私は投票相手がすぐ決まります。
投票先が見つからないという人は、要するに自分の軸を持っていないだけの話です。
そういう人はすべてと言っていいと思いますが、現在の与党グループに与すると言っていいでしょう。
無党派層などと言いますが、むしろそういう人は与党支持層、つまり権力依存層だと自認すべきだと私はいつも思っています。

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■政治家の演説を聴いてはじめて涙が出ました

政治家の演説を聴いてはじめて涙が出ました。
日本の政治に、そして日本の未来に、期待と信頼が戻ってきました。 是非見てください。
https://www.youtube.com/embed/dmqT-ICLeTE

昨日も湯島で政治を考えるサロンをやっていました。
参加者全員、いまの政治を変えたいと思っているようでしたが、無力感が強いです。
まずはその無力感やあきらめを捨てないと何も始まりません。
改めてそう思います。

昨日も話させてもらいましたが、いま政治は大きな転換期を迎えてきています。
経済も同じように、パラダイム・シフトを求めていると思います。
今と言っても、私の認識では30年くらいまえからです。
1989年は、その目に見える転換点でした。 私もその年に組織を離れて、個人で生き出しました。
しかし、その後も、政治も経済も従来の延長でしか動いていないために、さまざまな混乱や閉塞状況が生じています。
しかも残念ながら私の感じでは、別の方向へと転換しようとしている気がします。
つまり、経済も政治も人間を部品化する方向へと向かうような気がしています。
その先に見えるのは、AIによる「平和な世界」です。
世間で広がっているAIによるシンギュラリティ信仰は、それへの憧れと畏れ(それは同じものだと思いますが)を示唆しています。
シンギュラリティ信仰に帰依し喧伝する人たちは、人間であることを放棄したがっているとしか思えません。
今年のノーベル文学書がカズオ・イシグロに決まったことにも、そうした予兆への不安が現れているようにさえ思います。

私が考える政治や経済のパラダイム・シフトの方向は、システムから人間へ、です。
私のホームページ(CWSコモンズ)もこのブログ(CWSプライベート)も、そしてささやかな活動や私自身の生活も、すべてこの原則に従っています。
政治でいえば、その対立軸は「統治側の視点」から「生活者の視点」への転換です。

その視点からは、これまでのような政党制度や議会制度は役割を終えたと思っていますが、しかし一挙には変わりようがありません。
そうした制度の中で、どうしたら枠組みの転換は可能になるのか。
唯一の方法は、人間が人間であることに気づくことではないかと思っています。
湯島で毎週のようにサロンをやっているのは、そういう思いと無縁ではありません。
もう少しきちんと書かないと伝わらないかと思いますが、湯島のサロンは勉強会ではないのですが、いまも「勉強会」だと思っている人もいます。
大切なのは、勉強ではなく、自らで考えることです。
自らで考えるために勉強するのであって、制度やシステムに合わせるために勉強するのではありません。
そういう、私が考える人間ではない人たちに、人間に戻ってもらおうというのが、私の意図なのです。ますます誤解されそうになってきたのでやめます。

枝野さんのスピーチに涙が出てしまったのは、まさにそうした人間からの政治の再構築の思いを感じたからです。
システムの部品として原発事故の後、活躍した枝野さんの口からです。
枝野さんは人間に戻ってきた、そう感じたのです。

枝野さんはどうも好きになれなかったのですが、彼の決意に元気をもらいました。
枝野さんに感謝します。

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2017/10/08

■制裁への逃走と「離見の見」

フランクリン・ルーズベルトの前のアメリカ大統領ハーバート・フーバーは、その回顧録でルーズベルトを厳しく批判しています。
GHQの教育でルーズベルトは偉大な大統領だったと多くの日本人は刷り込まれていますが、最近ようやくその実体が露呈してきています。
真珠湾攻撃で日本が戦争を始めたという考えも疑問がもたれはじめました。
フーバーの回顧録を材料に、ルーズベルト批判の書を書いている青柳武彦さんは、太平洋戦争は1937年、つまり真珠湾攻撃の4年前に、アメリカによってはじめられていると言っています。
アメリカ政府が、真珠湾攻撃を事前に察知していて、むしろそれを利用したことは以前から明らかにされてきていますが、いまもって多くの日本人もアメリカ人も、真珠湾攻撃によって日米は開戦したと考えています。

まあその種の話は、かなり詳しく書かれている本がたくさんありますので、関心のある人はそれを読んでもらうとして、今回紹介したいのは、フーバーの回顧録に書かれている次の指摘です。

