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2018/01/05

■節子への挽歌3740:「老老介護」


節子最近、老老介護という言葉を私のまわりでもよく聞くようになりました。
年賀状でも、その言葉をいくつか見かけました。
節子もよく知っている人も、伴侶が病気になって、老老介護の毎日だと書いてきました。
親の介護の「老老介護」もありますが、私自身は「老老介護」という言葉には違和感があります。
体験がないからかもしれませんし、これからも体験できないからかもしれません。

昨日の湯島のサロンで、参加者に「老後の心配はありますか?」と質問しました。
ひとりが明確に「ありません」と応えてくれましたが、他の人はすぐの反応はありませんでした。
あまり普段は考えたこともないのでしょう。
私は、すでに「老後」を生きていますが、さらなる老後の心配はまったくと言っていいほどありません。
というよりも、そもそも私には「老後」という概念さえありません。
子どもの頃も含めて、私は「今ここ」を生きているだけですから。

「介護」ということも私にはあまり実感が持てない言葉です。
私自身を振り返れば、常にだれかの世話になり、だれかの世話をして生きています。
それを介護と言えば介護ですが、それが特別のことでもありません。
両親や節子の看病はしましたが、「介護」をしたという感覚や思いはありません。
介護という言葉が、いつごろから使われ出したのかはしりませんが、どうも違和感のある言葉です。
家族を基本にした社会観が個人を基本にした社会観に変わりだしてからでしょうか。
私の場合は、いまだに「家族を基本とした社会観」の中で生きていますので、「介護」という概念は生活用語ではなく、ビジネス用語でしかないのです。

「老老介護」という言葉を使っている人は、そんなに深い思いで使ってはいないでしょうが、言葉が生き方を変えていくこともあるので、ちょっと気になっています。

昨日のサロンでは、子どもたちには迷惑をかけたくないという人もいました。
それもちょっとさびしい気がします。
私はいまも、これからも、子どもたちに迷惑をかけながら生きていくつもりなのです。
迷惑をかけるのは、子どもたちだけに限りません。
みんなに迷惑をかけながら生きていくつもりです。
そもそも、生きるということはそういうことだと思っているからです。

とまあ、そうではあるのですが、
「老老介護」の中で生きている人たちは、たぶん「幸せ」なのではないかとも思います。
「老老介護」したくてもできない人と、できる人と、どちらが「幸せ」かはわかりません。
正直に言えば、伴侶との「老老介護」の時間を持てなかったものとしては、ちょっぴりうらやましい気もするのです。

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