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2017年11月

2017/11/30

■節子への挽歌3705:目が△になってますよ

節子
先日、あるイベントを開催する前に一緒にやっていた女性が、「佐藤さん、目が△になっていますよ」と笑いながら注意してくれました。
私の目は細いので、△になどならないのですが、怒り過ぎですよという皮肉です。
そのイベントは、当初の話と違って、なかなかうまくいっていなかったので、準備のためのミーティングで毎回私はかなり怒っていたのです。

実はその人は、私の友人から紹介されてそのミーティングに参加してくれるようになったのですが、運悪く、彼女が参加しだしたころから毎回、私はイライラして怒っていたのです。
怒るとついつい顔と態度に出るのが私の弱いところです。
彼女は「佐藤さんは神様のような人だ」と友人から聞いていたそうなのですが、実際の佐藤さん(私です)は怒ってばかり。
それを皮肉られたわけですが、幸いにその時には私は怒ってはいなかったのです。
少しだけ余裕があったので、「オリンポスの神様もいつも怒っているでしょう」と言い返すことができました。

しかし、その頃、つまり1~2週間ほど前ですが、私はかなり怒っていました。
イベントだけではありません。
周り中のすべてに怒りを感じていました。
周りが悪いと言いたいところですが、まあ悪いのは私自身なのでしょう。
すべては自業自得なのが人の常ですが、それでも怒りは収まらない状況にいたのです。

イベントはまあ何とかうまくいきました。
近隣の市からわざわざ参加してくれた人はとても良かったと言ってくれましたし、我孫子の人も元気が出て来たとか私のメッセージがよかったとか言ってくれました。
でも私には充実感は全くないのです。
どうも私の思いは、なかなか伝わらないようです。
だから終わった今もなお、怒りはおさまりません。
それに日馬富士の事件も腹立たしい。
私は日馬富士に対して腹立たしいのではありません。
世間が腹立たしい。

価値観がずれているせいか、最近はともかく怒りたくなることが多いです。
そういう時は、何かをする気になりません。
困ったものです。
明日から12月。
今月中に連絡すると約束したことも果たせずにいます。
さらに恥ずかしいことに、見舞いに行こうと思っていた友人から、見舞いに来てくれないので、自分が行くことにしたと電話が来ました。
いやいや怒ってばかりいるうちに、怒られるようなことを積み重ねているような気がしました。
まだまだ未熟な老人です。

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■地元我孫子の公開フォーラムの報告

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先週の土曜日(11付き25日)、我孫子市の「市民のチカラ」まつりで、「世代を超えた「人のつながり」がまちをゆたかにしていく」というフォーラムを開催しました。
並行してさまざまなイベントが開催されていたので、人の集まりが心配でしたが、60人を超えた参加者がありました。
隣りの市から来てくださった方からは、とてもよかったという感想をもらえました。

キースピーチは、学校と地域の融合教育研究会の宮崎さんにお願いしました。
宮崎さんの活動はご存知の方も多いと思いますが、まちづくりや社会教育の世界に新しい風を吹き込んだと私は思っています。
前にも他のところでお話をしていただいたことはあるのですが、我孫子で話をしてもらうのは、今回が初めてです。

宮崎さんのお話は、子どもたちの教育の場である学校に、「まち」を引きこむことによって、学校をみんなの学びの場、そしてまちづくりの拠点にしていったという物語でした。
それは同時に、教える教育を超えた、大きな学びを子どもたちにもたらし、子どもたちとまちの人たちの、世代を超えたつながりを育てることで、未来に向けてのまちづくりの芽を育てたという話でもあります。
まちづくりとは、立場や世代を超えた人のつながりを豊かにしていくことだと思いますが、
宮崎さんは、学校を使って、それを見事に実現したのです。

いうまでもなく、人のつながりを育てる場は、学校だけではありません。
我孫子でも、いろいろな場を活かしながら、人のつながりを豊かにしている人たちがたくさんいます。
今回は、そうした3人の人に、宮崎さんのお話の後、少しパネルディスカッション風に話してもらいました。
その話を聞いていて、我孫子の市民活動も少しずつ変わってきているなと実感しました。
特に若いおふたりからは、壮大なビジョンも飛び出しました。
若者と高齢者の違いは、もしかしたら「ビジョン」の有無かも知れないと思いました。

このフォーラムをキックオフイベント位置づけ、つづけて「我孫子を舞台に面白いことを始めよう」というミニワークショップを開催し、ゆるやかなネットワークを立ち上げるはずだったのですが、今回の実行委員会メンバーの合意が得られなかったので、改めて年明け後に取り組みたいと思っています。
すでにこんなことをしたいと提案したいという方も何人かいます。

今回のフォーラムは、私にとっても、久しぶりの出会いがいくつかありました。
我孫子の市民活動の草分け時に活動されていた佐藤祐子さんにも、10年ぶりにお会いできました。
しかし、ゲストの宮崎さんは私どころではありません。
なんと50年ぶりに大学の同窓生、それも宮崎さんにとっての「マドンナ」にお会いできたのです。
人のつながりは、まちづくりだけでなく、個人の人生も豊かにしていきます。
いや、個人の人生が豊かになることが、「まちづくり」なのかもしれません。

我孫子界隈にお住いの方で一緒にやりたいという方がいたら、ご連絡ください。

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■状況と行為

日馬富士事件は、日馬富士の横綱引退表明という、私にとっては一番想定されていた、しかし一番避けたかった結果になってしまいました。
日馬富士という若者の無念さを思うと、私自身も無念になります。
彼がまだ33歳の若者であることをみんな忘れているのではないかとさえ思います。

「暴力が悪い」という言葉ほど、暴力的な言葉はありません。
もし本当にそう思っているのであれば、国家に戦争という暴力を認めることはおかしいはずです。
集団安保法制や北朝鮮への圧力支持者は、みんなそういう自覚があるのでしょうか。
暴力はたしかに悪い。
しかしすべての暴力が悪いのか。

念のために言えば、私は、すべての暴力が悪いと思っています。
ですから、先日のサロンでも話しましたが、もし戦争に駆り出され相手を殺害せざるを得なくなっても私は殺害せずに相手に殺害されることを選びたい。
鶴見俊輔さんの考えに共感します。
http://cws.c.ooco.jp/blog7.htm#150630
しかし、その時も笑われましたが、鶴見さんの考えに賛同する人は私のまわりにはほとんどいません。
つまりみんな「暴力」を条件付きで認めている。
だとしたら、状況もわからないまま、「ともかく暴行は悪い」というのはおかしいのではないか。
そういう「ジャスティス・ハラスメント」には違和感を覚えます。

日馬富士の「暴力する行為」をみんな非難します。
しかし、「暴力する行為を起こした状況」をきちんと知っているのか。
それを知らないで、行為だけを問題にするのはどう考えてもフェアではありません。
状況から切り離して暴力「行為」だけを議論することなどできるはずはありません。
大切なのは、行為ではなく状況であるというのが、私の信条ですが、「行為」だけで議論する最近の風潮にはあやうさを感じます。

大切なのは、「行為」という事実から「状況」を読み解くことです。
そして正すべきは「状況」です。
それをしないから、同じようなことが繰り返し起こってくる。
念のために言えば、ここで言っている「状況」は、今回事件が起こった飲み会の「状況」ではありません。
彼らが生きている相撲界の状況であり、それを見ている世間一般の状況であり、それを介在するマスコミの状況です。

マスコミがつくる「事件」は、加害者と被害者がいつも明確です。
でも実際の社会は、加害者と被害者は紙一重の違いであり、少し視点や基準を変えると立場が逆転することもあります。
行為だけをみれば、加害者と被害者は見えやすくなりますが、状況次第ではそれも逆転しかねません。
そのために、裁判でも情状酌量という仕組みがありますが、しかしそれは「行為を裁く」という近代の思想にとっては補助的なものでしかありません。

さらに、状況に関して大切なことは、状況は主観的な要素が強いということです。
しかし、加害者や被害者が状況をどう捉えているかなどは当事者以外にはわかりません。
であればこそ、状況を構成している人たちが、みんなで状況を見えるようにしていく必要がある。
その努力なしに、行為はもちろん、人を罰することはできません。

その意味では、事実を隠している貴乃花親方の暴力性は極めて大きな問題です。
正装して謝罪に来た伊勢が濱親方や日馬富士を無視して走り去った貴乃花親方の行為は「暴力」といえないのか。
子どもたちのいじめの世界で、「無視」することがいかに人を気づつける暴力行為なのかが盛んに言われたことをみんな忘れているのでしょうか。
そういう行為が、いかに多くの人の精神を傷つけ死にまで追いやることをみんな忘れたのでしょうか。

貴の岩や日馬富士の思いが抑圧されているような状況こそが、そもそもの問題です。
伊勢が濱親方の気持はわかりますが、日馬富士の発言を制するのはフェアではありません。
貴乃花親方の信念はわかりますが、たとえ「自らの子」であろうと貴の岩を世間と遮断しているのは非難されるべきです。
そんな権利は、たとえ親といえどもありません。
貴乃花親方は自らが批判している相撲協会の他の理事たちと同じことをやっているとしか私には思えません。

私は、自殺の問題やケアの問題にささやかに関わってきていますが、そこで学んだのは「行為」よりも「状況」だということです。
時に、被害者よりも加害者のほう被害者に見えることもある。
事件の報道によって、被害者がさらなる被害者になることもある。
さらに部外者が、加害者になることもある。

私はこれまで以上に、「行為」よりも「状況」を見ていきたいと思っています。
他者の行為は私の関われないことですが、他者と共に生きている状況であれば、私も少しは、自らの影響を通して、影響を与えることができるかもしれません。
いまの社会がこのまま続くのであれば、来世は人間ではない存在に生まれたい気分です。

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■節子への挽歌3704:愛されることよりも愛することの方がいい

節子
昨日、節子も知っているTさんと長話をしました。
彼がしみじみと「愛されることよりも愛することの方がいい」と言いました。
まあ長話のテーマは、そんな話ではなかったのですが、その合間に彼が呟いたのです。
数日前に電話でも同じことをききました。

Tさんは今、ある人に愛される一方で、別に愛する人がいるのです。
挽歌で書いたことがありますが、「愛」とは愛されることではなく愛することだと、私も思っています。
愛することが、愛されることで報われないとしても、愛が消えることはないでしょう。
それにそもそも、愛されるとは他人事の話、自分の外部の話であって、その事実を確認しようもありません。
「愛する」という時の「愛」と「愛される」という時の「愛」とは、まったく別の者だと思います。

今朝、少し早起きして、ずっと気になっていた森岡正博さんの「無痛文明論」を読みだしました。
まだ50頁ほどしか読んでいませんが、そこに「無痛文明における愛の条件」という章がありました。
昨日のTさんの話を急に思い出したのです。
最近なぜか思い立って古い本を読むと、そこに身の回りで体験したり聞いたりした話につながることが出てくることが多いのです。
そこに、見えない計らいを感じてしまいます。
改めて、「愛」について考えろと言われているような気がしました。