制裁は、殺戮と破壊以外の全ての戦争行為そのものを実行するもので、いかなる国といえども、品格を重んじる国であれば、我慢できることではなかった。

日本はアメリカによる厳しい制裁によって、戦争へと向かってしまったわけです。
その体験がありながら、いま日本の政府は、北朝鮮に対して、同じような「制裁」に取り組んでいる。
フーバーの政治感覚からすれば、「制裁」はすでに戦争行為なのです。
戦争はすでに始まっているといえるのかもしれません。
異論のある人も多いでしょう。
しかし、アメリカに制裁されていた時の日本のことを少しは思い出したいものです。

いささか論理が飛び過ぎだと思いますが、日本の社会には、いま「制裁」思考が広がっているように思います。
子どもたちのいじめ、多発する自殺、メンタルダウンの増加。政治や暴力団の世界での制裁。
「刺客」などというおぞましい言葉をためらいもなく使う政治家たち。
相手の身になって考える余裕がなくなっているのかもしれません。

ここで思い出すのは、世阿弥の「離見の見」です。
あるいは道元の「まず我見を離るべし」という教えです。
日本の文化が培ってきた、そうした日本の知恵が、最近どんどんと消えてしまっているのが、とてもさびしいです。

残念ながら私はフーバーの回顧録を読んでいません。
友人が、草思社から翻訳が7月に出たと教えてくれました。
ちょっと高いので、迷いますが、読んでみようかとも思います。

「裏切られた自由 上: フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症」
下巻は来月発売予定だそうです。

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2017/10/06

■10月9日の午後、湯島で政治を考えるサロンをやります

政治の先がかなり変わってきました。
私の予想はいつも外れますので、見えてきたといえるかどうかわかりませんが。
しかし、小池さんの新党の実態がかなり見えてきたのはうれしいです。
小池さんは相変わらずチャーターメンバー(自分の子飼いメンバー?)に相談すると公言していますので、小池新党は「小池ファースト」であることはかなり明確になってきました。
前原さんは完全に枠外に置かれた消費的な存在です。
というか、前原さんは善意の人なのでしょうが、よくいわれるように、地獄への道は善意のじゅうたんで敷き詰められているのです。

私は、石破政権か小沢さんの傀儡政権ができると思っていたのですが、どうもいずれもはずれで、
もしかしたら枝野政権が出くのではないかと思い始めています。
いやそれは期待というべきでしょうが」
枝野さんは、原発事故の後の対応があまりにも悪かったので、その印象がなかなかぬぐえませんが、福山さんが幹事長になるのであれば、私には信頼感が高まります。
共産党も、いよいよ名前を変えるかもしれないという期待もあります。

まだいろんな進展がありそうです。
小池さんも小沢さんも、このままでは済まさないでしょう。
しかし、それもまた立憲民主党の風にしていければと思います。
国民の多くがちょっと目覚めるだけで、未来は大きく変わっていくでしょう。
ここは立憲民主党の風を吹かせたいです。
そうしないと日本は私にとってはますます住みにくくなるでしょう。

10月9日の午後、湯島で政治を考えるサロンをやります。
ぜひみなさん話に来てください。
希望の党支持者も、安倍政権支持者も、大歓迎です。
私はまったく支持しませんが、私が間違っているかもしれませんし。

亀井さんが引退しました。
引退会見での話は、実に亀井さんらしかったです。
片山さんはどう思っているのでしょうか。
亀井さんには会ったことは一度もありませんが、魅力的な政治家でした。

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■見えないものを見ようとすることの大切さ

小説は、見えないものへの気づきを与えてくれます。
昨日、ノーベル賞を受賞したカズオ・イシグロさんの作品には、そういうメッセージを感ずることが多いです。
そこで描かれている未来やあるいは創作された世界、あるいはもう忘れられてしまった過去が、いま現実的に存在していることに気づかせてくれるのです。
フェイスブックには先日書きましたが、ブアレム・サンサルの『2084 世界の終わり』にもそれを感じました。

30年以上前に、「非情報化社会」という小論を書いたことがあります。
http://cws.c.ooco.jp/antiinfo.htm
当時は情報化社会の到来が盛んに言われた時代でしたが、私には逆に、時代が「非情報化」に向かっているように感じたのです。
創られた情報、つまりフェイクニュースが横行しだすだろうと思ったのです。
そうした「喧噪の時代」から「対話の時代」へと向かう可能性を感じたのも、その頃でした。
http://cws.c.ooco.jp/taiwa.htm

