■節子への挽歌3714:「お前は強いな」
節子
昨日は、友人の奥さんからの伝言を受けて、孫のじいちゃん役をやりました。
それも近くの子供向けのお店に行って、クリスマスプレゼントを選ぶことまでやりました。
私はまったく不得手な話ですが、プレゼントは決まりました。
全身でブロックという、大きなブロック玩具です。
孫の「にこ」は、いま1歳半ですが、その笑顔を見ていると、人間はみんなほんとはこういう笑顔なのだなあといつも思います。
どうしてみんな忘れてしまうのでしょうか。
孫との付き合いに疲れたわけではないのですが、昨夜も今朝も挽歌を書き忘れました。
なかなか習慣化できません。
なんとなく最近は精神的な安定感を取り戻せないのです。
原因はいろいろありますが、人はみんな苦労しながら生きているのだなと思うことが多すぎます。
子どもの頃の笑顔で過ごしたいのに過ごせない。
大学の時の同窓生に電話しました。
社会的にとてもしっかりした活動をしてきた友人です。
私が尊敬する人のひとりです。
彼に私がある問題に取り組むことへのアドバイスを先日メールで頼んでいたのです。
電話に出た彼の声は、辛そうでした。
電話口から伝わってきました。
気になっていたが、どう返事しようか悩んでいた、というのです。
私が伝えた「問題」は、彼も同じように認識していました。
彼は、その改革のために長年取り組んできているのですから、当然です。
問題の意味を、私よりも深く知っています。
しかし、同時に、その難しさもよく知っている。
そしてたぶん無力感も持っている。
そんな感じのやり取りをしました。
彼は協力するとなったら、中途半端には成れないのでしょう。
自分だけではいかんともできない状況もあるようです。
無理押しをするのはやめました。
でも気が変わったらアドバイしてほしいと伝えました。
電話の最後に彼がこうつぶやきました。
「お前は強いな」
2回繰り返しました。
孫はまだ「いのち」を育てているところですから、危ういところがあります。
しかし、育つべき「いのちの強さ」がたぶんその笑顔に出ているのでしょう。
笑こそが「いのち」の強さの核かもしれません。
でも大人になって、社会の一員になると、笑ってばかりもいられない。
むしろ笑顔は失われていく。
親鸞は「悲泣せよ」と言っていると、五木寛之がどこかで書いていました。
悲泣するよりも、笑顔を取り戻したい。
この頃、強くそう思います。
私は強いどころか、最近は、悲泣さえできないほど弱くなっています。
それが自分でもよくわかります。
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