■節子への挽歌3716:歳をとるにつれて自分がよく見えてくる
節子
Nさんからまた冬の林檎が届きました。
お礼の電話をするのがどうも気が重いです。
明日に延ばしてしまいました。
Nさんは、今もまだ記憶が完全に戻ってきてはいないようです。
夫としては、ご苦労も多いでしょう。
Nさんは節子が尊敬していた友人の一人です。
私も何回かお会いしていますし、節子が逝ってしまった後も何回かわが家にも来てくれています。
ご主人にもお会いしていますが、それはもう善良そのものといった方です。
その後、Nさんは階段から落ちてしまい、それが原因で記憶を喪失してしまった。
そして認知症を発症。
あの「しっかり者」の野路さんが、と思うと複雑な気持ちです。
しかし、しっかり者であるが故の大変さもあるのかもしれません。
長年連れ合った伴侶としては、どんな感じでしょうか。
節子がもし元気だったら、たぶん少しは役に立てたでしょう。
4人仲間の、あとのおふたりは岡山と福岡ですから、そう簡単には横浜には行けません。
まあ彼岸に行ってしまった節子よりは、近いかもしれませんが。
いずれにしろみんなもうそれなりにお歳ですし、それぞれに問題も抱えているようです。
伴侶がどういう状況になろうと、そこに居たほうがいいのかどうか。
それは一概には判断できませんが、居なくなってしまった者の立場としては、うらやましいことです。
しかし、当事者にとってはそれはそれでまた、いろいろと大変なのでしょう。
幸か不幸か、節子は62歳で歳をとるのをやめました。
もしかしたらそのおかげで、私も歳をとるのを忘れているのかもしれません。
そしてある時に、浦島太郎のように、一気に老化に気づいて人生を終えるのかもしれません。
伴侶がいないと、どうも自分の位置がわからない。
これはたぶん、なってみないとわからないことでしょう。
そして先に逝ってしまった伴侶を、自分にとっての理想の姿にどんどん編集してしまい、それに伴い自らをもまた編集してしまいがちです。
ところが時々、そのことに気づいて、自らの愚行を恥じることもしばしばです。
もし節子が元気だったら、いまのように良好な夫婦関係を続けていられたかどうか。
そんなことを時に考えることもあります。
幸せな老夫婦になっている自信はありますが、どうも私は自分で思っているほど、性格がいいわけではないようです。
老化に伴い、悪い性格が強まる恐れもないわけではない。
時々、娘からも言われますが、自分で思っている以上に、私にはどうも常識も良識もないようです。
その上、自分勝手さも、これまた思っていた以上です。
歳をとるにつれて、自分がよく見えてきます。
あまりうれしいことではないのですが。
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