■節子への挽歌3792:一番支えが必要な人
節子
寒暖の差が激しくて、なかなかついていけません。
此岸は住みにくいです。
住みにくいのは、どうも私だけではないようで、今日もまたいろんな連絡がありました。
幸か不幸か、今日は時間がほぼ完全に埋まっていたので、新しい課題を背負うことはありませんでしたが、みんな身に余る重荷を背負いこんで大変なのかもしれません。
でもまあ私も、もうそう背負い込む余裕がなくなってきているような気もします。
先日、図書館で見つけた『最期をどう迎えるか』と言う本を電車の中で読みました。
私自身は、最期の迎え方は一応決めていますが、それが実現できるかどうかは私だけでは決められません。
でもまあ、自宅で意識的に死を迎えることを目指そうと思います。
いや、目指そうと思うのではなく、いま既にその活動に入っているというべきでしょう。
もちろん「死ぬ準備」をしているという意味ではありません。
死と最期の迎え方とは別の問題です。
「最期の迎え方」は、あくまでも生き方の問題ですから。
その本にこんな文章が出てきました。
「誰かの支えになろうとする人こそ、一番支えが必要な人でもあるんですよね」
「めぐみ在宅クリニック」の小沢竹俊さんの言葉です。
ハッと気づいたのです。
そうか、私は、一番支えが必要な人なのだ、と。
でも今日は、時間がないことを理由に、3件の申し出をやんわりと跳ね返してしまいました。
もちろん引き受けるための日程調整が出来なかったからなのであって、私に理由があった訳ではありません。
一般的にはむしろ相手の都合のせいなのですが、でも相談してくる人の方が状況は大変なのですから、時間の調整は相談を受ける方がしなければいけません。
それが私のルールなのですが、そのルールを守るのはそれなりに大変です。
もし自分の都合を優先する生き方をしていたら、たぶん誰の相談にも応じられないでしょう。
いつも時間調整するのは、私なのです。
それが、誰かの支えになるということですから。
でも最近は、どうも私自身の都合を優先しがちになってきています。
小沢さんの言葉に出会って、私もようやく少し支えがなくても大丈夫なってきたのかもしれないことに気づきました。
最近またいろんな人から「へそ曲がり」だと言われています。
でも私は決して「へそ曲がり」ではないのです。
多分小沢さんならわかってくれるでしょう。
人はみな、他者の事を語っているようで、自分の事を語っている。
今日の寒さは、格別です。
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