しかし、時代は逆方向に向かい、まさにポスト真実の時代が到来しました。
多くの人は「見たいもの」をますます見るようになり、「見たくないもの」への関心を捨てだしました。
社会を統治する人たちが「見せたいもの」を見せようとするのは仕方がないとしても、マスコミ、さらにはジャーナリストの多くさえもが、そうした動きに同調し、しかも「見せたい」ように「見える」状況づくりを加速してきています。
それに抗って、「見たいもの」を見ようとする運動もありますが、それも所詮は同じ土俵での抗いであって、自らもまた「見たいもの」しか見えなくなるという落とし穴に落ち込んでいることが少なくありません。
まさに相手と同じ過ちを犯しているとしか思えません。

どうしたら「見えないもの」や「見たくはないけれど存在するもの」が見えるようになるか。
それは簡単なことです。
「裸の王様」の寓話にあるように、子どもになればいいのです。
しかし、いささか悩ましいことがあります。

現実を見るためには、知識や言語が不可欠です。
言語があるから世界は理解できます。
知識があればあるほど、世界はよく見えてきます。
言語は事象を区別し可視化してくれますし、知識は見えるものに意味を与えてくれます。
しかし、その一方で、知識や言語は世界をせばめ、ゆがめる力も持っています。

一昨日のサロンで、発達障害が話題になりました。
発達障害という知識がなければ、そういう人たちの言動が理解できずに誤解してしまうかもしれません。
しかし、逆に発達障害という知識が、相手を型にはめてしまい、その人の生き生きした実体を見えなくしてしまうかもしれません。
北朝鮮やイスラムに対しても、同じことが言えるかもしれません。
私たちは、言葉や知識で、それらを理解しようとしますから、与えられた言葉や知識でしか、見ることができません。
知識や言葉は、世界を見えるようにする一方で、見え方を方向づけてしまうことで、事実とはずれていく恐れがあります。
知っていることが知らないことになるという、おかしなジレンマが起こってくるわけです。

親鸞が88歳の時に書いた和讃のなかに、「よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがほは おほそらごとのかたちなり」という言葉があるそうです。
善し悪しという文字で物事を判断しない人は、すべて、真実の心をもっているというのです。
知れば知るほどに「まことのこころ」を見失ってしまうと、自らの姿を戒め、慚愧した言葉と言われています。
人が獲得できる知識など、たかが知れています。
そんなわずかな知識で、わかったような気になってしまい、現実が見えなくなってしまう。
恥ずかしながら、私がたびたびおちいってしまうことです。

しかし、親鸞がそうであったように、素直に生きていると、少しずつですが、知識の向こうにある「見えないもの」が見えてくることがあります。
しかし、それはやはり、私が「見たいもの」でしかないのかもしれません。
なぜなら、どうも昨今の風潮は、私の考えとは真反対に動いているからです。
世間の多くの人たちと見える世界の風景が違うような気がしてなりません。
それが最近の私の生きづらさです。

「見えないけれど見えるもの」をブログで少しずつ書いていこうかと思い始めています。
元気があればですが。

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2017/10/05

■10月の「みんカフェ」の報告

フェイスブックの効果がでてきたのか、なんと初めての方も含めて20人を超えるサロンになりました。
テーマのない「ゆる~いカフェ」を予定していましたが、これだけ集まると、なかなかゆるくはなりません。
ゆるいどころか、「当事者」という言葉をめぐっての深い議論になりました。
途中から参加した人が、ゆる~いと思って来たのにゆるくないと笑いながら言ってくれましたが、まあ「何でもあり」という意味でのゆるさだと考えてもらえればと思います。
何が起こるかわからない。
そこにも湯島サロンの特徴があります。

最初に参加者に自己紹介をしてもらいましたが、ある人が「発達障害の当事者です」と話すのを聞いた初参加の人が、「当事者であることを自己表明するのはなぜか」という問いかけをしてくれました。
そこから「当事者」とは何か、さらには発達障害とは何か、などと話は広がり深まりました。
なにしろ20人を超す参加者なので、視点もいろいろで、刺激的でした。

実は今回は長年社会教育などに関わってきた人が複数参加されたので、その話を少ししてもらおうと思っていたのですが、発達障害や引きこもり体験者の方が多かったこともあって、そうした人たちの思いや体験が次々と出てきて、話題も自然とそちらに向かいました。
初めて参加したビジネスの世界にいる人にとっては、こんな集まりははじめてだったかもしれません。
翌朝、「私のあまり知らない世界のお話をお聞きして大いに考えさせられました」というメールをもらいましたが、同じ社会を生きていても、なかなか触れ合うことのないことはたくさんあります。
最近は、同質の人たちで集まりやすい傾向が強くなっているような気がしますが、湯島のサロンはできるだけさまざまな人たちが、しかし同じ立場で話しあい何かを分かち合えればと思っています。
さまざまな人と触れ合って自分の世界を広げていけば、差別とか障害などということの無意味さがわかってくるかもしれません。
あるいは、人は誰もが違うのだということがわかれば、そして違いには優劣などないということに気づけば、とても豊かな社会、豊かな生き方ができるようになると思います。
こういう場を広げていけば、もしかしたら60年後には誰もが住みやすい社会になっているかもしれません。
だから私は来世が楽しみなのです。

