■節子への挽歌3723:無言で問いかけると無言で答が戻ってくる
節子
塩野七生さんの「ギリシア人の物語Ⅲ」が出版され、一昨日届いたので、それを読んでいたため挽歌を書く時間が全くありませんでした。
このシリーズは、手元に届いて3日以内に読了するのが私のルールなのですが、この3日間、いろいろと用事があったため、時間の合間を読書に向けたためです。
今回が塩野さんの最後の作品になるというので、これまでのルールを守りたかったという、それだけの理由でしたが、最後の100頁ほどは特に面白かったので、やるべきことよりも読書を優先してしまいました。
読了後、感じたことを時評編のほうに書きましたが、そこには書いていないですが、人を愛するということの素晴らしさもまた、感じさせてもらいました。
節子とのことを、思い出す場面も少なくありませんでした。
アレキサンダーが愛したのは、幼なじみのヘーファイスティオンだと言われていますが、ヘーファイスティオンが亡くなった後のアレキサンダーの行動に関しては、とても共感できるものがありました。
その一部をちょっと長いですが、そのまま引用します。
若き王はまだ、ヘーファイスティオンがいないことに、慣れることができないでいたのだった。以前ならば、視線を向けただけで、眼で答えてくれる人がいた。言葉を交わさないでも、理解し合える人がいた。あって当然の存在が、今では無いのである。
アレクサンドロスには子供の頃から、少しだけ頭を左にかしげる癖があったが、その彼が視線を向ける方向には、常にヘーファイスティオンがいた。そして友は、無言で問いかけるアレクサンドロスに、無言で答えてくれていたのだった。
あまりにも長きにわたってそばにいるのが当り前になっていたので、アレクサンドロスもつい、頭をかしげ視線を向けてしまう。だがそれが、もはやむなしい行為であることを、視線を向けるたびに悟らされる。
無言で問いかけると無言で答が戻ってくる。
伴侶とは、そういう存在なのだと思います。
そういう存在がいるかいないかで、生き方は全く変わってきてしまう。
アレキサンダーが32歳で死んだのは、やはりそれに耐えられなかったのかもしれません。
彼はあまりに深く愛しすぎたのでしょう。
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