■節子への挽歌3690:挽歌を再開します
節子
最近は挽歌を書くことが日課から外されてしまっています。
極度の時間破産のせいですが、挽歌を書かなくても大丈夫になったのかもしれません。
昨年までは、挽歌を書くことで自らの精神的なバランスが取れていましたが、いまはその必要がないのかもしれません。
挽歌のナンバーと、節子がいなくなってからの日数に、30もずれが生じてしまいました。
最近の時間破産の原因はいろいろとあるのですが、気力体力そして意欲の低下です。
同じことを処理するのに、たぶん最近はかつての数倍の時間がかかります。
それはもしかしたらだらだらと過ごしてきたからかもしれません。
意欲や目標がないと時間感覚が変わりますし、集中する意欲が出てきません。
周りの人には、私がいろんなことをやっていると見えているようですが、私自身のなかではただただ惰性でやっているような気もします。
生きる意味としての節子(別に節子でなくともいいのですが)がいなくなった途端に世界は一変します。
時間の意味も人生の意味も、変わります。
自らの健康に配慮しようという思いなどなくなります。
自分でもはっきりとは自覚できませんが、まったく変わってしまうのです。
人生を変えればいいだけの話ですが、私のように精神的に弱い人間には、2度の人生は送ることなどできません。
まあそんな感じで10年を過ごしてきました。
そしてようやく10年たって、挽歌を書かなくてもよくなったのかもしれません。
時間が癒すということはこういうことでしょうか。
受け入れたくはありませんが、そうかもしれません。
ところで場なんかを書き続けるかどうかですが、書きつづけることにしました。
30のずれにも追いつくつもりです。
明日から再び書きだそうと思います。
この間、書きたいこともいろいろあったのですが、数日たてばそれは忘れてしまいます。
挽歌を書きながら生きる意味を考えることができていましたが、挽歌を書かないことで生きる意味を考えることもできます。
この1か月の、挽歌なしの日々は、ちょっと私には新鮮でした。
時間破産も、時にはいいものです。
ちなみに、たぶん時間破産は乗り越えましたので、またいつものような、暇な毎日が戻ってくるでしょう。
うまくいけば、上野でやっている運慶展にも行けるかもしれません。
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