■節子への挽歌3799:私の生き方へのご褒美
節子
昨日は日本の企業をもっと元気にしたいと長年取り組んでいるKさんとゆっくり話し合う時間を持ちました。
Kさんもある大企業に勤務していましたが、ある時、会社を辞めて独立したのです。
そこからさまざまな企業の働く現場を飛び回り、独自に経営手法を開発してきています。
私がお会いしたのは、あるパーティで隣り合わせたおかげですが、話していて、どこか通ずるところがありました。
話があったのではありません。
心がなんとなく感じあったというべきでしょうか。
言葉で通じ合っても、それはほとんど意味がありません。
言葉と思いがずれている人はたくさんいます。
もちろんご自分でも気づいてはいないでしょう。
そして、波長が合う場合は、多くの場合、片思いではありません。
たぶんお互いに通ずるところがある。
これまでの人生を振り返ると、そう思います。
Kさんは、どうしてこういう場を持続できるのか、お布施だけでは維持できないでしょうと言われました。
Kさんは、私の活動に触れてから、まだ数年ですし、そんなに頻繁に湯島に来てくれているわけではありません。
でもなぜか、湯島の場所の維持と私の活動のことを、とても気にしてくれています。
こういう人がいてくれるだけ、元気が出ます。
Kさんは、私が携帯電話を今日も持ってくるのを忘れて、予定していた電話が受けられなくて困っていると話したら、佐藤さんでもそんなミスがあるのですか、ほっとしますね、と言われました。
ミスをしたり欠点が見えてしまったりすることで、ほっとしてくれる人がいるというのも、実にうれしいことです。
ちなみに、私はかなりミスも多いですし、能力的にも性格的にも欠点の多い人間です。
しかし、だからとって、コンプレックスを持っているわけではありません。
人はみんな、私と同じで、ミスも多いし、欠陥も多いのだろうと、思っていますので、「それがなんだ」という思いなのです。
でもまあコンプレックスがないわけでもありません。
こうなったらいいなと思うことは、山のようにありますが、しかし、それもまた誰もがそうだろうと思っていますので「それがなんだ」という気がしています。
実は、昨日もKさんとそんな話にもなりました。
Kさんは、どこかに哲学的な物を感じさせる人です。
私はまだ数回しか話したことがないので、Kさんの人生に関してはほんの少ししか知りません。
それにしては、なんだか旧知の関係のような話をしてしまいました。
いつもながら、どうして私は口が軽いのか。
話さなくてもいいことをたくさん話してしまった気がします。
でも湯島にこうやって、わざわざ来てくださる人がいるのが、これまでの私の生き方へのご褒美かも知れないと、いつも思います。
感謝しなければいけません。
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