■節子への挽歌3682:「癒える」こともなければ、「癒す」必要もない
節子
昨日、お会いした人が、帰り際に「まだ癒えませんか」とつぶやきました。
1年ぶりくらいにお会いした方です。
お会いした件とはまったく関係のない問いかけだったので、意表を突かれた感じで、しかし即座に「癒えません」という言葉が出てしまいました。
なぜその方がそういう問いかけをしたのか、冷静に考えると理解できないのですが、もしかしたらその方はこの挽歌を読まれたのかもしれません。
その方は江戸っ子を思わせるような雰囲気を持った女性です。
最近、お父上を亡くされました。
それと重ねた問いかけだったかなとも思いますが、彼女は最近夫を亡くした友人が2年たっても涙が止まらないという話をしてくれました。
止まるはずがない、とこれも即座に言葉が出ました。
その人は、きっと「癒えたい」などとは思っていないでしょう。
しかし、そういう言葉を発しながら、「癒える」とはいったい何なのだろうかという疑問も浮かんできました。
今日は歯医者に行ったのですが、治療台の上でそのことを考えていました。
そもそも、悲しみは、悲しみとして残る以上、「癒える」ことなどあるはずもない。
それに「癒す」必要もない。
それが結論です。
癒えてしまったら、それは悲しく寂しい思い出ではなくなってしまう。
死者はそれを喜ばないでしょう。
思い出すたびに、笑いと涙が浮かんでくる。
そういう関係をつづけることこそが大切です。
悲しい時には素直に涙し、楽しい時には素直に笑う。
生前もそうだったように、そういう付き合いを続けるのがいい。
そう思います。
歯医者の治療台の上では、もっといろいろと考えが浮かんできたような気がしますが、要は、改めて、「癒える」こともなければ「癒す」必要もない、ということです。
だからきっと昨日は即座に言葉が出たのでしょう。
今日も寒い日です。
身心がとても寒い。
冬がもうすぐそこなのかもしれません。
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