■北朝鮮を信用できるかという発想
私は、発言の語尾がかなり気になるタイプです。
発言をどうまとめるかで、その人の心情がわかるからです。
たとえば、私が苦手の言葉のひとつが、「…しましょう」です。
発言者にはまったく悪意も意図もないのでしょうが、そういう発言にはどうも反発を感じます。
目線の高さを感じてしまうのです。
同じく「…でしょう」もあまり好きではありません。
念のために言えば、こうした表現を私が使わないというわけではありません。
少ないとは思いますが、たぶん使用しているはずです。
だから他者のことだけを言っているわけではなく、その時の自分も嫌いなのです。
今日、気になったのは、北朝鮮の核政策転換発言に関して、「信用できるか」という表現が新聞やテレビで使われていたことです。
そういう表現をしている人は、信用していないのでしょう。
なぜこの表現が嫌いかといえば、判断の視点を相手に置いていて、「自分」がないからです。
私の発想では、「信用できるかどうか」ではなく、「信用するかどうか」です。
相手が信用できるかどうかは私にはわかりませんし、どうしようもないことですが、自分が相手を信用するかどうかは、自分の意志で決められることです。
自らの意志で決めたことの責任は自分でとれます。
万一それで何か問題が起きたら、それは自らの責任です。
相手のせいにはできません。
もちろん、「信用できるかどうか」には、「相手が信用できるかどうか」と同時に、「相手を信用できるかどうか」という意味もあります。
ですから「信用するかどうか」と同じことだといえるかもしれませんが、微妙な違いを感じます。
ややこしい話になるのでやめますが、いずれにしろ、自分を棚上げしているように、私には思えます。
いずれにしても、結局は「北朝鮮を信用していないことには変わりはないからです。
相手を信用しなければ、相手からも信用されないのは当然の帰結です。
そもそも相手が決めたことを最初から信用しないのであれば、相手と交渉を持つべきではありません。
相手を信用することから、交渉ははじまるのだろうと私は思います。
実はこれは先日湯島でやった、ある研究会でも話題になったことです。
契約の前提に「信頼関係」はあるかどうか。
よく言われる「人は性善か性悪か」という話にもなりかねませんが、これは人間観につながっています。
私は、人は基本的に信用できると思っていますし、人の性は本来「善」だと確信しています。
そう出なければ、生きていけないでしょう。
にもかかわらず、堂々と「相手を信用できるか」などということを、相手も読んだり耳にしたりするメディアで表明することが不思議でなりません。
そういう姿勢では、事態は変わらないのではないかと思います。
ちなみに、核抑止論の矛盾が、ここにも露呈されているように思います。
核抑止論は、私にはとんでもない間違いでしかありません。
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