森岡さんの本はまだ途中ですが、今朝読んだところでは、愛の条件とあるように、私の感覚には合いませんが、愛とは何かを改めて思い出させてくれました。
私は、愛とは自らを委ねることだと思っています。
神にすべてを捧げる、ようにです。
ですから、神がいなくなった時、もはや生きるすべがなくなってしまう。
私はまさにその体験をしました。
しかし、それを超えれば、いなくなったはずの神が復活する。
まさに「キリストの復活」です。
そして今は、すべての人は「愛によって生きている」と確信しています。
ただその神が見えていないことがある。
愛する人が現世にいようがいまいが、あるいは愛する対象が人間であろうがあるまいが、「愛する」ということはできるのです。

愛する存在があれば、人は強くなれます。
しかし最近の私はあんまり強くありません。
愛するエネルギーが弱まっているのかもしれません。
最近考えてもいなかった「愛」について、少し考えるのもいいかもしれません。

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2017/11/29

■節子への挽歌3703:本を読んでいると節子を思い出します

節子
今朝は5時に目が覚めたのですが、寒いのでベッドの中で本を読んでいました。
10年前に話題になった福岡伸一さんの「生物と無生物のあいだ」です。
そこにこんな文章が出てきました。

生命とは動的平衡にある流れである。 生命を構成するタンパク質は作られる際から壊される。 それは生命がその秩序を維持するための唯一の方法であった。

他の本で、この福岡さんの言葉を読んで、10年遅れでこの本を読みだしたわけです。

この本に限りませんが、最近、いろんな本を読んだりテレビのドラマを見ながら考えさせられるのが、節子との関係です。
意図的にではないのですが、なぜかついついそんなことを思ってしまうのです。
前の3行のことと節子とがどうつながるのか、説明しないとわからないでしょうが、私の中では何かを理解する時に、節子との関係で考えるとすごく納得できることが多いのです。

たとえば、福岡さんの本には、その少し後に「柔らかな相補性」とか「内部の内部は外部」という言葉が出てきます。
いずれの言葉も、私にはピタッと来ました。
これも節子のおかげです。

節子と一緒に暮らしたおかげで、世界を理解するための基準が持てたような気がします。
そんなことを思いながら、今朝は起きました。
今日は暖かな日になるそうです。
陽光が部屋に入りだしました。
元気がもらえる日になりそうです。

「柔らかな相補性」について書こうと思ったのですが、外に出たくなりました。
それはまたの日にしましょう。

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2017/11/28

■節子への挽歌3702:節子の好きな富有柿

節子
年内に挽歌の番号に追いつくためには毎日2つずつ書かないといけません。
書くのをさぼってきた罰です。
困ったものです。

今日は岐阜の佐々木さんからどっさりと富有柿が届きました。
早速供えさせてもらいました。
秋の仏壇は、果物が欠けることはありません。
果物は節子よりも私のほうが好きなのですが、富有柿だけは節子の方が好きだした。
ですから、私が食べる前に節子に供えさせてもらったわけです。
それに、節子にはルールがあって、果物を食べるのは朝が一番いい、せめて昼間が限度で、夜は食べないのです。
そのルールを、節子がいなくなった今も私は守っています。
しかしまあ、供えるのは早い方がいいと思い、夕方になっていましたが、供えてしまいました。
彼岸には、たぶん時間は流れていないでしょうから。

果物ルールの例外は、みかんです。
みかんは夜こたつに入ってテレビを見ながら食べるというイメージがあるのです。
節子も、みかんだけは夜のほうがよく食べていました。
こたつとみかんは、なんとなく相性がいいですし。
しかし最近は、わが家からこたつはなくなりました。
わが家の生活の風景もどんどん変わってきています。
節子がいたら、たぶん違った変わり方をしたでしょうが。

一番大きな変化は、私が早寝早起きになったことです。
それと自宅で本をよく読むようになりました。
節子がいた時には、読書よりも節子と話す方が楽しかったのですが、いまはその楽しみはなくなりました。
読書が楽しいわけではなく、節子と話す時間が空いてしまったので、読書しているという感じですが、最近は時々とても感動的な本に出会います。
これもまた節子のおかげでもあります。
まあ、ものは言いようですが。


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■日馬富士事件の報道に思うこと

つづけて書きたくなりました。

あいかわらず日馬富士の暴力行為がテレビで語られています。
相撲協会の世界とは切り離して、これは純然たる暴力行為(犯罪)だという人が圧倒的に多いです。
でもそうでしょうか。

フランスの社会学者ブルデューは、「およそ教育的働きかけは,恣意的な力による文化的な恣意の押しつけとして、客観的には、一つの象徴的暴力を為すものである」と、教育を恣意性による押しつけという象徴暴力的行為としてとらえています。
教育は「暴力行為」だなどと言うつもりはありませんが、教育に「暴力性」があることは否定できません。
そもそも、社会の秩序を維持していくためには、「暴力性」は不可欠なのです。
問題は、どういう場合にどういう「暴力」がゆるされるかです。
それは時代によって変わってきましたし、これからも変わっていくでしょう。

ともかく「暴力が悪い」という人が多いですが、果たしてそうなのか。
たしかに「暴力のない社会」を目指したいですが、時に暴力が必要なこともある。
そう考えれば、事件の背景や状況や関係者と切り離して、純粋に「暴力行為」を評価すべきではないと私は思います。

日本はまだ、近代を超克していない。
そう思いながら、コメンテーターたちの「正論」を苦々しく聞いています。


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■横綱の品格と白鵬の人格

白鵬に関して横綱の品格が問われています。
横綱の品格よりも白鵬の人格に関心のある私としては、白鵬の言動のほぼすべてに共感しています。
そもそも、人間に対して「品格」などと言う言葉を使うこと自体に、私は最近、疑問を感じだしています。
昔は私も抵抗を感じなかったのですが、大いに反省しています。
人を品定めするようなことはしたくありません。
もっとも「人格」というのも、格付けのようで、これもよく考えないといけませんが。
「一度の過ち」の日馬富士には、一度ならず過ちを繰り返してきた私としては寛大でありたいです。
日馬富士を非難しているコメンテーターを見ると、それこそビール瓶で殴ってやりたい気分ですが、まあそんなことを思うだけでも、私には品格もないし、人格にも欠陥がありそうです。

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■節子への挽歌3701:記憶を思い出すたびに、記憶が世界をつくりだします

節子
朝、日の出の前に起きるとやはり寂しさを感じます。
静かな世界の中で、なにやら自分一人だけの感じがするのです。
節子がいる時には、日の出前に起きるのは早朝の出張時だけでした。
その時には必ず節子も起きて、朝食を用意し、駅まで送ってくれました。
ですから日の出前の起床には、なにとてもあったかな記憶があるのですが、節子がいなくなってからは、ただただ寂しさだけです。

しかし、外が少しずつ明るくなってくると、不思議にいつも思い出す風景があります。
海外旅行の朝の記憶です。
私は記憶力があまり良くないため、何処での朝だったか思い出せないのですが、そしてなぜそういう風景が記憶に残っているかもわからないのですが、さらに言えばそれが事実かどうかさえ分かりませんが、ホテルの窓から外を2人で見ていた記憶です。
出発がよほど早かったのでしょう。
まあ夜明け前にホテルを出発することはよくありましたが、なぜかその風景の中に馬車が走っている音がするのです。
馬車が早朝にある都市などがあるのも不思議なので、よく考えてみるとこれもまた私の記憶に残っている創作記憶かもしれません。

人の記憶の中にある事実とは、すべて創作物かもしれなと、時々思います。
そもそも人の記憶の中には客観的事実などないでしょう。
同じ事実を体験した人たちの記憶は、それぞれの人によって微妙に違うでしょう。
人の中にある記憶はすべて主観的なものです。
海外のホテルでの朝の馬車の記憶も、どこかで私がつくったものかもしれません。
しかし、もし今節子がいたら、何処までが私の創作かは確かめられるのですが、それができません。
つまり、私の過去は、そうやって消えて行ってしまうわけです。

時間は過去から未来に向けて流れているわけではありません。
過去から未来のすべての時間が、畳み込まれるように一体化しているはずです。
ある人は、そこには「彼岸」の時間までもが畳み込まれていると言っていますが、とても納得できます。
節子がいなくなったことで、私の過去も現在も未来も、そして彼岸も変わってしまったはずです。
夜明け前の静寂さは、人を哲学的にしてくれます。

そろそろ日の出です。
鳥がさえずりだしました。
自動車の音も聞えだしました。

馬車の記憶は、もしかしたらトルコだったかもしれません。
馬車はホテルに向かってやってきた。
記憶を思い出すたびに、記憶が世界をつくりだします。
節子の記憶もこうやって、創作されてきているのでしょう。
私が生きているということは、節子が生きているということなのかもしれません。
いや、死んでしまったのはどちらでしょうか。

そろそろ現世に戻りましょう。

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2017/11/27

■節子への挽歌3700:平成生まれの若者

節子
平成生まれの若者に会いました。
刺激を受けました。
彼と話していて、今の時代に生まれたら、どんなに生きやすかっただろうと思いました。
もっとも仮にそうであっても、私が彼のように軽やかに生きられたとは思いませんが、それでももっと普通に生きられただろうと思いました。
話していて、もうひとりの(たぶん)平成生まれの若者のことを思い出しました。
どこかでとても似ています。
それにしても、若者はやはり魅力的です。
生きたビジョンがある。
もっとも本人はそのビジョンを必ずしも意識してはいないのですが、感ずるものがあります。
いつかこの2人を引き合わせたいと思います。

彼と話してもう一つ気づいたことがあります。
私に見えてない世界で、世界は大きく変わっているということです。
人は自らの知識とビジョンでしか世界を見ていません。
私は、自分では世界がかなり見えていると自負していますが、何のことはない、見えているのはとても狭い世界でしかありません。
そのことに改めて気づかされました。
もっと世界に関わらなければいけません。
最近の私は、いささか「引きこもりの感」があります。

若者に会うと元気が出ます。
節子に出会ったころの私はたぶん今日出会った若者に少し似ていたかもしれません。
いまの自分が、あまりに違ってしまっているのを思い知らされました。
いまの私を見たら、節子はどう思うでしょうか。
きっと失望するでしょう。
困ったものです。

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■私は蒼国来を応援しています

白鵬が「場所後、真実を話し、膿を出し切って、日馬富士関、貴ノ岩関を再びこの土俵に立たせたい」と発言したことが物議を起こしています。
白鵬も、一言話せば非難され、異議申し立てをすれば非難される。
私は白鵬の素直な生き方に共感しています。
横綱も人間であってほしいと思うからです。

