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2018/02/13

■節子への挽歌3771:なぐさみに花を摘む

節子
アメリカのネブラスカ州に住む、オマハ・インディアンは野生の花は摘みません。
正確に言えば、なぐさみには摘まないという意味ですが、そもそも「摘む」という発想がなかったのでしょう。
これは、レヴィ=ストロースの「野生の思考」に出てくる話です。
もう40年以上前に読んだ本ですが、最近、読んでいた本にこの本のことが書かれていたので、思い出していまゆっくり再読しているところです。
オマハ族も、いまはもう変わっているかもしれませんが、花を摘まない理由は、「植物には、それぞれのかくれた主人にしかわからぬ神聖な用途がある」からだと、レヴィ=ストロースは書いています。
薬用や呪術などには、感謝しながら花の助けは受けています。
同書から引用します。

歯痛や耳の病、リューマチの治療のために誰もがスチームバスで使っているサボンユリの根さえ、神聖なものであるかのようにして採取されていた。 東カナダの呪術医は、医薬として用いる草木の根や葉や皮を採取するとき、必ずその根元に少量の煙草を供え、植物の魂を味方にする。 それは、植物の「体」だけで魂の協力がなければ、なんら効力がないと信じているからである。

私たちの両親の時代には、まだ日本でもこんな文化が残っていました。
特に、節子の母親には、そういう思いが強くありました。
それが、節子にも少し伝わっていました。
私もそうした文化には共感があります。
節子の闘病に際しても、いろんな花木のお世話にもなりました。
いまから思えば、植物の「体」だけを使って、その魂への感謝の念がなかったのかもしれません。
頭で理解するのと世界を共にするのとは違うことに気づいたのは、節子を見送ってからかなりたってからです。

しかし、最近ちょっと思いが変わってきました。
「なぐさみに花を摘む」という行為にこそ、大きな意味があるのではないかと思えてきたのです。
花は、なぐさみに摘まれることにこそ、存在の、つまり「生きる意味」があるのではないか。
そう考えると、また生き方が変わります。

無性に哀しく、やりきれない時、羽目を外す人がいます。
まさにその時、その人は「なぐさめに花を摘んでいる」のかもしれません。
その時、その花は、きっと輝くように生きている。
自らを解き放せば、自然につながっていきます。
その時、花を摘みたくなったら、花の魂も許してくれるでしょう。
まだまだ私自身、自分を解き放せません。
最近、人に当たることが多くなっている自分に、また嫌悪感を強めています。
世界は、所詮は自分の思いの世界の鏡だとはわかっていうのですが。

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