具体的な話をひとつ紹介します。
発達障害だという人が話してくれたことがとても示唆に富んでいます。
彼は子どもの頃、母親に「テレビをきって」と言われて、のこぎりで切ろうとしたという体験があるそうです。
あるいは電車のホームで「白線の内側で待ってください」というアナウンスを聞いて、20センチほどの白い白線の上で待つのだと思い、大変苦労したということもあったそうです。
いずれも冗談だろうと思われたそうですが、彼はまじめにそう考えたのです。
そうした事例がたくさんあるそうです。
同じ言葉でも受け止め方や解釈は実にさまざまです。
ここまで大きく解釈がずれているといつか間違いに気づくでしょう。
しかし、小さなずれはなかなかお互いに気づかない。
そして、そうした小さなずれはたぶんすべての人の間にあるはずです。
発達障害の人だけが、コミュニケーション不全にあるわけではありません。
改めてそのことを実感しました。

ちなみにこの話を聞いて、私はこうした話し手と受け手のずれの事例をたくさん集め、それを「辞書」にして出版したらどうだろうと考えました。
発達障害に限らずに、いろんな意味でコミュニケーション環境を改善できるかもしれません。
どなたか一緒にやりませんか。

ところで、「当事者」ですが、「当事者」表明をすることで誤解されないですむという「当事者」からの発言もありました。
逆に「当事者」を意識するとそれが逆に自分を縛って、ますます「当事者」らしくなる危険性もあるのではないかという話もありました。
私は、みんなそれぞれ自分の人生の当事者になって生きれば、つまり、社会や組織や常識に合わせるのではなく、もっと素直に自分の人生を生きることが、長い目で見れば生きやすさにつながっていくと思っています。
目先の生きやすさのために自分に嘘をついたり、自分を抑え込んでしまうと、いつかその反動がくるばかりか、社会そのものがおかしなものになっていくのではないかと考えているのです。
当事者という言葉を概念的に使った「当事者主権」とか「当事者主義」という概念もありますが、当事者はそれぞれ多様な存在であって、一括りにはできません。
ですから当事者主義とは、多様性を認め合うということでもあります。
そんな話も合ったような気がします。

いろんな話が出ましたが、いつものように極めて主観的な報告でした。
発言したりなかった人が多かったと思いますが、お許しください。
ゆる~いサロンどころか、たくさんの気づきをもらった、「濃いサロン」でした。

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2017/10/04

■政策的な野党が生まれるかもしれないという期待

選挙に向けて、状況はますます複雑になってきました。
前原さんが、ここまでの展開はすべて想定内だったと公言しているのには驚きましたが、発言からその人のすべてが見えてくるような気がします。

しかし大きな構造としてはようやく野党、つまり政権与党への政策的な対抗政党が生まれる素地ができたと思います。
私は政党政治の時代はすでに終わったとずっと考えていますが、しかし現実はまだ政党支配の政治になっていますので、最近の野党不在から野党が生まれだす状況ができてきたのはうれしいです。
希望の党は、少しずつ実態が見えてきたと思いますが、隠れ自民党であり、大きな政策軸は安倍自民党と同じです。
野党とは言えず、たとえ自民党の拮抗力になっても、政策的な意味では野党とは言えません。
原発ゼロを書類では明示せずに口頭で語っていますが、これはもし選挙に勝てば撤回するでしょう。
ちなみに、野田政権以降の民主党は原発推進派でしたし、核武装志向だったと思います。
小池新党は野田政権や前原民進党と同じく、核武装や原発推進が基軸になっていると思います。

希望の党は足元が揺らぎだしているようですが、失速するでしょう。
権力を手中にした独裁者(今の安倍さん)と違い、権力のない(つまり利益を提供できない)独裁者はアリの一穴から崩れていくからです。
そろそろそのアリの一穴が見えだしました。
立憲民主党という、時代遅れの名前の枝野新党が新風を起こしていくのは、よほどの参謀がいないと難しいでしょうが、野党を生み出す核にはなるでしょう。
いやなってほしいです。
ただあまりに役者というか、生活者をひきつける人がいないのが残念です。

希望の党が選挙に勝っても、事態は全く変わりません。
小池都知事は、都政の何を変えたのか。
築地問題を利用しただけでしかありません。
どうしてみんなそれに気づかないのか。
女性の首相待望論もあるようですが、男性と同じような思考と行動をするのであれば、形だけの女性であって、ドイツのメルケルのようにはならないでしょう。
アメリカの国民が女性大統領のクリントンを選ばなかった理由を考えなければいけません。
トランプにさえ勝てなかったのです。