矛盾しているように思われそうですが、日馬富士にも、貴乃花にも、共感します。
みんな自分を生きていると思うのです。
たしかに日馬富士が行なった暴力行為には共感はできませんが、人は過ちを犯すものです。
それに、たぶんモンゴルの文化と日本の、さらには大相撲の文化は違います。
郷に入らば郷に従え、などという言葉もありますが、多文化共生の時代でもあります。

私が一番おかしいと思うのは、あまりに部外者が騒ぎ立てることです。
もっと騒ぎ立てることがあるだろうと思うのです。
それに「暴力」という点では、もっと大きな暴力が日本政府によっても行われています。
原発だって大きな暴力です。
そちらの方に私は関心があります。

この騒ぎを見ていて、まさに現代はフェイクニュースの時代、ポスト真実の時代だと思います。

私は蒼国来を応援しています。
大相撲八百長事件で一度は解雇され、裁判で勝訴し土俵に戻ってきた力士です。
相撲協会には不祥事も多いですが、責任を取るべきは若い力士ではなく協会の役員ではないかと思っています。
今回も理事長以下の役員が責任を取るべきだと思っています。
いつも切り捨てられるのは現場の人たちという、現代のフェイク責任論に怒りを感じています。

日馬富士も貴の岩も、土俵に戻ってきてほしいです。

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■節子への挽歌3699:生命が時間を生み出す

節子
まずは生活リズムを戻そうと思い、少しだけ早起きをしました。
そして歯を磨き、パソコンに向かいました。
まずは「かたち」からです。

時間を生み出しているのは生命だということを、生物学者の福岡伸一さんの本で読んだような気がします。
後でしっかりと考えてみようと思っていて、その後さぼっていた文章の記憶なので、間違っているかもしれません。
時間が生命を生み出すのではなく、生命が時間を生み出すという発想にとても興味を持ったのです。
前にもこの挽歌で書いた気がしますが、「環世界」という考え方があります。
世界は、その人がつくっているという話で(これも不正確な表現ですが)、たとえばある種のマダニは餌に出会うまで18年間も絶食していたという記録があるそうです。
そのマダニにとっての時間は、私とは全く違うわけです。

節子と生命をシェアしていたと思い込んでいる私にとっては、節子の生命の停止は、時間の停止にもつながっています。
ですから、私の世界の中では、時間はいまは生まれていない。
だから私には時間がなくて、いつも暇で暇で仕方がないのです。
そんな感じが強くしています。

朝、目が覚める。
あの頃と全く同じように目覚め、しかし全く違う世界に生きる。
慣れるまでにはかなりの時間が立ちましたが、それは私にとっては「生きた時間」ではないのです。

久しぶりに朝起きてすぐにパソコンに向かったら、なにやら難しいことを書きだしてしまいました。
しかし、最近、時間とか生命にまた少し関心が戻っているのです。

昨日書いた我孫子のフォーラムに、もうひとり節子の葬儀に来てくださった方が参加してくれました。
10年ぶりでしたが、再会を喜んでくれました。
私は面識のある人でしたが、節子ともつながっていたことを知らず、彼女が節子の葬儀にどうしてきたのか最初はわかりませんでした。
たぶん花かご会の関係なのでしょう。
フォーラムで発言してくれたIさんもそうですが、見えないところで人はつながっているものです。

今日はさわやかな冬の朝です。
静かです。
鳥たちもまだ寝ているのでしょうか。

今日は、フェイスブックで知り合った若者と会う約束をしています。
若者と話すと、もしかしたら時間が取り戻せるかもしれません。
そして時間をつくりだす、生命を取り戻せるかもしれません。

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2017/11/26

■節子への挽歌3698:意外なところで節子知り合いに会いました

節子
また1週間、挽歌を書きませんでした。
まあ毎朝、般若心経簡略版をあげていますのでゆるしてくれるでしょう。
それにしても、どうも気が立ち上がってこない日々が続いています。
でもようやくいろんなことから自由になれそうです。
たぶん、ですが。

昨日、我孫子の市民活動フェスタで、公開フォーラムをみんなで主催しました。
学校と地域の融合教育研究会の宮崎さんにキースピーチをお願いし、その後、地元我孫子で活動している若い世代の人3人のパネルディスカッションをしました。
60人ほどの人が集まってくれました。
パネルディスカッションには、宮崎さんも入ってもらい、会場にも発言を呼びかけました。
なんとそこに宮崎さんの大学時代の同級生が参加していたのです。
宮崎さんにとってのマドンナだった女性です。
50年ぶりの遭遇だそうです。
その話をした後、その女性は「民生委員をしているが、私の前の前の民生委員は佐藤さん(私です)の奥さんだった」とみんなの前で言いました。
これまた驚きました。
節子が知っている人なのです。
私は知りませんでしたが。
実に不思議な気分でした。

フォーラム終了後、NPO関係者の交流会に参加しました。
たまたま隣席の人が、花かご会の話をしだしました。
節子が中心になって立ち上げたボランティアグループです。
その人はまさか私が花かご会を知っているとは思ってもいなかったでしょう。
話をした後、花かご会の代表に取材に行ったことがあるというのです。
節子がいなくなってから代表は山田さんですが、節子が元気だったら節子に会っていたかもしれません。

というわけで、昨日は節子を思い出させる2つの出会いがあったわけです。

そういえば、もう一つありました。
交流会の席には、宮内さんも同じテーブルだったのですが、宮内さんは自己紹介の中で、私との関係を話し出しました。
私の家にギターを持って歌を歌いに来た話をしてくれたのです。
節子が亡くなった翌年で、私を元気づけに来てくれたのです。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2008/10/post-a863.html
そのギターを聴いて私が喜んだのが、我孫子で音楽活動を始める一つの契機になったと話してくれました。
宮内さんからそういう話を聞くのは初めてです。
宮内さんとつないでくれたのも、節子だったのだと気づきました。

挽歌を書かないので、節子が仕組んだことでしょうか。
明日から、今度こそ本当に挽歌を復活させます。
今日も疲れました。

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2017/11/24

■今年最後の「みんなのゆる~いカフェ」のご案内

今年最後の湯島の「みんなのゆる~いカフェ」(みんカフェ湯島)のご案内です。
最近、平日の夜がどうも参加しやすいようなので、今回も平日の夜です。
しかし、私が夜はどうも苦手なので、少し早目にさせてもらいました。

テーマは特に決めませんが、今回は年末なので、ちょっと話題を決めさせてもらいました。
「今年はどんな年だったのだろうか。来年はどんな年にしたいか」
「自分にとっての」でも「世界にとっても」、あるいは「誰かにとっても」でもいいですが、ちょっとまあ立ちどまって考えてみようということです。
まあこんなテーマは無視してもらって、別の話をしてもらってもいいですし、何も話さなくてもいいです。
なにしろ、「ゆる~いサロン」です。
途中での出入りももちろん自由。
誰でも歓迎です。
気軽に遊びに来てください。

〇日時:2017年12月13日(水曜日)午後6時~8時半(途中の出入り自由)
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇話題提供者:だれでも自由
〇参加費:気が向いたら机の上にある缶にワンコイン(1円でも500円でも自由)を入れてください。ともかくみんなでつくるサロンを目指したいです。

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2017/11/23

■政治を考えるサロン「統治から協治へ」のお誘い

今年最後の政治サロンは政治構造の変化をテーマにしたサロンです。
問題提起者はリンカーンクラブ事務局の立場で、私が担当させてもらうことにしました。
テーマは「統治から協治へ」です。
これまでの政治は、主権在民などとはいうものの、つまるところは政治家による政治家の政治なのではなかったのか。
そのために政治の舞台は永田町であり、国会の議場でした。
そこでの対立軸は「保守対リベラル」などという、わけのわからないものでした。
保守もリベラルも、解釈はいろいろで、都合よくつかわれていますが、少なくとも国民の生活とのつながりはあいまいです。
いずれにしろ、統治者が被治者をどう統治するかの話でした。

しかし、そろそろ政治は対立軸と基点を変えるべきではないか。
政治家たちは国会から外に出てきて、議場を全国に広げるべきではないか。
さらにいえば、統治のベクトルを反転させるべきではないか。
つまり、政治の仕組みを、被治者が統治者(ガバメント)を統治(ガバナンス)するものに変えていかなくてはいけないのではないか。
そんな思いから、今回は政治構造の転換に関して問題提起させてもらおうと思います。
まだ内容をしっかり考えているわけではなく、極めて粗雑な問題提起になりますが、まあサロンですので、お許しください。
20分ほど私から問題提起させていただき、後は参加者で話し合うサロンにしたいと思います。
年末のご多用な時期ですが、よろしくお願いいたします。

〇日時:2017年12月16日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「統治から協治へ」
〇話題提供者:佐藤修(リンカーンクラブ事務局長)
〇参加費:500円
○参加申込み:qzy00757@nifty.com

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■語らせないことの罪

「語らないことの罪」があれば、「語らせないことの罪」もあるのではないか。
ある人から、そう言われました。

私は基本的には、人間は一人では生きていない存在だと思っています。
ですから犯罪を起こした「個人」に対しても、寛容さが大切ではないかと思っています。
犯罪行為は、よほどのことがない限り、だれも起こしたくはないはずでしょう。
ですから、語りたくても語れない状況に多くの人が追いやられている最近の状況に危惧の念を持っているはずだ。
そうならば、「語らないこと」を問題にするのではなく、「語らせない社会」こそを問題にするべきではないかというわけです。
たしかにそうなのです。

もう5年近く前になりますが、友人の楠秀樹さんが友人たちと本を出版しました。
「〈社会のセキュリティ〉は何を守るのか」という本です。
その本の副題は「消失する社会/個人」です。
その序論にこう書かれています。

「個人」が理性的で自由な主体である限りで,すなわち,ともに議論し,決断し,共感し,相互批判し,関係性を確認して信頼し合う限り,連帯を結ぶことによって成り立つのが「社会」である。 したがって,諸個人が議論せず,決断を奪われ,共感せず,互いを率直に批判せず,ただうやむやに同調し,自分たちの関係性を顧みず,ダイナミズム(力強さや躍動感)を失い,互いを信頼しない事態に陥る時,すなわち理性を使用せず,自発的に行動する自由を失うとき,そこに連帯としての社会はない。

楠さんは自分の担当した章で、「個人」を解消する時、「社会」も消失すると書いています。
この視点に共感します。
私もまた、最近の日本には、個人も社会もなくなってきていると感じているのです。

昨日、某大学の教授と雑談をしていた中で、その方がいまや「関係性の時代」になったが、それは同時に主体性ある個人がいなければ、成り立たないと言われました。
私は、イヴァン・イリイチのコンヴィヴィアリティの考え、つまり自立共生を基本として生きてきました。
そして、関係や関係を生み出す場を大事にしてきています。
ですから楠さんたちが言うように、社会/個人の消失に大きな危惧の念を持っていますが、その一方で関係性論議の中で、大きな流れが反転しそうな気配も感じています。

