■節子への挽歌3803:他者の嘘への寛容さをもちたいものです
節子
2日に開催した「生きる意味」のサロンは、正式には2回目です。
思わぬ人が参加しますが、さらに思わぬカミングアウトがあります。
みんなそれぞれに「生きづらさ」をかかえています。
それに比べれば、私の生きづらさなど瑣末な事だと思います。
しかし抱えている問題は、そう違うわけではありません。
同じことでも、心へのダメッジは人によって違うのです。
言い方を変えれば、私は感受性がよわいのかもしれません。
あるいは思いやりの心が鈍いのかもしれません。
これまでずっと、他者より思いやりや感受性が強いと自覚していたのですが、そもそもそれが間違っていたのかもしれないのです。
節子に対しても、優しく思いやりが強かったと思っているのは、私の認識違いかもしれないのです。
そう思うことは、さすがに私でも辛いものがあります。
小さなころから60年にわたって、生きる意味を探し続けてきたという人が話しだしました。
それに聞き入る人も多く、それでサロンは4時間たっても終わる気配さえなかったのですが、彼女の壮絶な話を聞きながら、数年前に亡くなった元やくざのKさんのことを思い出しました。
Kさんには最後に裏切られた気がしていて、どうもすっきりしなかったのですが、少し受け入れることができた気がします。
それに少しは役立ったことは間違いありません。
まだ完全にではありませんが、少しだけ心が晴れました。
人はみな、重荷を背負っている。
その重荷を背負い合う関係を育てたいと思っていますが、どうも私には偏狭のところがあって、嘘をつかれると顔も見たくなるのです。
でも好き好んで嘘をつく人はいないでしょう。
嘘をつくにはそれなりの理由がある。
そう頭ではわかっているのですが、嘘にはどうも寛容になれません。
嘘をつくことがまったくなかった節子と長年一緒に暮らしたせいかもしれません。
嘘への抵抗力は、なかなか身に付きません。
困ったものです。
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