■節子への挽歌3686:壁か溝か
節子
2日かけて、英国ドラマ「埋もれる殺意」をみました。
それに関しては今日の時評編で書きました。
いろいろと考えさせられる人間ドラマですが、さまざまな夫婦が出てきます。
みんな愛し合っているのですが、どこかに壁がある。
壁をつくっているのは、悪意からではなく、過去を知られることの不安です。
かなりの人生を別々に生きてきた2人が、生活を共にするのは、それなりに大変なことです。
文化も思考も違えば、好みも価値観も違う。
だから注意しないと溝ができる。
壁と溝は意味合いがかなり違いますが、2人の世界を分けてしまう点では同じです。
壁や溝があっては、なかなか同じ世界はつくれない。
全く同じ世界を生きることは煩わしいし、たまには一人の世界に浸りたいという人もいるかもしれません。
しかし、私が思うのは、同じ世界であればこそ、それぞれの平安な居場所がつくれるのではないか。
となりに、もうひとりの自分がいると思えば、逆にまわりを気にせずに、自分に浸りきれるような気がします。
私たちは、たぶんそうでした。
壁も溝もないからこそ、自分を思い切りだせたように思います。
そういう意味では、お互いにいつも自分をさらけ出せる関係でした。
ドラマの世界はともかく、現実はどうでしょうか。
夫婦の壁や溝はどのくらいあるものか。
私の体験では、夫婦関係を続けていると、壁は低くなります。
逆に気をつけないと溝は深くなりがちです。
私たち夫婦も、溝ができかけたことはあります。
しかし壁がなかったことが、その溝を深めずに埋めていくことができた気がします。
溝がないと気づいたのは、私が会社を辞めると節子に話した時です。
節子は、私が話す前からそれに気づいていました。
拍子抜けするくらい、よくこれまでもったねと言いました。
壁がないため、すべては見透かされていたのです。
壁があろうとなかろうと、夫婦はお互いに見透かせるものです。
一緒にいる時間が少なければともかく、普通に同じ家で寝食を共にしていれば、わかると思えば、すべてがわかるでしょう。
ただし、溝があれば、わかろうとするところに曲解が入り込んで、おかしな実態を虚構してしまうかもしれません。
それがまた溝を深め、壁を高めてしまうのかもしれません。
幸せそうな老夫婦に出会うことがあります。
私たちもきっとこうなっただろうなと思うこともあります。
今生ではそれが実現できなかった。
来世では、それを手に入れたいと思います。
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