■節子への挽歌3818:「神即自然」
節子
先日、湯島で「神さまのいる暮らし」をテーマにサロンをしたことは書きましたが、そこで改めて気づいたのは、神さまは「我と共にある」ということです。
そこで思い出したのが、スピノザです。
私の、かなりいい加減な理解では、スピノザもまた、神さまは、宇宙あるいは自然そのものえあり、その神さまがいろんな仕方で「変状」して、さまざまなものが現れると言っています。
「変状」とは性質や形態を帯びるという意味ですが、この世(もしかしたら「あの世」も)にあるすべてのものは、変状した神さまというわけで、「神即自然(神すなわち自然)」というのです。
あらゆる物は神の一部であり、また神の内にある、というわけです。
この考えによれば、私も節子もまた、神の一つの変状したものでしかありません。
朝、目覚めると、時折、節子の気配を感じます。
夢の中で、節子の気配を感ずることもあります。
普段は、さまざまな喧騒と刺激のおかげで、あまり気配を感ずることはありませんが、誰かと話していたり、歩いていたりする時に、一瞬、節子の気配を感ずることがあります。
いや、節子だけではなく、他の人の気配を感ずることもある。
それは、私もまた神の一部であるからでしょう。
どこかで、他の様態に変状した、節子や他者と重なるのでしょう。
こうした考えを持つと、少しだけですが、元気になります。
スピノザを読み直したくなりました。
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