■節子への挽歌3701:記憶を思い出すたびに、記憶が世界をつくりだします
節子
朝、日の出の前に起きるとやはり寂しさを感じます。
静かな世界の中で、なにやら自分一人だけの感じがするのです。
節子がいる時には、日の出前に起きるのは早朝の出張時だけでした。
その時には必ず節子も起きて、朝食を用意し、駅まで送ってくれました。
ですから日の出前の起床には、なにとてもあったかな記憶があるのですが、節子がいなくなってからは、ただただ寂しさだけです。
しかし、外が少しずつ明るくなってくると、不思議にいつも思い出す風景があります。
海外旅行の朝の記憶です。
私は記憶力があまり良くないため、何処での朝だったか思い出せないのですが、そしてなぜそういう風景が記憶に残っているかもわからないのですが、さらに言えばそれが事実かどうかさえ分かりませんが、ホテルの窓から外を2人で見ていた記憶です。
出発がよほど早かったのでしょう。
まあ夜明け前にホテルを出発することはよくありましたが、なぜかその風景の中に馬車が走っている音がするのです。
馬車が早朝にある都市などがあるのも不思議なので、よく考えてみるとこれもまた私の記憶に残っている創作記憶かもしれません。
人の記憶の中にある事実とは、すべて創作物かもしれなと、時々思います。
そもそも人の記憶の中には客観的事実などないでしょう。
同じ事実を体験した人たちの記憶は、それぞれの人によって微妙に違うでしょう。
人の中にある記憶はすべて主観的なものです。
海外のホテルでの朝の馬車の記憶も、どこかで私がつくったものかもしれません。
しかし、もし今節子がいたら、何処までが私の創作かは確かめられるのですが、それができません。
つまり、私の過去は、そうやって消えて行ってしまうわけです。
時間は過去から未来に向けて流れているわけではありません。
過去から未来のすべての時間が、畳み込まれるように一体化しているはずです。
ある人は、そこには「彼岸」の時間までもが畳み込まれていると言っていますが、とても納得できます。
節子がいなくなったことで、私の過去も現在も未来も、そして彼岸も変わってしまったはずです。
夜明け前の静寂さは、人を哲学的にしてくれます。
そろそろ日の出です。
鳥がさえずりだしました。
自動車の音も聞えだしました。
馬車の記憶は、もしかしたらトルコだったかもしれません。
馬車はホテルに向かってやってきた。
記憶を思い出すたびに、記憶が世界をつくりだします。
節子の記憶もこうやって、創作されてきているのでしょう。
私が生きているということは、節子が生きているということなのかもしれません。
いや、死んでしまったのはどちらでしょうか。
そろそろ現世に戻りましょう。
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