■節子への挽歌3718:生きていることへの感謝
節子
今日も寒い朝です。
陽光のおかげで外は暖かそうな感じがしますが、温度は低く、挽歌を書いている私の仕事場は凍えるような寒さです。
それで書きだすのが遅くなりました。
一昨日、宮司の弟が、宮司を殺害し自殺するという事件が起きました。
いずれも50歳代。
こういう事件を聞くたびに、どうして人は人を殺せるのだろうと不思議に思います。
もしかしたら、殺害者はほんとは生きていなかったのではないかとさえ思います。
もし自らが生きているという実感をもっていれば、人を殺めることも自らの命を絶つことも、できないのではないか。
そう思います。
おそらく、殺害に追い込まれた人は、追い込まれた時点で、たぶん生きることを放棄してしまったのでしょう。
殺人事件とは、死者が生者を自らの世界に引き込む事件かもしれません。
そう考えなければ、私には殺人ということが理解できません。
ちなみに、戦争は生者たちの活動ではなくシステムに取り込まれた死者のゲームでしかありません。
いずれにしろ、あまりにも「安易」に生きられる状況の中で、私たちは「生きる意志」を鈍化させているのかもしれません。
その一方で、交通事故死の報道に接すると、人のいのちは実にはかないものだと気づきます。
一瞬にして、いのちが断ち切られる。
そういう死が、日本だけでも毎日10人以上起こっているということは、これもまた驚くべきことです。
システムのバグとしか思えません。
考えてみれば、私がいま生きていることは、幸運に恵まれた結果なのでしょう。
人を殺めることもなく、自らを殺めることもなく、意図せぬ死にも遭うことなく、いまも元気でいる。
そのことに感謝しなければいけません。
今日は元気が戻ってくるといいのですが。
湯島でまた10人を超える人たちに会いますから、元気を装っているうちに元気になるといいのですが。
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