なにか難しいことを書いたかもしれませんが、そういうわけで、「語らない個人」こそが「語らせない社会」をつくりだし、「語らないこと」を正当化しているということを、「語らないことの罪」で言いたかったのです。
ただ中途半端な書き方をしたので、誤解を与えたかもしれません。

正直に言えば、最近、時評編のブログを書く気力が萎えているのです。
困ったものですが。

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■語らないことの罪

日馬富士の「暴行」事件が連日、テレビを賑わせています。
私自身は、日馬富士にとても同情的です。
テレビが盛んに煽り立てているような気がしてなりません。
たしかに「暴力」はいけないかもしれませんが、スマホを見ながら相手を無視するのも「暴力」の一種です。
ビール瓶と聞いた時にはさすがに私も揺らぎましたが、平手でも力士の平手は「凶器」になるという発言を聞いて、逆に考えれば、ビール瓶も力士には「凶器」にならないかもしれないとも思いました。
一方で、元貴の花親方が協会を相手にせずに、警察に届けたという行動にもとても共感します。
しかし、その後の沈黙にはまったく共感できません。

今日、書きたかったのは、日馬富士事件ではありません。
「語らないことの罪」です。
私の数少ない信条の一つは、「嘘をつかないこと」です。
自らに嘘をつかないという意味ですが、他者への嘘もよほどの事情がなければついてきませんでした。
そのために、逆に「嘘をついている」と思われたこともあります。

嘘をつかないことはとても難しいことですが、それ以上に難しいのは、語るべき時に語らないことかもしれません。
幸いなことに、私自身は「語るべき時」にあまり出合したことがないのですが、今回の事件に限らず、語るべき時に語らない人があまりに多いことが気になっています。

いままた話題が再燃している森友学園事件で言えば、語るべき人で語ったのは前川さんと籠池さんくらいで、後の人はほとんど「語るべきこと」を語っていないように思います。
語らないことのほうが、たぶん生きやすいのでしょう。
語らないまま、そして証拠物件を隠ぺいしたとさえ思われながらも、国税庁長官に抜擢された佐川さんのような人もいます。
彼は、語らないまま人生を終えるのでしょうか。
私には実に惨めな人生のような気がします。

安倍首相夫人の昭恵さんは、付き合いのある友人たちからは、とても素直な善なる人だとお聞きしていましたが、その昭恵さんもまた「語るべき時」に「語るべきところ」で語っていません。
とても残念です。

語らないといえば、前の太平洋戦争のことを体験者はあまり語りたがらなかったようです。
それほど強烈な体験だったのでしょう。
しかし、少しずつ、語りだす人が増えています。
私も何人かの方から体験談を書籍にしたものをもらっています。
それを読むと、語りたくなかったことがよくわかります。

でも語らなければいけない。
私はそう思います。
体験した当事者が、辛いだろうが語ることが大切だろうと思います。
そしてその内容がどんなものであろうが、感情的にではなく、冷静に聞いて判断していく寛容さを聞き手は持たなくてはなりません。

当事者たちがもっと素直に語りだしたら、いい方向に解決していくことはとても多いように思います。
語るべき人が語らなかったために、真珠湾攻撃も実行され、避けたかった日米開戦に至ってしまった。
語るべき人が語らなかったために、チャレンジャー号は爆破し、福島原発は悲惨な事故を起こした。

「語らないことの罪」を、私も改めて心に留めようと思います。
語るべきことを、語らないまま墓に持っていくことは、決して美徳ではない。
みんながもっと語りだせば、社会はきっといい方向に向かっていくでしょう。
ますます語らない時代に向いているなかで、改めてそう思います。

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2017/11/18

■「政府が進める「地域共生社会」ビジョンは、監視国家へ変貌する危険性を孕んでいる」

「高齢期社会保障改革を読み解く」(社会保障政策研究会編 自治体研究社)を読みました。

先日、湯島のサロンで、福祉環境は改善されている一方で、社会保障政策の劣化を感ずるという発言をしたら、福祉の現場の真っただ中にいる参加者にたしなめられました。
現場から見ると、福祉環境も福祉行政も大きく改善されているというのです。
たしかにそういわれると反論はできません。
でもどこかに違和感を強く持っています。
そういう状況の中で読んだせいか、とても共感できるメッセージの多い本でした。

本書は、安倍政権の社会保障政策を高齢者に焦点を当ててその本質を読み解くとともに、高齢期に発生する生活問題を整理したうえで、それを変えていくためには市民による改革が必要だと主張しています。
私にはとても共感できる内容です。
念のために言えば、福祉行政も大きく改善されているという現場の人の意見に異論はないのです。
どちらが正しいという問題ではなく、たぶんどちらも正しいと思います。
その上で、しかし、多面的な視点を持たないと現実や未来は見えてこないのではないかと思うのです。
私たちは、二者択一の○×で判断しがちですが、いずれも○の異論が両立することはよくあることです。
その意味で、本書はできるだけ現場の人に読んでほしい本です。
「現場の人」という言葉には、すべての高齢者も含めています。

数名の執筆者が高齢期社会保障の問題をさまざまな具体的な切り口から論じ出ていますが、本書の基本姿勢は第1章の「高齢期社会保障に潜む課題と地域共生社会の本質」(芝田英昭)で示されています。
たとえば、こんな風に現在の政策は厳しく批判されています。

安倍政権の下では復古主義的・保守主義的政策が一気呵成に実施されているが、社会保障分野においても、家族主義、コミュニティヘの依存を強める自助・自立・相互扶助を基本とした社会保障切り捨て政策が全面的に打ち出されている。 例えば、厚生労働省に置かれた「『我が事・丸ごと』地域共生社会実現本部」(2016年7月設置)が、社会保障切り捨ての先導役を務めていると言える。 しかし、実現本部は、「地域共生社会」の名の下に、地域に生起するあらゆる課題・問題を地域住民が自助・共助を基本に解決していくとしているが、この方向性は、生存権を公的責任のもと具現化した社会保障制度の基盤を揺るがす重大な誤謬を犯しかねない。

「地域共生社会」という、私も目指したビジョンさえもが、「社会保障を崩壊させ、監視国家へ変貌する危険性を孕んでいる」と見事なまでの指摘です。
私自身、「『我が事・丸ごと』地域共生社会」のビジョンを聞いた時には、共感を持ちながらも、政府がそんなことを言い出すことに違和感を持っていました。
本書を読んで、その違和感が理解できました。
芝田さんは、「国家が監視しているだけでは、国民を完全には統制できないことから、一段進んだ形態として、「住民相互の監視システムと密告」装置を構築させようとしている。それが、まさしく「現代版隣組制度」としての「地域共生社会」ではなかろうか」と書いていますが、それほどの厳しい目が必要なのだと気づかせてもらいました。
違和感は放置していてはいけないのです。

もう一つ共感したのは、「健康長寿社会の形成に資する新たな産業活動の創出及び活性化、(中略)それを通じた我が国経済の成長を図る」こととし、「健康・医療」分野を、経済成長の道具と位置づけている。人間の生命・生活の根幹をなす分野を産業化することは、商品としての健康・医療分野を購入できる者とできない者との格差を拡大させ、国民の健康破壊を推し進めることにしかならないし、健康・医療における人権思想・倫理観が欠如しかねないといわざるを得ない」という指摘です。
そしてこの問題は、第5章の「高齢者福祉「改革」と市場化・産業化」(曽我千春)へと引き継がれます。
ここでの主張は私がずっと前から思っていたことで、20年ほど前に雑誌などでも書いたこともあります。
http://cws.c.ooco.jp/siniaronnbunn1.htm
私が一番危惧しているのは、「汎市場化」の流れです。
介護保険制度は介護の社会化と言いながら、介護を市場化してしまいました。
それによって、介護環境は「改善」されたかもしれませんが、失われたものも大きいように思います。
この章は、我が意を得たりと思いながら読みました。

本書の最後は、「市民による改革の必要性」(本田宏)です。
実は本書は、執筆者のおひとりでもある本田さんにいただいたのですが、医師だった本田さんは医師を辞めてまで、社会をよくしようという活動に取り組んでいます。
本田さんは、「いま高齢期の社会保障を直撃する「社会保障費抑制と市場化・産業化」の流れを止めるためには、市民による改革が不可欠である」と書いています。
本章は読んでいて、本田さんの熱い思いが伝わってきます。
お時間がない人は、この本田さんの怒りの章だけでもぜひ読んでほしいです。
そして2020年のオリンピックなどには騙されないようにしてほしいです。
私はオリンピックに出場する選手に対してさえも、不快感を持っているほど、オリンピックは嫌いです。
この文章は、蛇足でしたね。
不快な気持ちにさせたらお許しください。
すみません。

それはともかく、本書はいろんなことを考えさせられる本です。
細かな制度論や技術論的なところも多いですが、多くの人に読んでほしい本です。
そして、本田さんのアジテーションに乗って、市民による改革にぜひ加わってほしいです。

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■民主主義の真価は、絶えず必要な改革を促すこと

先日福岡で様々な活動をしている友人が湯島に久しぶりに立ち寄ってくれました。
彼がいま興味を持っているのがスイスです。
数年前にスイスに調査に行って、関心を深めたようです。
私は、スイスにはしたたかな悪の顔としなやかな善の顔を感じています。

その友人が面白いよと言って、1冊の本を紹介してくれました。
スイス政府編の「あらゆる危険から身をまもる民間防衛」(原書房)という本です。
早速取り寄せてみました。
手に取ってすぐ思い出したのが、2年前に都民に配られた「今やろう。災害から身を守るすべてを。東京防災」です。
この本もだいぶ話題になりました。
スイスのは赤い装丁。東京は黄色でした。
交通信号で言えば、注意と止まれです。

しかし、一番の違いは、内容です。
スイスのは平和と戦争にどう対処するかです。
かなりのページを割いて、そのための国民の責務が説かれています。
たとえば、こんな文章です。

わが民主主義の真価は、絶えず必要な改革を促すことである。どのような制度も、生きものと同じように、それ自体の生命力によって変化することからのがれるわけにはいかない。すべては進化する。思想も、風俗や経済情勢と同様に進化する。だから、国民や、国民を代表する議員が、常に注意深く制度を見守ることは、どうしても必要である。この注意深く見守ることによって、制度の改革が求められてくる。それは、改革であって、めくら滅法の破壊ではない。革命は、しばしば、益よりも害となる。 しかしながら、権力が、ある個人に集中し、抑圧された人々が、その独裁者を追放するために立ちあがるほかなくなったときに、革命が必要となる。 民主主義は、何も生み出さないでじっとしていることと、破壊的に転覆することとの間に通じる、狭い、山の背のような道を、用心深くたどらねばならない。各人の義務は、この法則に従って生き生きと生きることである。公けの問題に無関心であることは、この義務に忠実でないことを意味する。

