« ■節子への挽歌3708:朝風呂 | トップページ | ■節子への挽歌3710:人生はいろいろ »

2017/12/02

■節子への挽歌3709:死へのおそれが理解できません

節子
雲のない空からまぶしいほどの陽光が射しています。
おだやかな日です。
挽歌をもう一つ書きます。

「無痛文明論」の森岡さんとやはり起点が違うことがわかりました。
森岡さんの論の起点には「死への恐怖」があるようですが、私にはそれがないのです。
小学生のころ、一度、死への恐怖を感じた記憶はあります。
しかしそれも自分の死ではなく、両親が死んだらどうなるのかという不安でしかありませんでした。
それは「死への恐怖」ではなく、むしろ「生への恐怖」というべきでしょう。

よく若いころにはだれもが自殺を考えたことがあるなどと言われますが、私は自殺など一度も考えたことはありません。
あまりにもぼんやりと生きてきたとしか言えませんが。

昨日、胃がんの手術をした友人と話していて、彼がいろいろと身辺整理をしなくてはといったので、死へのおそれはあるのか、とぶしつけな質問をしたら、そんなものはないと即答されました。
そういう会話の後で、森岡さんの死へのおそれの文章を読むと、やはり大きな違和感を覚えてしまいます。
しかし、最後のほうでの彼の論の展開に、華厳経のインドラの綱(私は常々それをインドラネットと呼んでいますが)の世界、つまりはホロニックな一即多・多即一の世界観を感じました。
しかもオートポイエシスな、つまり自己産出的な、生きている世界です。
生きている世界に生きるものは、世界とのつながりの中で、個の死は生に回収されます。
死を恐れることなどありません。
死は悲しみ嘆くことはあっても、恐れることはありません。
生の一部なのですから。

あたたかな陽ざしの中にいると、眠くなります。
お昼頃やってきた孫は昼寝の時間です。
私もちょっと昼寝でもしようかと思います。
とてもおだやかな、ゆったりした時間。
久しぶりに、陽ざしの中でまどろむ幸せに浸りましょう。
もしかしたら、死の世界はこんな世界かもしれません。
これは私(たち)が望んでいて、体験することができなかった時間です。

今日は思い切り休んで、明日からまた日常に戻ります。

|

« ■節子への挽歌3708:朝風呂 | トップページ | ■節子への挽歌3710:人生はいろいろ »

妻への挽歌18」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/30899/66112548

この記事へのトラックバック一覧です: ■節子への挽歌3709:死へのおそれが理解できません:

« ■節子への挽歌3708:朝風呂 | トップページ | ■節子への挽歌3710:人生はいろいろ »