枝野新党に期待します。
共産党もこの際、みんなを見習って、解党し,枝野新党と一緒に「民主共産党」に進化してほしいです。
本当は「民主共和党」が私の理想ですが。

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2017/10/02

■組織と個人の関係を考える研究会のプレミーティングへのお誘い

法学的視点から「団体組織」論に取り組んできた杉本泰治さんはいま、これまでの研究成果を「団体組織法」という書籍にまとめられつつありますが、杉本さんから、そこで気づいたことをベースに、有志のみなさんと研究会をつくって、議論を深められないかという相談をいただきました。

杉本さんは、技術士でありながら、企業を経営された経験もあり、さらに大学で法学も学ばれ、日本の大学に「技術(者)倫理」の講座を定着される活動をされてきた方です。
最近は「団体組織」論に取り組み、今年の6月にはメキシコでの法社会学会の国際大会で発表されてきています。
その報告会も湯島でやってもらったのですが、そうしたなから、杉本さんは「団体と個人の関係」についての日本の民法の考えはおかしいと考えるようになり、現在の主流の学説を覆し、合理的な原理を明らかにするための作業をしてきています。
そうした仮説の検証も含めて、現代の人間生活や産業における、団体と個人の関係について、さまざまな視点から考えて、社会に向けて発言する場をつくりたいというのが杉本さんの構想です。

これだけではなかなか杉本さんの趣旨は伝わらないでしょうから、研究会の発足に先立ち、まずはこうした問題に関心を持っている人たちを対象に、杉本さんの構想をお聴きするプレミーティングを開催することにしました。
私が事務局役を仰せつかりました。

ご関心を持っていただける方がいたら、ぜひご参加ください。

〇日時:2017年11月4日(日曜日)午前10時~12時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf

日曜日の午前中ですが、よろしくお願いいたします。
参加ご希望の方は、下記の私のアドレスにメールをください。
qzy00757@nifty.com
場違いの人の参加も大歓迎です。
そもそも私がそうですから。

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■湯島で「新党創設」をテーマにサロンを開きます

衆議院選挙を目指して、日本の政界は大きく動きつつあります。
民進党が解党に向かい、希望の党が生まれ、野党連合の動きも揺れ動いています。
そうした動きが、国民の政治への関心を高めるのという話もありますが、こんなことで関心を高めることが、果たしていいことなのかどうか、私にはよくわかりません。
そんな状況の中で、予定通り、10月9日の午後、湯島で、政治を考えるサロンを開催します。
テーマは「新党創設の動き」。
あまりにも時宜にかなったテーマになってしまいましたが、たぶん話し合いの内容は、当初予定していたものとはかなり変わってしまいそうです。

このサロンは、その時々の政治課題を考える政治時評サロンとして、毎月継続していく予定です。
リンカーンクラブ代表の武田さんも毎回参加しますが、時には参加者が問題提起し、時にはゲストを呼んで、日本のいまの政治を考えていく場にしていきます。
勉強会ではありません。
政治談議の場です。
それも多様な考え方や立場の人に参加してもらえるようにしていきたいです。
反安倍の考えの人だけが集まっていくら議論しても、なにかが生まれる気がしません。
親安倍の考えの人だけが集まっていくら議論しても、なにかが生まれる気がしません。
いまの政治を変えていくために、立場を超えて、お互いに話しあい、考えの違いを理解しあいながら、気づきあう場が必要だと思います。
そんな場にしていけたらと思います。

政治にはまったく無関心だったので、なにも知らないという人も大歓迎です。
10代の若者も、90代の高齢者も、日本国籍のない人も、歓迎です。

具体的な案内は下記にありますが、
10月9日(祭日です)の13時半から湯島のコンセプトワークショップです。
http://cws.c.ooco.jp/info1.htm#171009

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■節子への挽歌3675:あれは節子だったのか?

