■節子への挽歌3762:孫の目線の先
節子
節子にはとても悪い気がするのですが、孫が時々、わが家に来ます。
週に半分くらいは来ているかもしれません。
名前は「にこ」と言います。
私がしたのと同じように、娘がひらがなの名前にしたのです。
にこが、わが家にやってきて最初にやるのは、節子への「ちん」です。
娘がそうしたのですが、やってくると、まずは節子の位牌に向かって、鐘を鳴らし合掌します。
まだお線香はあげられませんが、いつかあげるようになるでしょう。
次にやるのが、私との握手です。
ところがです。
握手をする時に、にこはあらぬ方を見るのです。
握手の時だけではありません。
時々、目線が宙を浮いているのです。
もしかしたら、私には見えないものを見ているのかもしれないという感じです。
いや感じというよりも、私にはそうとしか考えられません。
もしかしたら、私と握手しながら、節子を見ているのかもしれません。
しかし、私がその目線の先をいくら見ても、そこには何もありません。
乳幼児には、私たち成人には見えない世界が見えていることは、良く報告されていることです。
どんな世界を見ているのか、とても興味がありますが、残念ながらまだ会話はできません。
会話ができるようになるまで、忘れないでいてくれるといいのですが。
今日も、にこはやってくるはずです。
私も会いたくなので、会えるはずです。
今日もまた、にこの目線の先に目を凝らしたいと思いますが、そうした「意識」が働くと、たぶん見えるものも見えなくなるのでしょう。
困ったものです。
| 固定リンク
「妻への挽歌18」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌4500:東尋坊からのお餅(2019.12.28)
- ■節子への挽歌4499:歯医者さんと節子(2019.12.27)
- ■節子への挽歌4498:年末のお接待(2019.12.26)
- ■節子への挽歌4496:年末の相談つづき(2019.12.24)
コメント