明日11月19日は、リンカーンがゲティスバーグで、「人民の、人民による、人民のための政治」のスピーチをした日です。
その11月19日、午後2時から湯島で「国民投票と究極的民主主義」をテーマに集まりをやります。
もしお時間とご関心があれば、ご参加ください。
スイスの話も出るはずです。
もしかしたら、そこから「国のかたち」の話に広がるかもしれません。
憲法問題は、いまの日本では「憲法条文問題」に矮小化されていますが、大切なのは「国のかたち」です。
そしてそれは、国民の意識の問題でもあります。

寒いですが、よかったら明日、湯島に足をお運びください。

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2017/11/16

■節子への挽歌3697:ほれぼれする女性

節子
今日はさわやかな秋日和です。
ほれぼれする女性に出会いました。
といっても、お目にかかったわけではありません。

友人から「アメリカの鏡・日本」という本が面白いと勧められました。
早速読んでみました。
お昼ごろから読みだしたのですが、面白く、午後出かける用事や約束事の資料づくりなどがあったのですが、すべてやめて読書に徹しました。
読み終えて、この著者の知性と誠実さにほれ込んでしまいました。
著者の名前はヘレン・ミアーズ。
戦後、GHQの一員として来日した女性です。
この本を出版したのが1948年。
もう故人になっているでしょう。

アメリカにはこういう女性がいたのだと感激しました。
内容を紹介しないとどうして私が惚れ込んだのかは伝わらないでしょうが、私自身、うまく説明できません。
しかしあれほどの惨事(第二次世界大戦のことです)があった後で、こんなにも事実をしっかりと見ることのできる人がいるというのは驚きです。
人間への不信感が最近強くなっているのですが、少し前までには、こうした知性を持った人がいたと思うと何かうれしくなります。
最近は、人に知性を感ずることが少なくなってしまっていて、人が知性を持っていることを忘れていました。
久しぶりに人への信頼感がもてたことがうれしいです。

しかし、読書に時間をとられてしまい、今日予定していたことができませんでした。
今日中にメールで連絡すると約束した人が3人ほどいるのですが、まあ許してもらいましょう。
久しぶりに集中して読書をしたので、これから何かをやる気が起きません。
「森の生活」でも読みながら、頭を休めましょう。
読書の疲れを取るのは、読書が一番ですから。

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2017/11/15

■節子への挽歌3696:変えていく人生と変えないままの人生

節子
福岡の玉井さんが湯島に来てくれました。
10数年ぶりです。
2時間しかなかったのですが、玉井さんはしばらくぶりだったので、来た途端に話し出し、ともかく話し続けました。
玉井さんのキャリアは書きだすときりがないのですが、そもそもは都市計画の専門家で、20年ほど前にジェーン・ジェイコブスの話題で意気投合して以来のつきあいです。
福岡在住なので滅多に会えないのですが、なぜか先月の西川さんにつづいての福岡からの来客です。

湯島の私のオフィスは30年近く変わっていません。
ですから時々とんでもなく久しぶりに来てくれる人もいます。
私は、自分の居場所は一度決めたらできるだけ変えないのが方針です。
オフィスもメールアドレスも、まったく変えていません。
電話番号も変えたくなかったのですが、電話料金を払えなくなったことがあり、変わってしまいましたが、そうでもない限りは変えません。
変えてしまうとつながりが切れてしまうからです。

特に湯島は私の人生にとってはとても重要な場所になっています。
湯島の部屋は小さいし、あんまり掃除も行き届いていませんが、それでも来てくれた人がゆっくりとしてくれて、居心地がいいと言ってくれます。
すべてを真に受けているわけではありませんが、私自身も居心地がいいので、たぶんいろんな人が、この部屋に「気」を置いていってくれているのだろうと思います。
ここには、私たちの30年の人生が積もっているのです。
30年も経過すると、椅子もかなり壊れだしていますが、なんとか使いこなしています。
カーペットや壁を改装しようとした途中で節子は病気になったため、カーペットだけは張り替えましたが、壁は結局、最初のままです。
節子の計画は途中で終わっていますが、それもまた私には思いがあるのです。
椅子はさすがに痛んできたので、買い替えようかと思ったこともありますが、経済的にもちょっと苦しいのでやめました。
本当は費用の問題ではなく、面倒くさいのが一番の理由なのですが。
節子がいたら、新しい椅子に変えてよと一言でいいのですが、いまはそういうわけにもいきません。
それにふたりで苦労して探した椅子でもあるのです。

私が節子を今もなお、自分の伴侶にしているのも、理由はほとんど同じです。
つまり自分の居場所を変えるのが面倒だからです。
まあこんな言い方をすると誤解されそうですが、変えていく人生と変えないままの人生とがあります。
いまの私にとっては、変えない人生が向いているようです。

今日も昨日のように過ごせた幸せに感謝と言っていた、節子を思い出します。

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2017/11/14

■節子への挽歌3695:男性と女性の世界

節子
今日は湯島で「ほっとスマイルプロジェクト」の集まりがありました。
主に認知症予防ゲームやラフターヨガの実践者たちの集まりです。
10人を超す参加者がありましたが、みんなとても熱心です。
私にはあまりふさわしくない集まりなのですが、いろんな経緯があって、関わっています。
みんななにか社会活動をしたいという思いを持っている人たちです。
仙台からわざわざ参加してくれている人もいます。
女性たちの元気さにはいつも圧倒されます。
節子が元気だったころは、まだこの活動にあまりコミットしていませんでした。
ですから節子はゲームを体験したことがありません。
節子がいたら参加するでしょうか。
ちょっと微妙な気もします。

今日、一人の方が私に1冊の本を持ってきてくれました。
「茶色の朝」
フランスの政治を動かしたといわれる寓話の絵本です。
帰りの電車で読みました。
とても示唆に富んでいる本です。
節子が読んだらどういう感想を持つだろうかと思いました。

湯島ではいろんな集まりがありますが、参加者が男性中心の時と女性中心の時とでは雰囲気が違います。
政治関係の場合は圧倒的の男性が多いです。
本をくださった方は、湯島の政治の集まりにも参加してくださったことがあります。
しかし、多くの場合、男性たちの理屈っぽい話になかなか割り込めません。
私自身は、生活者である女性たちの政治の話し合いをいつも聞いてみたいと思っています。
節子がいた時には、節子を通して女性の反応を時々感じていましたが、いまはそれができません。
この「茶色の朝」を材料にして、女性たちの話し合いをできればといいなと思いました。

でもまあ女性の集まりには、私自身がなかなか入っていけません。
男性と女性は、やはり別の世界に住んでいるような気がしてなりません。


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■節子への挽歌3694:朝の3時に起きる勇気

節子
最近、深夜の3時とか4時に目が覚めることが多くなりました。
そして、そのまま眠れなくなり、読書をしてしまうことも少なくありません。
昨夜も3時に目が覚め、なかなか眠れなかったの、枕元に会った「森の生活」を読むことにしました。
ところが、なんという偶然! こんな文章がありました。

私は、冬季の間、除雪機を使って、快活で、元気な仕事にたずさわる堅実な人々に心を打たれる。こういう人々は、ナポレオンもめったに考えなかったような、午前3時に起床するという勇気を持っていたばかりか、その勇気によって夜はそんなに早く就床せずに我慢しているのだ。

なんということはないことですが、午前3時に起床というところが、私と同じだったので、ついついそのまま読んでしまいました。
その先は「孤独」と章された文章でした。
ソローはそこで、「孤独」について体験的に語っています。
大自然に包まれていることを実感していたソローには「孤独」などと言うことはありえなかったのです。

最近、私もそのことを感じます。
もっとも私の場合は、「自然」ではありません。
いささか気恥ずかしいのですが、「節子」なのです。
いつもすぐそばに節子を感じられるようになった、どのくらいたつでしょうか。
それ以来、孤独感はないのです。
もちろん「さびしさ」はありますが、少なくとも「孤独」ではありません。

3時に目覚めて、読書をすることが週に1回はあります。
読書と言っても1時間弱で、その後、また眠ってしまうので、その日は寝坊をしてしまいます。
今朝も7時半過ぎに目が覚めました。

メールが届いていました。
相談が有るというのです。
運慶展に行こうか行くまいか迷っていましたが、相談があると言われれば、断るわけにはいきません。
そういえば、今日、相談に来る人は、運慶のなにかの像に似ている人です。
運慶が私のところに来てくれると考えればいいでしょう。
いや、事実そうなのかもしれません。
なにしろ突然のことですから。

さてそろそろ出かけなければいけません。

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2017/11/13

■節子への挽歌3693:節子に弔辞を語っていませんでした

節子
午後から寒くなり、雨まで降ってきました。
午前中はちょっと気力が出ていたのですが、そんなわけで午後はだらっとしてしまっていました。
私の場合、だらっとしてしまうとまさにだらっとしてしまいます。
困ったものです。

ノルウェイのテレビドラマ「ノーベル 戦火の陰謀」を観ました。
アフガニスタンの戦争に行ったノルウェイ兵士の葬儀のシーンがありました。
そこで仲間の兵士が弔辞を述べるシーンがありました。
心のこもった弔辞でした。
意味もなく涙が出ました。
そこでハッと気づきました。
そういえば、私は節子への弔辞を語ったことがなかった、と。

告別式の時に参列してくださった方に、お話をさせてもらいました。
その時はなぜか涙も出さずに、不思議なほど淡々と語ったように思います。
でもあれは、節子と一緒に語ったのであって、節子への弔辞ではありません。
有名人のお葬式では友人が弔辞を述べますが、個人の葬儀の場合は、あまり弔辞を語ることはないのかもしれません。
それに、悲しみがあれば、実際には死者への弔辞など語れるはずもない。
語れるようになるのは、たぶん数日たってからでしょう。
でも、節子は弔辞を望んでいたかもしれません。
こんなだらだらした挽歌などではなく、しっかりした弔辞を書くべきだったかもしれません。
そんなことを思いながら、だらだらとそのドラマを見ていました。

今年は秋がなかったですね、と知人がメールをくれました。
節子がいなくなってから、私の季節感は大きく変わってしまい、とりわけ節子を思い出させる「秋」はなくなっていますが、今年は、みんなにとっても秋はなかったのかもしれません。
最近は季節が少し乱れているのかもしれません。
節子がいるころは、そんなことはなかった。
そんな気がします。

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■節子への挽歌3692:「すべての知恵は朝に目覚める」

節子
久しぶりに起きてすぐ挽歌を書きだしました。
ちょっと寝坊してしまいましたが。
空は雲で覆われていますが、手賀沼の向こうの東の空は少しだけ陽の光が輝いています。
静かな朝です。

いま少しずつ読んでいるソローの「森の生活」を今朝も少し読みました。
いつもは読みだしたら2日で読み終えるのが私の読書週間ですが、今回は毎日30ページくらいずつ読むようにしています。
この読み方もまた久しぶりです。