節子
5日ぶりになってしまいました。
この間、いろんなことがありました。
今日は時間の合間にいくつか書くことにします。
まずは上高地での不思議な話から。

これに関しては時評編で書きましたので、内容はそちらにゆだねます。


上高地には節子とは2回行きました。
2回目は、たしか節子は闘病中でした。
3回目の予定も決めていましたが、それは実現されませんでした。
今回は、同行するはずもない娘が自分から行こうと言いだしました。
節子がいなくなってからはじめてのバスツアーでした。

もしかしたら、あの人は節子だったのではないかという気もします。
外見はもちろん節子とはまったく似たところはありません。
娘は、ずっと追いかけて来たのではないかというのですが、私たちの速さに追いつけるとは思えません。
しかも2回目はあまりに不思議な出会いです。
いるはずのないところにいたのですから。
私たちと同行していたのかもしれません。
もしそうなら、節子は何かを伝えたかったのでしょうか。
考えるといろんなことが浮かんできます。

またどこか節子と一緒に行ったところに行くと、同じようなことが起こるでしょうか。
試してみたくなりました。
どこが節子が一番出てきやすいところでしょうか。
間違いなく箱根でしょう。
冬が来ない前に、行けるといいのですが。


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2017/10/01

■上高地での不思議な人に会いました

娘と一緒に上高地へのバスツアーに参加しました。
妻とは2回ほど行ったところですが、妻がなくなってから初めてです。
天気に恵まれました。

そこで不思議のことがありました。
フェイスブックに報告したのですが、不思議なことが起きたのです。

上高地の大正池から田代橋に歩いていると道に何となく場違いの人が立っていました。
近づくと、かっぱ橋はどっちですかと訊かれました。
こちらの方に2キロほどだと教えました。
そこで別れました。
ところがそれから1時間後、なんと今度はかっぱ橋の先のビジターセンターから出てきたら、その人がどこからともなく現れて、バスターミナルはどこですかと訊いてくるのです。
あまりの偶然に驚いて、先程もお会いしましたねと言いましたが、無視されました。
そこでしかたなく場所を教えましたが、どう考えても不思議です。もしかしたら神さまだったかもしれないと写真を撮りました。
後姿ですが、神様みたいでしよう。

Photo_2

私が不思議に思ったのは、まず最初のことです。
そこは一本道でした。
ですからその人はどちらかから歩いてきたはずですが、まっすぐ前を向いて歩けば、いいだけの話です。
方向を尋ねることもありません。
第2に、歩き方がゆっくりしていて、そこから1時間、かなりの速さで歩いた私たちに追いつくはずがありません。
第3は、2回目に出会ったところは河童橋から明神池に向かう、さらに先にあるビジターセンターです。
あまり人は行きません。
ところがその人の歩いている向きは、ビジターセンターから橋に向かう方向でした。
それに河童橋界隈は、たくさんの観光客でにぎわっています。
私はバスツアーで行きましたが、同じバスの人にさえ、会いませんでした。

私を追いかけてきたと考えてもおかしくないのです。

次に雰囲気ですが、大変失礼な表現ですが、まったく生気がないのです。
声のかけ方も、ゆったりしていて、反応が弱いのです。
もし自宅の近くでこの人に会ったら、心配して見守りたくなる感じです。
荷物はビジネスバックとビニール袋です。
それもいかにも場違いです。

私から答を聴いた後は、私が指差す方向にトボトボと歩きだしました。
たくさんの人がいましたが、何の反応もなく、風景を見るでもなく、トボトボと。
最後まで見送ればよかったのですが、もしかしたら途中で消えてしまったかもしれません。
その後、少し遅れてバス停に行きましたが、たくさんの人が並んでいましたが、その人はいませんでした。

まあこんなことを書いても、たぶん伝わらないでしょうが、実に不思議な気持ちになったのです。

まあそれだけのことなのですが。


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■カフェサロン「呼吸器の子・重い障害を生きる意味」の報告

15人のサロンになりました。
医療関係者の参加が少なかったのが残念でしたが、さまざまな話題が出て、たくさんの気づきをもらえたサロンでした。
松永さんは60枚にもわたるパワーポイントをつかって、在宅で人工呼吸器をつけている凌雅くんとその家族の生活ぶりを紹介してくれました。

物語の始まりは、凌雅くんのお母さんが発した「在宅人工呼吸器の今の生活が楽しい」という一言への松永さんのひっかかりからでした。
寝たきりの最重症、介護疲れ、不自由不便、自宅での孤立… なぜ「楽しい」と言えるのか?
それが松永さんの疑問だったそうです。
そうして、凌雅くん一家との交流が始まり、松永さんは自分の思い込みの間違いに気づいていくのです。
今回のサロンに参加した人も、松永さんのお話を聞いて、たぶん納得、というよりも、共感できたのではないかと思います。

凌雅くんは生後5か月の時に、ゴーシェ病と診断されました。
患者数は日本で10~20人しかいないという病気で、余命は2歳までと言われていました。
それを知った時、凌雅くんのお母さんは、「障害児として生きるのであれば、受け入れることができるが、短命ということには耐えられない」と思ったそうです。
そして、「何のために生まれてきたのか? 早く死ぬために生まれてきたのか? 残りの命はあと1年しかない。生きる意味は何なのか?」と、地獄の底に落ちた心境だったと言います。

