■価格が価値を決める時代
昨日、テレビで「芸能人格付けチェック」を見ました。
テレビで活躍している人たちが、ワインや料理は楽器を品定めするのですが、たとえば、100万円のワインと5000円のワインを目隠しで飲んで、どちらが100万円のワインかを当てるのです。
なかにはフカヒレを使った料理とハルサメを使った料理を見分けるというのもあります。
それがけっこう、当たらないのです。
意外な人がとんでもない評価をしてしまうことが多いのです。
これを見ていると、別に高級な食材などにこだわることはないと思ってしまいます。
ダニエル・ブアステインが、昔、「売れっ子とは、有名であることで有名な人間である」と定義したそうですが、それを思い出させます。
ピカソのひまわりは、ピカソが描いたからこそ、感動できるのだ、というわけです。
かくして価格が価値を決める時代になってしまった。
価格がわからないと、評価できなくなってしまったというわけです。
要は、みんな価格がなければ区別できないようになってきているのです。
生活者というよりも消費者として、しつけられてきているというわけです。
そう考えると、価値ということがわからなくなってきます。
「価値」は「価格」では決まるわけではなく、本来は「価格」は「価値」で決まるはずです。
そもそも1億円の楽器と10万円の楽器とどちらがいい音色を出すかも難しい問題です。
しかし改めて考えてみると、そもそも「価値」とは何でしょうか。
今回の番組では、100グラム17,500円のステーキと100グラム 680円のスーパーの肉を使ったステーキとを比べるゲームもありましたが、外した人は多かったです。
しかし、17,500円のステーキよりも680円のステーキのほうがおいしいという人もいるでしょう。
そういう人を、味覚音痴だということはできません。
味覚にしろ感動にしろ、人によって違うでしょうし、そもそも価値とは極めて主観的なもののはずです。
多様な価値を基準にしていたら、なかなかコミュニケーションはなりたないかもしれませんが、そもそも多様な価値観がなければ、コミュニケーションっていったい何なのか。
考えていくとだんだん訳が分からなくなってきます。
ところで、ミュージシャンのGACKTは、外したことがないのです。
味覚だけではありません。
たとえば、高級の楽器を使っての演奏と入門者用の普通の楽器を使っての演奏を聴いて、確実に当てるのです。
その判断の理由を聞くと、私もなぜか納得したくなってしまうのです。
その結果、私は今はすっかりGACKTのファンです。
でもその一方で、GACKTのようにいろんな違いがわかるようにはなりたくはありません。
私の味覚は、「おいしい」と「まずい」と「また味わいたい」の3種類しかないほど鈍感ですが、それでも不満はありません。
1秒以下の記録を競うスポーツも、私にとってはばかげたことですが、どうも時代はますますそういう方向に向かっているようです。
みんな機械になりたがっている。
これはもしかしたら、「不死へのあこがれ」にもつながっているのでしょうか。
死ぬことがなくなったら、人間は人間でなくなるような気がしているのです。
GACKTほどにはとてもなれませんが、与えられた価格ではなく、自らの感覚で価値を判断する生き方をこれからも心がけていきたいと思っています。
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