■節子への挽歌3704:愛されることよりも愛することの方がいい
節子
昨日、節子も知っているTさんと長話をしました。
彼がしみじみと「愛されることよりも愛することの方がいい」と言いました。
まあ長話のテーマは、そんな話ではなかったのですが、その合間に彼が呟いたのです。
数日前に電話でも同じことをききました。
Tさんは今、ある人に愛される一方で、別に愛する人がいるのです。
挽歌で書いたことがありますが、「愛」とは愛されることではなく愛することだと、私も思っています。
愛することが、愛されることで報われないとしても、愛が消えることはないでしょう。
それにそもそも、愛されるとは他人事の話、自分の外部の話であって、その事実を確認しようもありません。
「愛する」という時の「愛」と「愛される」という時の「愛」とは、まったく別の者だと思います。
今朝、少し早起きして、ずっと気になっていた森岡正博さんの「無痛文明論」を読みだしました。
まだ50頁ほどしか読んでいませんが、そこに「無痛文明における愛の条件」という章がありました。
昨日のTさんの話を急に思い出したのです。
最近なぜか思い立って古い本を読むと、そこに身の回りで体験したり聞いたりした話につながることが出てくることが多いのです。
そこに、見えない計らいを感じてしまいます。
改めて、「愛」について考えろと言われているような気がしました。
森岡さんの本はまだ途中ですが、今朝読んだところでは、愛の条件とあるように、私の感覚には合いませんが、愛とは何かを改めて思い出させてくれました。
私は、愛とは自らを委ねることだと思っています。
神にすべてを捧げる、ようにです。
ですから、神がいなくなった時、もはや生きるすべがなくなってしまう。
私はまさにその体験をしました。
しかし、それを超えれば、いなくなったはずの神が復活する。
まさに「キリストの復活」です。
そして今は、すべての人は「愛によって生きている」と確信しています。
ただその神が見えていないことがある。
愛する人が現世にいようがいまいが、あるいは愛する対象が人間であろうがあるまいが、「愛する」ということはできるのです。
愛する存在があれば、人は強くなれます。
しかし最近の私はあんまり強くありません。
愛するエネルギーが弱まっているのかもしれません。
最近考えてもいなかった「愛」について、少し考えるのもいいかもしれません。
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