■語らせないことの罪
「語らないことの罪」があれば、「語らせないことの罪」もあるのではないか。
ある人から、そう言われました。
私は基本的には、人間は一人では生きていない存在だと思っています。
ですから犯罪を起こした「個人」に対しても、寛容さが大切ではないかと思っています。
犯罪行為は、よほどのことがない限り、だれも起こしたくはないはずでしょう。
ですから、語りたくても語れない状況に多くの人が追いやられている最近の状況に危惧の念を持っているはずだ。
そうならば、「語らないこと」を問題にするのではなく、「語らせない社会」こそを問題にするべきではないかというわけです。
たしかにそうなのです。
もう5年近く前になりますが、友人の楠秀樹さんが友人たちと本を出版しました。
「〈社会のセキュリティ〉は何を守るのか」という本です。
その本の副題は「消失する社会/個人」です。
その序論にこう書かれています。
「個人」が理性的で自由な主体である限りで,すなわち,ともに議論し,決断し,共感し,相互批判し,関係性を確認して信頼し合う限り,連帯を結ぶことによって成り立つのが「社会」である。 したがって,諸個人が議論せず,決断を奪われ,共感せず,互いを率直に批判せず,ただうやむやに同調し,自分たちの関係性を顧みず,ダイナミズム(力強さや躍動感)を失い,互いを信頼しない事態に陥る時,すなわち理性を使用せず,自発的に行動する自由を失うとき,そこに連帯としての社会はない。
楠さんは自分の担当した章で、「個人」を解消する時、「社会」も消失すると書いています。
この視点に共感します。
私もまた、最近の日本には、個人も社会もなくなってきていると感じているのです。
昨日、某大学の教授と雑談をしていた中で、その方がいまや「関係性の時代」になったが、それは同時に主体性ある個人がいなければ、成り立たないと言われました。
私は、イヴァン・イリイチのコンヴィヴィアリティの考え、つまり自立共生を基本として生きてきました。
そして、関係や関係を生み出す場を大事にしてきています。
ですから楠さんたちが言うように、社会/個人の消失に大きな危惧の念を持っていますが、その一方で関係性論議の中で、大きな流れが反転しそうな気配も感じています。
なにか難しいことを書いたかもしれませんが、そういうわけで、「語らない個人」こそが「語らせない社会」をつくりだし、「語らないこと」を正当化しているということを、「語らないことの罪」で言いたかったのです。
ただ中途半端な書き方をしたので、誤解を与えたかもしれません。
正直に言えば、最近、時評編のブログを書く気力が萎えているのです。
困ったものですが。
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