■節子への挽歌3821:縁側の暮らしはなくなりました
節子
前の挽歌を書いていて、また書きたくなったことがあります。
地元の知人と会っていたのは、我孫子駅前の喫茶店です。
時々、そこで誰かと会う場所にしているのですが、不思議なことに、いつも誰か知り合いに出合います。
まあ我孫子のような小さな町ではそういうことはよく起こるのかもしれません。
レストランで、知り合いの家族や仲間に会うこともあります。
節子がいたら、そういう頻度はもっと多くなっていたでしょうが、節子がいなくなってからも、時々、そういう体験をします。
ちなみに私自身は、独りでは地元の喫茶店やレストランには行きません。
若いころは、よく独りで喫茶店に入りましたが、いまはそういうことは皆無です。
ところで、昨日も知人と会って話していたら、そこに知り合いの人が入ってきました。
挨拶をしただけですが、その人は独りでコーヒーを飲んでいました。
喫茶店で会う知人は、ほとんどが私と同世代の人ですが、不思議なことにいつも独りです。
今日、会った人は私よりも少し若いですが、独り住まいの女性です。
その前に会った人は、私とほぼ同世代の男性です。
いずれの場合も、独りでコーヒーを飲みながら、本を読んだりたばこを吸ったりしています。
今の私には考えられないことです。
わが家には縁側があります。
それともうひとつ、昔は庭にデッキをつくっていましたから、そこでもお茶が飲めました。
いつかはそこで、のんびりと節子と一緒にお茶など飲みながら時間を過ごすというイメージを持っていました。
しかし、それは実現しませんでした。
庭のデッキは、取り壊しました。
和室にある縁側も生活とは縁のない空間になっています。
その空間は、老後の夫婦の空間というイメージだったからです。
そのイメージが実現することはありませんでした。
縁側での時間は、私の人生からは消えてしまいました。
節子がいない今は、縁側でのんびりとすることは想像さえできません。
だからとって、喫茶店に独りで行ってお茶をするということも、私にはないでしょう。
私は、めったの駅前の喫茶店には行きませんが、ほぼいつも、誰かに会います。
独りでコーヒーを飲みに来る高齢の知人です。
そういう人たちのたまり場ができれば、そういう人たちはやってくるでしょうか。
あるいは、やはり独りでお茶をするのがいいのでしょうか。
独りでお茶をするのなら、自宅ですればいいのに、なぜ喫茶店に来るのでしょうか。
そこで知り合いに会って、話をするのでしょうか。
しかし、私の場合はいつも相手がいるからかもしれませんが、目が合って挨拶はするものの、話しかけられることはありません。
話しかけてくれたら、仲間に入ってもらうのですが、そういうことは起きたことがありません。
人との距離感は微妙です。
独りでお茶をするのでもなく、誰かとお茶をするのでもなく、そんなお茶の時間を喫茶店で楽しんでいるのかもしれません。
縁側の時間がなくなった私にも、いつかそういう気持ちになることがあるでしょうか。
それはわかりませんが、いまはまだ、節子の位牌のある部屋で、独りでコーヒーを飲むことを選んでいます。
今朝は大きなマグカップで、コーヒーを飲みました。
これから今日は何杯のコーヒを飲むでしょうか。
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