■節子への挽歌3736:同行二人
節子
日の出前の朝焼けがとてもきれいです。
今朝もきれいな日の出がみられるでしょう。
今年から新しい生き方に入るのだと決意したつもりですが、昨日は、まったく「新しさ」のない元日でした。
今朝もまた、いつものように、目覚めとともに、いささか虚しい気持ちにつつまれました。
どうも一挙には気持ちは変えられないようです。
「幸せに満たされた人生」というものは、たぶん論理矛盾です。
なぜなら、「幸せ」とは「不幸せ」があればこそ、実感できますから、不幸せのない人生には幸せもまた無いからです。
私には適度に「幸せ」も「不幸せ」もありますから、祝福された人生だという気はしますが、
しかし隣りに伴侶がいないことが、どうも理解できずにいました。
しかし、伴侶としての節子は、ずっと隣にいたのではないか。
それに、今朝、ようやく実感的に合点がいきました。
この10年間は、四国巡礼で言われているように、節子との「同行二人」の10年だったのです。
そう思うと、いろんなことが納得できます。
伴侶とはそういうものかもしれません。
ここまで書いたら、窓の外に「あったかな陽光」が感じられました。
日の出です。
窓からのぞいたら、昨日よりもきれいな日の出が見えました。
見ていると目がやられるので、日の出を感じながらまたパソコンに向かいました。
直接は見えませんが、明らかに太陽は私を包んでいてくれます。
たぶん、節子もまた、こんな感じで私とともにあるのです。
それを実感できないとしたら、それは私の知性と感性の鈍さです。
たとえ、雨の日も太陽は存在し、雲さえも支えているのです。
雨もまた、太陽の恵みなのですから。
ときに、私はそれを忘れてしまう。
さて、「同行二人」です。
節子が同行していることは、必ずしもよいわけではありません。
そのおかげで、私はいまもなお「自立」も「自律」もできず、充実感のない毎日を生きています。
しかし、その一方で、節子の不在を理由にして、自分を「言い訳」ているところがあります。
それがある意味での、私の「自立」や「自律」を支えているとも考えられます。
すべてはやはりつながっているのです。
幸せが幸せを生むように、不在が存在を生む。
新しい年の2日目がはじまりました。
外はもう、私の好きな「白い世界」にちょうど変わりだしてきています。
雪の白さではなく、輝きの白さです。
快晴の日の朝にわずかの時間だけ感ずる、私にとっての歓びの時間です。
今日も穏やかな日になりそうです。
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