■節子への挽歌3722:「幸せな奥様」
節子
先日、ある集まりで会った女性から、こんなメールが来ました。
佐藤さんの奥様へのラブレターのようなブログも少しだけ拝見しました。
胸が詰まるような思いがしました。
幸せな奥様だなとも思いました。
時々、アンケート調査などで、「既婚」「未婚」という欄があります。
私は節子がいなくなってからもずっと「既婚」と書いてきました。
しかし、ある時、死別した場合は「未婚」にチェックしてくださいと書かれていることに気づきました。
たしかに市場調査の場合は、単身か夫婦かで区別する方が合理的なのでしょう。
いささか複雑な気持ちになったことを覚えていますが、いまも私は「既婚」に〇を付けています。
今回もらったメールでは、「幸せな奥様だな」と書かれています。
この人は、節子をいまなお「奥様」と認めてくれているわけです。
忘れられずにいることは「幸せ」なのかどうか。
「忘れられない人」という場合、その「られない」は受動と可能のふたつの意味があります。
そのいずれかで、主体が変わってきます。
私は、一人称的な生き方が大事だと思っていますので、受動的な「(だれかに)忘れられない」よりも、「(自らが)忘れられない」に価値を感じます。
つまり、私に忘れられずにいる節子よりも、節子を忘れずにいる私のほうが、「幸せ」だと思っています。
人はさまざまな人と遭います。
私にとっては、たとえわずかな時間であっても、人生において遭った人は誰でもが「大切な人」ですから、忘れないようにしています。
そして、実はすべての人が、「忘れられない人」を持っているはずです。
ということは、だれもがたぶん「忘れられずに誰かの記憶世界に生きている」ということです。
でも多くの人は、そのことを忘れてしまっている。
それで「孤独」とか「孤立」とか感じてしまう。
誰かの記憶に必ず自分が生きていることに気づけば、人はもっと豊かに生きられるでしょう。
そして、そのことに気づけば、できるだけ「良いかたち」で記憶を残しておきたいと思うでしょう。
そうなれば、社会はとても住みやすくなるはずです。
40年ほど一緒に暮らした節子のことは、忘れようにも忘れられないのは当然ことでしかありません。
しかし、この挽歌を書きつづけていることで、人は必ず誰かの記憶に残っていて、忘れられずに生きていることに改めて気づかせてもらっています。
同時に、誰かを忘れずに思い出せることの「幸せ」にも気づかされています。
誰もが誰かに忘れられずにいる。
みんなとても「幸せ」なのです。
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