今朝よんだところは、朝の話でした。
ソローはこう書いています。

記念すべきことが起きるのは朝、大気に包まれた朝である、と言っておこう。
ヴェーダの経典には「すべての知恵は朝に目覚める」とある。

今朝の気分にピッタリです。
この静けさには心洗われます。
少しずつですが、鳥もさえずりだしました。
初冬を感じさせる朝です。

私の特技は、目覚めてすぐに心身が動き出すことです。
目が覚めてすぐに本を読んでも頭に吸い込まれるように入ってきますし、パソコンに向かえば文章が出てきます。
節子はいつもそれに感心してくれていましたが、たぶん寝ている時にも身心は動いているでしょうから、私には違和感はありません。
昔は今以上に、睡眠中の夢と現実がつながっていました。
ですから、節子の夢を見た朝は、夢の続きを節子に話しかけたりしたものです。
いまは、夢と目覚めた時の世界は切り離されてしまっていますので、夢を思い出すことさえ難しいです。

今日は普通の人にとっては週の始まりですが、私にとってはお休みの日です。
土日は何かと用事があるので、基本的には月曜日は安息の日にしているのです。
もっともそれが守られることは少ないのですが、今日は大丈夫でしょう。

今日から朝夕2回、挽歌を書くことにしました。
生活のリズムが戻ってくれるといいのですが。

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2017/11/12

■節子への挽歌3691:他者を思いやる余裕がありませんでした

節子
再開したはずが、今日もバタバタと1日が終わってしまいました。
なにやら宿題が机の上に山積みで、そこからどうも逃げたくなるのです。
困ったものです。

昨日、私よりも若い友人がサロンに参加してくれたのですが、9月2日に奥さんを亡くされたそうです。
そういえばしばらくサロンに顔を出さないなと思っていましたが、思ってもいなかったことです。
四十九日を終えたところなので、私の体験から言えば、実感が強まっている時でしょう。
この時期の過ごし方は大切かもしれません。
注意しないとそのまま後を追いかけたくなりかねません。
だから無理をしてでも外に出たほうがいい。
彼もそのことを知っているようで、昨日もサロンに来てくれたのです。

しかし、彼から話し出さなければ、そのことに気づきませんでした。
もしかしたら、そうやって私のまわりで起こっている伴侶との別れに気づいていないことも少なくないのかもしれません。
他者の痛みをわかるということは本当に難しい。
そして、わかっても、どう対処していいかがわからない。
この10年の私の体験はなんだったのか。
自分だけが悲劇のど真ん中にいるような、そんな大きな勘違いをしていたのかもしれません。

彼と話していて、少し10年前のことを思い出しました。
あの時は世界が全くと言っていいくらい見えなくなっていました。
悲しさとか寂しさも、あまりリアルではなかった気がします。

あれから10年。
いろいろと思うことが多いです。

今日、挽歌が書けなかったのは、それとは関係ありません。
ある人が、挽歌を再開しましたね、とメールをくれました。
そうやって気にしていてくれる方がいる以上、挽歌はやはり書きつづけようと思います。

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■サロン「メディアリテラシーから読み解く世界の素顔と「陰謀論」」報告

予想を超えて、驚くことに18人のサロンになりました。
「陰謀」に興味を抱く人は多いのでしょうか。
それとも、いまの時代が「陰謀」を匂わせているのでしょうか。
もちろんメディアリテラシーに興味を持って参加された人もいますが。

「陰謀論」の広がりこそが「陰謀」であって、それも含めて「陰謀論」の奥にある事実を、メディアから読みとくことが大切だ、というのが中島さんのメッセージだったように思います。
「陰謀説」のすべてを否定したり信じたりするのではなく、自らの世界を広げていくことで、洪水のような情報を読み解くことが大切だというわけです。
陰謀論への対抗力を持ちましょう、そのためにも陰謀論と言われている話も知っておくことが大切だというのが、中島さんのお考えだと私は理解しました。

話は、バックパッカーとしてアジア各国を回ったことや仕事や趣味のことなど、中島さんの自己紹介から始まりました。
多様な世界を体験したことが、今日の話題にもつながっているわけです。
中島さんがマスコミ報道の後ろにある動きに関心を持ったのは、新聞に出ていたあるベタ記事からだったそうです。
大見出しの記事とは無縁の、そうした小さな記事にこそ、個人としての記者の良心が現れているのではないか、そして事実につながるものがあるのではないかと感じたそうです。

かつての新聞にはたくさんの小さな報道記事が載っていました。
しかし、最近の新聞は週刊誌のような内容になり、小さな事実報道記事はほとんどなくなってしまったと言ってもいいくらい少なくなりました。
私もベタ記事愛読者だったので、そういう変化には「ある意図」を感じています。
読者には、発行者の編集意図に沿って構築された世界が与えられるだけであって、読者が考察したり推測したりする余地は極めて少なくなったのです。
新聞の役割が変わったと言ってもいいでしょう。

中島さんがマスコミ報道の向こう側にある動きに興味を持ったのは、落合信彦さんのドキュメンタリー作品だそうです。
その一連のシリーズから、マスコミが提供する世界とは違う世界の存在に興味が向き、そこからさまざまな書籍を読みながら、自らの世界の筋立てを考えるようになったそうです。
そうすると、これまで体験してきたことも含めて、いろんなことのつじつまが合ってきて、世界が見えだしてきたと言います。
メディアリテラシーを高めるとは、自分の世界を広げ、自分の軸を持つことかもしれません。

「陰謀論」の話題に入る冒頭で、中島さんは、そもそも日本はアメリカの同盟国なのだろうか、と問いかけました。
すかさず、アメリカは日本の宗主国だという声が出ました。
日本は主体性を持った独立国家だと思っている人もまだ多いでしょうが、アメリカの属州的位置づけになっていることは最近公開されだしたアメリカの資料などでもかなり明確になってきています。
これは「陰謀」ではなく、単純な事実です。
しかし、そうしたことでさえ、多くの人に対して明らかになってきたのはつい最近ですし、明らかになってきても、それでいいという人が圧倒的に多いのかもしれません。
そういう状況が維持されてきているところに、ある意図が働いているのかもしれませんが、それは「陰謀」ではなく「政治」そのものと言ってもいいでしょう。

「陰謀論」的な具体的な話は、北朝鮮関係から世界金融支配体制まで、いろいろとありました。
それを紹介しだすときりがないのでやめますが、中島さんが共感しているのが、元陸上自衛官の池田整治さんの主張です。
池田さんは、世界の真実を見るポイントとして、「その人がどのグループに入っていて、お金が最終的にどこに集まるのかを見ることが大切だ」と指摘している人ですが、中島さんもその視点で考えているようです。
中島さんは、池田さんの、人々を5階層で捉える見方を紹介をしてくれました。
「ウラの支配層」「オモテの支配層」「無自覚な支援層」「被支配層」「気づいて対策する人々」。
その頂点にいるのが、いわゆる「1%の人たち」(超富裕層)なのかもしれません。
「1%の人たち」はアメリカにだけではなく、世界各国にいて、国家制度さえをも私的目的に利用しているのかもしれません。

海外で長年仕事をされてきた参加者の方は、表面的には対立している国家を動かしている人たちも、実際にはスイスで話し合いをしているということを話してくれました。
サロンでも、世界は「ウラの支配者」あるいはそうした人たちの「大きな力」で動かされているというような話が主流だった気がします。
そうした見方からすれば、たとえば金正恩もトランプも習近平も、みんな仲間ということになります。
表面的には対立しているようで、実は利益をシェアしているということになります。
そして、陰謀論的な考えでは、彼らを動かしている「ウラの支配者」がいるということになるわけです。

こうした議論から派生して、日韓関係に関わる、いささか刺激的な視点なども出されたのですが、それはまた改めてサロンを開くことにしました。
なにしろ話が大きいので、話し合いも終わることはありません。

中島さんはいくつかの書籍を紹介してくれましたが、前回のサロンで本田さんが紹介したのと同じものがありましたので、ここでも紹介しておきます。
「知ってはいけない隠された日本支配の構造」(講談社現代新書)
中島さんも本田さんもお勧めです。
今回も参加された本田さんが、もう1冊、「アメリカの鏡・日本」(角川ソフィア文庫)も紹介してくれました。

なお、中島さんが紹介してくれた池田さんもたくさん本を出されていますが、中島さんは、池田さんを囲む定期的な勉強会もやっています。
https://www.facebook.com/events/469984440045893/
参加ご希望の方は中島さんに連絡してください。

今回も話し合いの内容を報告するのは難しかったですが、マスコミ報道だけを真に受けずに、さまざまな見方にも接しながらマスコミ報道を見ると何か気づきがあるだろうということです。
それと書き忘れましたが、近現代史をもっとしっかりと学ぶことが大切だという意見もかなり出ました。

最後に私も意見を話させてもらいました。
1960年代のアメリカの対抗文化を「緑色革命」という書籍で解析してくれたチャールス・ライヒは、いまから20年ほど前に「システムという名の支配者」という書籍を書いています。
そこでは、人と人、あるいは国家と国家ではなく、システムと人の対立関係が世界を動かすという視点が出されていました。
私はそれがいまかなり明確になってきたように思います。
そうした構造を踏まえると世界はまた違った見え方がします。
国家が対立しているように見えますが、たとえば「アメリカ」といった場合、その実体は何なのか。
アメリカ政府なのかアメリカ国民なのか。
アメリカ国民と言っても、それは超富裕層の1%の人たちなのか、99%の人たちなのか。
あるいはトランプ支持者なのかアンチ・トランプの人たちなのか。
こう考えれば、対立の実体は実は見えなくなってきます。
そこが私は最大のポイントだと思っています。

しかし、システムと人間の対立と考えれば、構造は見えてきます。
金正恩もトランプも習近平も、1%の超富裕者も、システムによって選ばれたシステム運営管理者と考えられるわけです。
つまり彼らはシステムの一部であって、利害共有者なのです。
そしてシステムに対する対抗力が育たないように、人のつながりを分断していくのが彼らの役割です。
たぶんなかなか理解してもらえないと思いますが、いつかこれをテーマにサロンをさせてもらえればと思っています。
ちょっと「危険思想」のにおいがするかもしれませんね。
事実はいつも危険なにおいがするものです。困ったものですが。

ところで、今回のサロン参加者のみなさんのなかには、いまの日本にかなり絶望している人が多かったのは意外でした。
なかには“too late”という人もいましたが、私は失望はしていますが、絶望はしていません。
ですから、こうしてサロンを続けているわけです。

今回は茨城県の主婦の方が、国会の原発反対デモに行こうか湯島のサロンに行こうか迷ったうえで、湯島に来てくださいました。
諦めずにサロンをつづけていることが少し報われた気がしました。
100年後には世界はきっと豊かになっているでしょう。

