■節子への挽歌3693:節子に弔辞を語っていませんでした
節子
午後から寒くなり、雨まで降ってきました。
午前中はちょっと気力が出ていたのですが、そんなわけで午後はだらっとしてしまっていました。
私の場合、だらっとしてしまうとまさにだらっとしてしまいます。
困ったものです。
ノルウェイのテレビドラマ「ノーベル 戦火の陰謀」を観ました。
アフガニスタンの戦争に行ったノルウェイ兵士の葬儀のシーンがありました。
そこで仲間の兵士が弔辞を述べるシーンがありました。
心のこもった弔辞でした。
意味もなく涙が出ました。
そこでハッと気づきました。
そういえば、私は節子への弔辞を語ったことがなかった、と。
告別式の時に参列してくださった方に、お話をさせてもらいました。
その時はなぜか涙も出さずに、不思議なほど淡々と語ったように思います。
でもあれは、節子と一緒に語ったのであって、節子への弔辞ではありません。
有名人のお葬式では友人が弔辞を述べますが、個人の葬儀の場合は、あまり弔辞を語ることはないのかもしれません。
それに、悲しみがあれば、実際には死者への弔辞など語れるはずもない。
語れるようになるのは、たぶん数日たってからでしょう。
でも、節子は弔辞を望んでいたかもしれません。
こんなだらだらした挽歌などではなく、しっかりした弔辞を書くべきだったかもしれません。
そんなことを思いながら、だらだらとそのドラマを見ていました。
今年は秋がなかったですね、と知人がメールをくれました。
節子がいなくなってから、私の季節感は大きく変わってしまい、とりわけ節子を思い出させる「秋」はなくなっていますが、今年は、みんなにとっても秋はなかったのかもしれません。
最近は季節が少し乱れているのかもしれません。
節子がいるころは、そんなことはなかった。
そんな気がします。
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