凌雅くんは、1歳半の時に自発呼吸ができなくなり、人工呼吸器を装着することになりました。
そこで家族は選択を迫られます。
一生を病院で過ごすか、それとも自宅で呼吸器をつけて暮らすか。
家族は迷うことなく後者を選択します。
病院は病人を治療する場所。これから生きていくには、その場所が病院でいいはずがないと考えたのです。

そこから家族の生き方が変わっていきます。
凌雅くんの世界も大きく広がっていきます。
そしてまわりのたくさんの人たちに喜びや幸せを広げていくのです。
その話は、ぜひ松永さんの書いた「呼吸器の子」(現代書館)をお読みください。
とてもここでは紹介しきれませんし、正確に伝えられる自信もありません。
凌雅くんはいま中学校に通っています。

最後に松永さんは、「私が学んだこと」と言って3つのことを話してくれました。
3つ目だけを紹介します。
不自由なこと、不幸なことはイコールではない。
なぜならば、人間とは、人間とは何かをつねに決定する存在だ。

パワーポイントの最後は、凌雅くん一家がアクアパーク品川に行った時の写真でした。
両親と凌雅くんの姉、みんなとても幸せそうな笑顔でした。
この笑顔を見れば、今の生活が楽しいというお母さんの言葉に納得できるでしょう。
私は、こんなに素晴らしい笑顔の家族はそう多くないかもしれないとさえ思いました。
同時に、この家族を幸せにしているのは、まさに凌雅くんだと確信しました。
長年、身近で接してきた松永さんは、そのことをもっと強く実感しているでしょう。

松永さんは、凌雅くんの看護師の言葉を紹介してくれました。
「苦しみの中にちょっとした楽しさや前向きの気持ちを見つけて、それにすがって生きていかざるを得ない。楽しさを見つけてキャッチする、障害児の母はそういう能力を自ら開発している」。
とても考えさせられる言葉だと思います。
私たちが忘れてしまっていることかもしれません。

話し合いは、いつものようにさまざまな話題が出ました。

凌雅くんは他者とどういうコミュニケーションをしているだろうかという話から、凌雅くんの生活を支えるためのいろいろな人たちを元気にし、言語ではないコミュニケーションをしているという話が出ました。
松永さんは、みんなも凌雅くんに支えられているとも話してくれました。
まさにケアの本質がそこにあります。

凌雅くん家族は、余命2歳の「医療界の常識」を否定しましたが、そうした事実によって、その後、障害児医療はどう変わったのでしょうか。
医師たちの考え方は変わったのでしょうか。
残念ながら大きく変わった事実はないようでした。
たぶん凌雅くん家族のことを知っているかどうかで、医師の考え方は変わるのではないか。
だからこそ、松永さんは本書を医療関係者に読んでほしいと思っているのです。
医療関係者だけではありません。
凌雅くん家族の幸せは社会を変えていく大きな力を持っているように思います。
医療を変えるのは、医療関係者だけではありません。
一番の当事者である患者、つまり私たち生活者もまた、医療を変えていく存在なのです。
それに、障害者のとらえ方も変わってくるでしょう。
そうした話から、医療のあり方や医師教育のあり方にも話は広がりました。

ちなみに、なぜ凌雅くんは余命2年の常識を変えられたのか。
ここに私は医療の本質が示唆されているように思います。
いつか、そんなテーマのサロンを企画したいです。

出生前診断の話も出ました。
これに関しては賛否ありますが、それを考えるうえでも凌雅くん家族の話は大きなヒントになるでしょう。

凌雅くん家族はすごいのかという話も出ました。
たしかにそうかもしれませんし、恵まれていたのかもしれません。
でも、そうしたくても、そうできなかった家族はどう思うでしょうか。
松永さんは、本の中ではそうしたことに関してとても誠実に心配りしていますが、だれもが凌雅くん家族のようにできるわけでも、なるわけでもありません。
でも大切なのは、どんな場合にも、それには十分の意味があると思うことかもしれません。

電車の中などで、障害者を見てしまうことも話題になりました。
その時に、「可哀そう」だと思うことの意味も話題になりました。
凌雅くんの父親は、「見られるのは当たり前。だって呼吸器を付けているのだから。これも人生」と言っているそうです。
実に自然体で、誠実に生きていることが伝わってきます。

障害児の自立についての父親の考えはとても共感できます。
「児童が好きなものを見つけていく。好きなものが見つかれば、仲間ができる。仲間が増えれば、その児童は幸福になれる。夢・目標に向かっていく姿勢を自立と呼びたい」。
私も、はっと気づかされた言葉です。

