■節子への挽歌3721:「生きる生」と「死までの生」
節子
今日もまた寒い日です。
今日は思い切り寝坊をしてしまいました。
目が覚めたら7時半。
最近どうも挽歌が書けません。
ということは、私自身があまり生きていないということかもしれません。
もししっかりと生きていたら、書くことが自然と出てくるはずです。
先日のサロンで、ある人から、やはり人生には、めくるめくような、息をのむような、そんな感動が大切だと言われました。
エラン・ビタール。
生命の躍動。
時には法を犯してまでの逸脱は、生きることの醍醐味です。
最近、私にはそれがありません。
ただただ平板な生命を生きながらえている。
だから挽歌も書けなくなってきているのでしょう。
生命が枯渇しているのかもしれません。
今朝も、テレビでタレントの不倫問題が取り上げられていましたが、こうした風潮は理解できません。
そもそも「不倫」などと言う捉え方は、生きていない人たちの発想です。
それに「不倫」と騒がれた当事者が、謝罪するなどと言うのは、実に情けない風景です。
そこには、エラン・ビタールなど微塵もなく、死臭さえします。
堂々と愛を語ればいい。
それこそが誠実な生き方です。
語れない愛は、愛ではありません。
愛のないところに、「不倫」などあろうはずもない。
昨日、テレビで「あなたは何が欲しいですか」というインタビュー風景が出ていました。
たまたま私が見た時には、80代の女性が、「愛が欲しい」と応えていました。
80代とは思えない雰囲気の女性でした。
生命の躍動に従って、生きている証かもしれません。
彼女には、たぶん「不倫感覚」はないでしょう。
法や規範に従って、自らを生きていない人が多いのが現実です。
しかし、そんな人生には「輝き」はありません。
社会の家畜としての安心はあるかもしれませんが、それは「生きる生」ではなく「死までの生」でしかない。
挽歌が書きつづけられたのは、もしかしたら、節子との生の躍動の余波だったのかもしれません。
その躍動感が枯渇してきてしまったのだとしたら、それこそ「死までの生」になってしまいかねません。
それではこの場なんかが書きつづけられなくなってしまう。
さてさて、困ったものです。
エラン・ビタール。
暇で暇で仕方がない生き方から、引きだしてくれることはないでしょうか。
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