参加者が多かったので、十分発言できなかった方が多かったと思いますが、お許しください。

Inbou1711


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■なんのために稼ぐのか

思うことあって、久しぶりにソローの「森の生活」を、時間の合間に少しずつ読み直しています。
最初に読んだのはもうかなり前ですが、その時はあんまり共感を覚えませんでした。
世間の評価が高かったためかもしれません。
その頃の私は、世間の評価が高い作品にはどこかで反発がありました。
今回もあまり共感を得られないまま読んでいますが、面白い気付きはあります。
たとえば、こんな記事が最初のほうに出てきます。

比較的自由なこの国においてさえ、たいていの人間は単なる無知と誤解のために、しないでもよい苦労やよけいな、取るに足りない生活の仕事に追いまくられて、その素晴らしい人生の果実を手にすることができない。

まるでいまの日本、そして私自身ことのような気がしますが、これは19世紀中ごろのアメリカです。

もっとハッとさせられるのは、次の文章です。
前に読んだ時にはまったく心に残らなかったのですが。

南部の奴隷主のもとで働くことはつらいことであるが、北部の奴隷主のもとで働くほうがさらによくない。しかし、最も悪いことは自らが奴隷の使用人となることだ。

この本が出版された10年後にアメリカでは南部に展開されていた黒人奴隷制度が廃止されます。
そして、いわば新しい北部型奴隷制がスタートしたとも言えるかもしれません。

「アメリカのデモクラシー」を書いたトクヴィルも、表現と意図はまったく違いますが、同じ事実を語っています。

その時々の状況によって、同じ本から得られる共感は違ってきます。
今朝読んだところも面白かったです。

一部の人間が物質的環境において未開人よりましな状態に置かれてきたことに正比例して、他の文明人が物質的の中には未開人以下に堕落していった人間がいるということは明らかであろう。

そしてソローはこう書いています。

ある人が私にこんなことを言っている。「どうしてお金を蓄(た)めないのかね。旅行がお好きだから、汽車に乗れば今日でもフィッチバーグ(コンコードの西にある町)に行って、その地方が見物できるでしょうに」。しかし私は賢いから汽車になど乗らない。私がすでに知っていたことは、最も迅速な旅行者というものは歩いて行く人だということだ。

そして具体的にその理由を書いています。
興味を持たれた方は、書店か図書館で、講談社学術文庫「森の生活」の77~78頁をお読みください。

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2017/11/11

■節子への挽歌3690:挽歌を再開します

節子
最近は挽歌を書くことが日課から外されてしまっています。
極度の時間破産のせいですが、挽歌を書かなくても大丈夫になったのかもしれません。
昨年までは、挽歌を書くことで自らの精神的なバランスが取れていましたが、いまはその必要がないのかもしれません。
挽歌のナンバーと、節子がいなくなってからの日数に、30もずれが生じてしまいました。

最近の時間破産の原因はいろいろとあるのですが、気力体力そして意欲の低下です。
同じことを処理するのに、たぶん最近はかつての数倍の時間がかかります。
それはもしかしたらだらだらと過ごしてきたからかもしれません。
意欲や目標がないと時間感覚が変わりますし、集中する意欲が出てきません。
周りの人には、私がいろんなことをやっていると見えているようですが、私自身のなかではただただ惰性でやっているような気もします。
生きる意味としての節子(別に節子でなくともいいのですが)がいなくなった途端に世界は一変します。
時間の意味も人生の意味も、変わります。
自らの健康に配慮しようという思いなどなくなります。
自分でもはっきりとは自覚できませんが、まったく変わってしまうのです。
人生を変えればいいだけの話ですが、私のように精神的に弱い人間には、2度の人生は送ることなどできません。

まあそんな感じで10年を過ごしてきました。
そしてようやく10年たって、挽歌を書かなくてもよくなったのかもしれません。
時間が癒すということはこういうことでしょうか。
受け入れたくはありませんが、そうかもしれません。

ところで場なんかを書き続けるかどうかですが、書きつづけることにしました。
30のずれにも追いつくつもりです。
明日から再び書きだそうと思います。
この間、書きたいこともいろいろあったのですが、数日たてばそれは忘れてしまいます。
挽歌を書きながら生きる意味を考えることができていましたが、挽歌を書かないことで生きる意味を考えることもできます。
この1か月の、挽歌なしの日々は、ちょっと私には新鮮でした。
時間破産も、時にはいいものです。

ちなみに、たぶん時間破産は乗り越えましたので、またいつものような、暇な毎日が戻ってくるでしょう。
うまくいけば、上野でやっている運慶展にも行けるかもしれません。

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2017/11/08

■「豊島にメガソーラー、自然を壊す建設反対」

Change. orgから「豊島にメガソーラー、自然を壊す建設反対」が回ってきました。
https://www.change.org/p/%E8%B1%8A%E5%B3%B6-%E3%81%A6%E3%81%97%E3%81%BE-%E7%80%AC%E6%88%B8%E5%86%85%E6%B5%B7-%E3%81%AB%E3%83%A1%E3%82%AC%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC-%E8%87%AA%E7%84%B6%E3%82%92%E5%A3%8A%E3%81%99%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E3%81%AB%E5%8F%8D%E5%AF%BE

豊島はかつて、産業廃棄物の不法投棄で問題になった瀬戸内海の島ですが、その事件に私の友人が深くかかわり、その記録を本にしています。
「豊島 産業廃棄物不法投棄事件」
http://cws.c.ooco.jp/book-kiroku.htm#tesima

最近ようやく豊島の環境は回復されたと聞いていましたが、今度はメガソーラーです。
ソーラー発電には反対はないのですが、それを大規模化するところにある不安を感じます。
先日、東海村の原発再稼働反対の集まりに参加した時に、ソーラーに関わっている人にお会いしましたが、少し話しただけですが、少し違和感を持ちました。
メガという発想をまずは捨てないといけないのではないかと思います。

湯島のサロンでいつか、メガソーラーをテーマにしたいと思っています。どなたか問題提起して下さる人はいないでしょうか。

エネルギー問題に関しても、世界は1980年代に比べると大きく後退しているような気がしてなりません。
経済や政治はもちろんことですが。

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2017/11/05

■カフェサロン「重度知的障害のある人の一人暮らしとコミュニティ」報告

風雷社中代表の中村さんのサロンは、三連休のど真ん中にもかかわらずに10人を超える集まりになりました。
最初に、中村さんたちがやっている、シェアハウス&コミュニティスペース『Transit Yard』で自立生活をする重度の知的障害のある青年げんちゃんの映像記録を見せてもらいました。
自立生活支援の活動の映像かと思っていたら、そうではありませんでした。
さりげない生活風景をただ映し出しているものです。
しかし、すっかり見入ってしまいました。
そこからさまざまなものが伝わってきて、いろいろと考えさせられました。
障害とは何か、自立とはなに、支援するとはなにか、そしてコミュニティとはなにか。
同時に、屈託のない、げんちゃんの笑顔と周りの人のすごく自然な表情や態度と、げんちゃんのお母さんのとても素直な言葉が、強く残りました。
さりげない映像の持つメッセージ性の大きさに改めて気づかされました。

中村さんたちの取り組んでいる活動やスタイルにもとても共感しました。
タイトルに中村さんが「コミュニティ」という言葉を入れた意味もよくわかりました。
実はあまりに多くのものをもらったので、消化できずに、今回も報告を書くのが遅れてしまいました。
しかし、今回ほど、自分の生き方に重ねあわせて考えたことはありません。
そうした「気づき」を、うまく言葉として書けないのが残念ですが。

Transit Yardではさまざまな生活がシェアされています。
現在はげんちゃんとフォトジャーナリストの人が住んでいて、1階(3階建ての住宅です)では今回も参加してくれた石川さんがイベントスペースを展開していて、そこではさまざまな人の集まりやイベントが行われているそうです。
げんちゃんが暮らしているTransit Yardは、施設でもグループホームでもなく、げんちゃんにとっても、またそこに関わっている人たちにとっても、コミュニティ的な存在なのです。
そして、そこにはまさにげんちゃんのコミュニティがある。
コミュニティの仲間同士での、支え合いや助け合いがある。
もちろんトラブルもあるのだろうと思います。
しかし、強い絆に呪縛されるような、拘束的なコミュニティではなく、ゆるやかな開かれたコミュニティを感じました。
アソシエーションではなく、まさに、トランジット・コミュニティ!。

映像を紹介してくれた後、中村さんはたくさんのことを話してくれました。
なぜ、げんちゃんと関わるようになったのか、Transit Yardを始めたのか。
自立支援制度に関する話も出ましたし、Transit Yardへの世間の目の話もありました。
いろいろと話し合いもありましたが、今回、私は自分のことと重ねていろいろと考えてしまったこともあり、あんまり思い出せないのです。
すみません。

でも、私が質問させてもらったことは少し覚えています。
げんちゃんのおかげで、とても人間的なコミュニティが育っているのではないかという私の感想には中村さんはあんまりうなづいてはくれませんでしたが、でも、げんちゃんはまわりの人に喜びや幸せを与えているというような話をしてくれました。
また、この15年ほど、日本の福祉行政は劣化しているのではないかという私の意見に、中村さんは全体としての障害を取り巻く社会環境はよくなってきていると教えてくれました。
現場の人がそう思うのであれば間違いありません。
そして中村さんから、マイナス面だけに目をやらずに、むしろ良くなった点を活かしていく方がいいと諭されました。
その言葉に、私は自らの姿勢を大きく反省しました。

参加者のなかには、さまざまな立場や方法で同じような活動に取り組む人たちが多かったのですが、NPO法人ぱれっとで活動している人たちがいました。
ぱれっとでは、障がいを持つ人と持たない人が一緒に暮らす家「いこっと」を運営していますが、ぱれっとの人たちの話もとても示唆に富むものでした。
http://www.npo-palette.or.jp/index.html
いつか話をしてもらいたいと思いました。

こうした実例が広がってくれば、障がいということへの意識が勝っていくだろうと思います。
なによりも、障がいを持つ人の親の意識も変わっていくかもしれません。
もちろん障がいを持つ人自身も。

今回のサロンでは、福祉の本質が語られたような気がします。
もっと多くの人に聞いてもらいたい話でした。

風雷社中では、RANSIT YARDで、毎週のように、重度知的障害者自立生活の記録 【げんちゃんの記録①〜③】の上映会&茶話会を開催しています。
案内は、下記にありますので、ぜひ一度参加してみてください。
https://www.facebook.com/events/1993776757532963/

また、案内の時にも紹介しましたが、げんちゃんに関しては、新聞でも報じられたことがあります。
https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/genchan?utm_term=.dnJjjMYxzW#.yv0JJQwlrd
これもぜひ読んでみてください。

最後に中村さんは、いま取り組んでいる「知的障害者の自立生活についての声明」の話をしてくれました。
中村さんたちが目指しているのは、知的障害のある人たちが、自分が生まれ育った地域で安心した生活をしていけるような社会ですが、それは同時に、認知症になっても安心して生活できる社会につながっていくことを中村さんは気づかせてくれました。
こう考えると、「知的障害者の自立生活」とは、すべての人に無縁ではない話です。
これも今回、私が気付かせてもらったことの一つです。

