■節子への挽歌3811:「ミッション:8ミニッツ」をまた観てしまいました
節子
人はそれぞれに違う世界を生きているのかもしれないと思うことが時々あります。
SF小説の世界には、パラレルワールドという考え方があります。
複数の世界(時空)が並行して存在するという考えです。
此岸と彼岸もまた、そうした考えでも理解できますが、パラレルワールドは私たちのこの世界と同一の次元を持つところに違いがあります。
この考えは、SFの世界だけではなく、理論物理学の世界でも語られているようです。
タイムトラベルともつながる考えですが、時空間の捉え方を柔軟にすれば、さほど不可解な話ではありません。
言うまでもなく、私は否定するほどの知識がないので、否定はしていません。
冒頭に、「人はそれぞれに違う世界を生きている」と書いたのは、これほど大仰な話ではありません。
同じこの世界を生きているにもかかわらず、その世界や風景は大きく違っているのだろうという意味で書いたのです。
しかし、よくよく考えれば、それとパラレルワールドとはつながっているかもしれません。
いや同じかもしれないとさえ思えます。
親子でも、世界が違うなと思うことがあります。
これも当然のことで、人はある意味ではそれぞれが完結した世界を構成しているのかもしれません。
一即一切とかホロニックな世界観とか、あるいは「大きな生命」とか、いろいろな考え方はありますが、そこで語られる「全」が一つしかないというわけではありません。
そこがややこしいわけですが、一即一切の「一は固定しているわけではありません。
常に動いているのですから、パラレルワールドとは矛盾しません。
ちょっと古い映画ですが、「ミッション:8ミニッツ」というのがありました。
今日、その古い映画をまた観てしまいました。
前にも観たことはあるのですが、なぜか今日また、無性に観たくなってしまいました。
昨夜の夢のせいかもしれません。
この映画は、パラレルワールドの2つのワールドのつながりが見える話になっているのですが、そこでは過去も未来も変えられるのです。
時間と空間は同じものでしょうから、これは2つのパラレルワールドを往来するという話です。
この映画では、主人公は彼岸に死んだはずの人とともに行くのです。
そこには新しい世界が、同じキャスティングで展開されています。
人はそれぞれに違う世界を生きているのであれば、主軸を移すだけで、もしかしたらパラレルワールドを往来できるのかもしれない、とも思います。
どうしたら主軸を変えられるか。
それが知りたいです。
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