医療費は限られているのだから、重度障害児治療よりも、もっと大勢の子どもたちのための治療に向けたほうがいいのではないかという発想から、重度障害児治療に消極的な人も多いそうです。
これは大きな、そして実に悩ましい問題です。
それに関して、「海外での心臓移植治療のための巨額な費用の募金活動の呼びかけを受けた時に、ほかの同じような子供のことを考えると募金すべきかどうか迷ってしまった」という発言がありました。
つながっている話だと思いますが、書き出すときりがないので、今回はそうした話も出たことだけを報告しておきます。
いろんな視点に気づかされるのが、湯島のサロンの魅力なのです。

身体的ではないが、精神的な障害で、今日、このサロンに来るのもやっとだったという参加者の発言もありました。
彼女も、凌雅くんからたくさんの気付きをもらったようです。
精神障害は身体障害と違って、外からは見えにくいこともありますが、だからこそ大変な面もあります。
今回、松永さんのお話を聞いていて、私は改めて、障害観に関する大きな示唆をもらった気がします。

生きるとは何か、幸せとは何かを、考えさせられるサロンでした。
いろんな気付きがあって、この報告がなかなか書けず、夜になってようやく書く気力が出てきたため、遅くなってしまいました。
長くなったのですが、書き足りない報告になっています。

サロンの映像記録を近藤さんに撮ってもらいましたので、もしかしたら公開させてもらえるかもしれません。
その場合は、またご案内しますが、ぜひ松永さんの著書「呼吸器の子」(現代書館)を読んでもらえればうれしいです。
松永さんは特に医療関係者に読んでほしいと言っていますが、すべての人に読んでほしい本です。
松永さんはその本の最後に、「本書は、私たちの中に潜む差別思想に対するカウンターブローにしたい」と書いていますが、間違いなくそうなるでしょう。
だからこそたくさんの人に読んでほしいのです。
残念ながら本書はまだ重版に至っていません。
ぜひみんなで購入して重版に持っていきたいです。
社会をもっと住みやすくしていくためにも。

なお、「呼吸器の子」は、私のサイトに少しだけ紹介しています。
http://cws.c.ooco.jp/books.htm#170709

Matsunaga1709


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■私は共和主義者です

私は共和主義者です。
最近の政治状況を見て、目指すべきは共和制だとますます考え出しています。

それに関して、最近、自分の考えを確信させてもらった本があります。
内田樹さんと姜尚中さんの対談「アジア辺境論」(集英社新書)です。
そこで内田さんが「民主か独裁か」のスローガンはカテゴリーミステークだと話しています。
つまり民主制と独裁制は親和性が高いというのです。
同書の44ページです。
そして内田さんも「共和制」の話をしています。

独裁者たちの饗宴がますます広がりだしています。
民主党が解党するのは、民進党に改組された時から期待していましたが、残念ながら解党ではなく企業のM&Aさながらの大安売りになったのには驚きました。
政治も今や市場化されてしまっています。
松下政経塾が始まった時の感じていた懸念は、その後、現実のものになってきています。

しかし、前原さんがこれほどの独裁者だと思ってもいませんでした。
その政治政策の考え方には、賛成しがたいものがありましたが、生活への誠実さを感じていました。
いやそれ以上に、もう少し賢明だと思っていました。
目的のために手段を選ばないのは、自らの目的を否定することです。

異論が出てこない自民党を批判していた民進党も、自分たちもまた異論を出せない状況になっていたのにも驚きました。
昨日になって、辻本さんが私は希望の党へは行かないと明言しましたが、いまとなっては遅いでしょう。
なぜ異議申し立てをしなかったのか。
残念です。

「アジア辺境論」で内田さんは、「国会議員の質の劣化というのは、これは明らかに意図的に作られた状況ですよね」(75頁)と話していますが、みんなすでに部品になってしまい、人間であることを捨てています。
安保法制に強烈に反対していた若者議員が、安保法制支持に回っている姿を見るとなんだか悲しくなりますが、原発推進派(核武装のための原発は不可欠です)の小池さんが「脱原発」を標榜したりしているのですから、政治家の言葉はもはや営業トークでしかありません。
独裁者の信念は「私が法」ということなので、原理原則などないのかもしれません。
そして、独裁者のまわりには阿諛追従族が集まるのでしょう。
これも内田さんがわかりやすく話してくれています。

簡単に読める本ですので、22日の投票日までには第1章だけでも読んでもらえるとうれしいです。

ちなみに政局に関しては、山本太郎さんのような若者が出てきて、生活寄りの政治を打ち出せば、日本は変わっていくのでしょうが、マスコミに洗脳され過ぎた国民は、希望の党に投票し、日本はますますの右傾化を進めるでしょう。

韓国とどうしてこんなに違うのか。
何が欠けていたのでしょうか。

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