「知的障害者の自立生活についての声明」もぜひお読みください。
https://jirituseikatu.jimdo.com/%E7%9F%A5%E7%9A%84%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E8%80%85%E8%87%AA%E7%AB%8B%E7%94%9F%E6%B4%BB%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%AE%E5%A3%B0%E6%98%8E%E6%96%87/%E5%A3%B0%E6%98%8E%E6%96%87%E7%B4%A0%E6%A1%88/
この声明への関心を広げていきたいです。

いつものように偏った報告ですが、なにしろ最近のサロンは受け取る情報が濃密で大量なので、消化するのが大変です。
長い報告を読むのも大変だと思いますが、書くのもそれなりに大変なのです。
ぜひみなさん湯島のサロンで直接話し合いに参加してみてください。
私の報告など思いも及ばない気付きが得られると思います。

中村さんと石川さんはじめ、参加されたみなさんから、たくさんの宿題をもらったことに、感謝します。

Nakamura20171104


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2017/11/03

■節子への挽歌3689:生活リズムの乱れ

節子
久しぶりに正真正銘の時間破産です。
挽歌どころか時評編も書けませんし、友人から送られてきた書籍の紹介もできません。
机の上は見事にめちゃめちゃになっています。
気になっている人への電話もできません。
精神的にも余裕がなくなっているです。
そのために、挽歌は3週間以上、たまってしまいました。
それほどたまると、逆に書こうという気はなくなり、まあここで少しくらい書かずにいても、3週間が4週間になるだけだろうと奇妙に開き直ってしまうものです。
しかし、この遅れを取り戻すのはかなり大変です。
いっそ、ここで打ち切ったらとさえ思わないわけでもありませんが、それは約束に反します。
一度決めたことは守らなければいけません。

さて昨日は4つのそれなりにハードなミーティングをこなしました。
節子がいつも言っていたように、まったく違った分野の人とのミーティングです。
今日は2つですが、明日はまた3つです。
そういう状況にいると、今日が3連休の休日だなどと言うことさえ忘れてしまいます。
昨日会った人に、どうしてもう1日延ばさなかったのかと厳しく言ってしまいましたが、考えてみると今日は休日なので、延ばせなかったのです。
今朝になって気が付きました。
悪いことをしました。
忙しいということは、そういう間違いを起こすことにもつながり、恥ずべきことです。
反省しなければいけません。

時間破産の上に、最近いささか寝不足です。
夜中に目が覚めてしまうのです。
そのまままた眠ればいいのですが、最近はなぜか起きてしまいたくなります。
それで枕元に積んでいる本を読みだしてしまうわけです。
これがよくありません。
それで逆についつい寝坊してしまう。
生活リズムが乱れてしまうと、いろんな弊害が発生します。

11月に入ってしまいました。
少し生活の乱れを正さなくてはいけません。

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■我孫子を舞台になにか面白いことを始めませんか!!

11月25日、我孫子市の「市民のチカラ」祭りのイベントの一つとして、午後1時半からけやきプラザ9階の多目的ホールで、『世代を超えた「ひとのつながり」がまちをゆたかにしていく』という公開フォーラムを開催します。
案内チラシを添付します。
もしお時間があれば、ぜひご参加ください。

主催は、我孫子まちづくり会議準備委員会ですが、まだ数名の仲間が集まっているだけで、これから育てていこうとしている段階です。
このイベントはいわばそのキックオフイベントで、最後に、「我孫子を舞台に何か面白いことをはじめませんか」と呼びかけ、我孫子を舞台に活動している人たちのゆるやかなネットワークを立ち上げられればと考えています。
まだヨチヨチ歩きの段階ですが、明日の11月4日の夕方6時から、けやきプラザ10階の市民活動ステーションの会議室で、顔合わせもかねてのミーティングを開きます。
ご関心を持ってもらえるようであれば、ご参加ください。
主旨に賛同してもらえる方であれば、だれでも歓迎です。

なにしろ今はまだ「ゆる~いネットワーク組織」を意図していますので。

201711


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■企業を考えるサロン「コーオウンド・ビジネス」のご案内

今回の企業を考えるサロンのテーマに「コーオウンド・ビジネス」です。
ちょっと聞きなれない言葉かもしれませんが、「社員みんなが会社のオーナーになる」ことによって、会社を元気にしていこうということです。
言い換えれば、社員が情報共有し、プロフィットもシェアし、社員みんなの意識をオーナーシップ・カルチャーにしていくことで、会社のあり方を根本から変えていくことです。
実際に会社の株式の所有を社員にシフトしていきますが、いわゆる従業員株主制度とは違います。
社員を管理するというベクトルから、社員が会社を管理(統治)するベクトルへと、パラダイムシフトしていこうというところにポイントがあります。

といってもなかなか伝わらないと思いますが、詳しくは「コーオウンド・ビジネス」という本をぜひお読みください。
http://cws.c.ooco.jp/books.htm#170910
今回は、その本の著者の細川あつしさんに話題提供してもらうことにしました。

「これは私たちの会社だ」と社員が思っている会社ほど、強い会社はありません。
最近、そうした意識が希薄になってきているために、信じがたいような企業不祥事が起きているように思います。
もし「私たちの会社」だという意識があれば、不祥事への自浄作用が働くばかりではなく、自然とコストダウンは進むでしょうし、社員同士の支援関係も強まるはずです。

一時期、話題になった「自己組織化する組織」はまさに、個々の社員が自律的かつ全体最適解的に動く企業モデルですが、具体的な制度論まで展開できずに、理念で留まってしまっています。
従業員に「経営者意識を持って仕事に取り組め」という経営者がいますが、精神論だけでは実効性は高まりません。

そこで生まれたのが、コーオウンド発想で、米国ではすでに民間雇用の10%を担い、英国では2020年までにGDPの10%コーオウンド化を宣言するまでになってきているそうです。
しかし、日本ではまだほとんど広がっていません。
私が日本で最初に本格的なコーオウンド・ビジネス化を成功させた近藤さん(日本レーザー社長)に会ったのは、ちょうど4年前ですが、以来、そうした動きは聞いたことがありません。

そう思っていたところで、細川さんとの出会いがありました。
きっかけは、私が翻訳した「オープンブック・マネジメント」です。
考え方として両者は通ずるところがあるからです。
当時私は、オープンブック・マネジメントが広がれば、企業はみんな元気になるだろうと考えていましたが、残念ながらその本はあまり話題になりませんでした。
そもそも私が29年前に会社を辞めたことにも、この話はつながっていますので、細川さんとの出会いはとてもうれしいものでした。

細川さんたちの働きかけで、日本でも少しずつコーオウンド化の動きは出てきているようです。
そこで、今回は、細川さんに、コーオウンド・ビジネスをテーマにお話をしていただき、会社のあり方や会社を元気にする知恵を話し合っていければと思います。
ちなみに、コーオウンド・ビジネスは、ソーシャルビジネスや事業型NPOにも参考になるはずです。
さらにいえば、私たちの働き方にも通ずるところがあります。
ぜひ多くの人に、コーオウンド・ビジネスを知っていただき、日本でもコーオウンド化の動きを広げられればと思っています。

みなさんのご参加をお待ちしています。

〇日時:2017年12月9日(土曜日)午後2時~4時
〇場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
〇テーマ:「コーオウンド・ビジネス」
〇話題提供者:細川あつしさん(従業員所有事業協会代表/跡見学園女子大学教授)
〇参加費:500円
○参加申込み:qzy00757@nifty.com


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2017/11/01

■リンカーンクラブ交流会のご案内

昨年11月19日にリンカーンクラブ再開のキックオフフォーラムを開催して、1年がたちました。
この間、日本の政治状況は大きく変化してきていますが、リンカーンクラブとしてはなかなか計画通り活動が展開できずに、せっかく入会してくださったみなさんには申し訳なく思っています。

11月19日は、リンカーンがゲティスバーグで、あの有名な「人民の、人民による、人民のための政治」のスピーチをした日なので、リンカーンクラブにとっては記念すべき大切な日です。
そこで、今年も公開フォーラムの開催も検討したのですが、今年はむしろ、メンバーを中心に、下記の通り、交流会的な集まりとし、リンカーンクラブとしての理念をシェアするとともに、これからの行動計画を話し合っていくことにしました。
ただメンバーだけだとどうしても閉塞感が出てきますので、メンバー以外でもご関心のある人には公開することにしました。
もしお時間が許せば、ぜひともご参加ください。

もしご友人などでリンカーンクラブに関心を持ってもらえそうな方がいたら、ぜひともお誘いください。
リンカーンクラブについては、ホームページをご覧ください。
http://lincolnclub.net/

よろしくお願いします。

〇日時
2017年11月19日(日曜日)午後2時~5時
〇場所
リンカーンクラブ事務局
http://cws.c.ooco.jp/lcmap.pdf
〇内容
  代表の武田さんから、スイスの事例なども踏まえながら、「国民投票制度と究極的民主主義」というテーマで30分ほど話をしてもらった後、みんなで話し合いたいと思います。後半では、リンカーンクラブとしてのこれからの活動についても話し合えればと思います。
  終了後、有志で懇親会も持つ予定です。
〇参加申込先:リンカーンクラブ事務局(info@lincolnclub.net)

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■出る杭を打つ社会にはあきあきです

立憲民主党の議員たちがどうも「ターゲット」にされだしたようで、次々と「不祥事」がマスコミによって問題にされだしています。
今朝は初鹿議員が問題にされています。
こうしたことを暴き出すことで、政治はどんどん矮小化されてしまうことに大きな危惧を感じます。
もちろん今回も問題にされているような事件が瑣末な事件であるとは全く思っていませんが、その採りあげ方に大きな危惧を感ずるのです。

そこで思い出すのが、一時期、世界を覆いだした「ゼロ・トレランスの嵐」です。
はじまりはジュリアーニ時代のニューヨーク。
地下鉄の駅の落書きを消すことから安全が戻ってくるという話です。
いわゆる「割れた窓理論」には私もとても共感しますし、講演などでも話題にしたこともあります。
かつて、ささやかにではありますが、安全なまちづくりに取り組むガーディアン・エンジェルスの活動を支援したこともあります。
しかし、それらと「ゼロ・トレランスの嵐」とをつなげて考えていなかったことにある時、気づかされ、少し反省しています。

私にとって大切な価値の一つは「寛容」ですので、ゼロ・トレランス発想には大きな違和感があります。
10年前に書いたブログ記事があります。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2007/12/post_ffbe.html
久しぶりに読み直してみました。
そして忘れていたことをいろいろと思い出しました。

ロイック・ヴァカンの「貧困という監獄」という本があります。
世界はいま福祉社会から刑罰社会へと流れを変えつつあるという警告の書です。
それを思い出しました。
古い本ですが、お時間があればお読みください。
いまの世界の状況が、たぶん少し見えやすくなると思います。

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