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2018年5月

2018/05/31

■節子への挽歌3879:孫は節子を見分けられますよ

節子
今日は在宅だったのですが、じゅん親子がやってきました。
2歳になったばかりの孫のにこは、節子には会ったことがありません。
それでもじゅんが教えたおかげで、節子の顔と名前を知っています。
先日、姪の結婚式の時にみんなで撮った写真が出てきました。
そこから節子の顔を見分けられたそうです。
今日も写真を見て「せつこしゃん」と指差しました。
会ったこともないのに、やはり何か通ずるものがあるのかもしれません。

わが家の愛犬のチャッピーも覚えたようで、写真を見るとチャッピーと指差します。
家族には通ずるものがあるのでしょう。

ちなみに、じゅんがいない時に、こっそりとにこに生まれる前のことを覚えているかと訊いてみました。
どうもその言葉が理解できなかったようで、今日は答えは得られませんでした。
この年齢だと、たぶん前世のことを覚えている可能性が高いです。
それに、にこは時々、あらぬ方向をじっと見ていることがあります。
節子やチャッピーが見えているのかもしれません。
しかし最近だんだんそういう視線が少なくなってきました。
早く聞きださないと忘れてしまうかもしれません。

2歳の孫を見ていると、人間の素晴らしさを感じます。
それを節子に体験させることができなかったことが残念で仕方ありません。
節子は、しかし、自分の娘たちでそれを体験していたのかもしれません。
でも、もしかしたら、その余裕はなかったかもしれない。

いずれにしても、私もこの孫が、大人になる前に別れることになるでしょうが、一番いい時に付き合える幸せに感謝しなければいけません。
娘にも感謝しなければいけません。

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■カフェサロン「九条俳句訴訟をどう思いますかーこれからの社会教育を考える」のお誘い

今回のサロンは、これからの社会のあり方を考える上で、とても大切な話なので、いつも以上に、ぜひ多くの人に参加してほしいサロンです。

さいたま市のある公民館の俳句サークルで選ばれた秀句が、いつもなら掲載されるはずの「公民館だより」への掲載を拒否されるという事件(2014年6月)を覚えている方も多いでしょう。
その対象になった俳句は、「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」。
その句が、「社会教育の政治的中立性」という理由で、行政から掲載拒否されたのです。
俳句の作者と仲間たちは行政に異議申し立てし、その支援者も広がりだしました。
しかし、市民と行政との話し合いは、うまくいかずに、訴訟にまで発展してしまいました。
地裁も高裁も住民勝訴でしたが、行政側はまだ「公民館だより」に掲載してくれていません。

この「九条俳句訴訟」事件のドキュメタリーが訴訟関係者たちによって出版されました。
「九条俳句訴訟と公民館の自由」(エイデル研究所)です。
自治体から突然、理不尽な圧力を受けた女性たちが、それに抑えられることなく、正面から対峙し、公民館で住民が学び続ける意味を再確認するとともに、表現の自由を守る活動へと広がっていった経緯が、事件に関わったさまざまな人たちの「思い」も含めて、立体的に紹介されています。

俳句の作者は「もう70年前の様な時代に逆戻りは絶対ごめんです」と、2015年7月の提訴にあたっての呼びかけ文に書いています。
また、かつて公民館職員だった方が、ある事件に関連して、かつて社会教育と政治の関係について次のように述べていたことが紹介されています。
「私たちの生活に関する話題は、そのほとんどが政治にかかわることだといっても過言ではありません。政治にかかわる事柄が、政治的だという理由で公民館活動のなかで禁止されるとしたら、人間の自己教育活動としての社会教育は成立しなくなってしまうのではないでしょうか。」

本書をテーマに湯島で開催することにしました。
本の編著者の一人で、この訴訟の応援もされてきた佐藤一子さん(東大名誉教授)も参加してくれる予定です。
平日の夜ですが、ぜひご参加ください。

○日時:2018年6月27日(水曜日)午後6時半~9時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「九条俳句訴訟をどう思いますかーこれからの社会教育を考える」
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)


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■嘘がまかり通る社会になってしまいました

以前、まだブログを始める前ですが、私のホームページに「メッセージ」というコーナーがありました。

そこで書いたことを再録します。

〔メッセージ2:嘘の上に成り立つ社会のありように疑問を持ちましょう(2002年2月7日)〕
今回の田中外相の更迭事件は「嘘をつくことをとがめてはいけない文化」の範を首相が示してくれた「歴史的な事件」でした。
子どもたちには大きな影響を与えるのではないかと思います。
リーダーとしての責任のとりかたについても、たくさんの影響を与えていくことでしょう。
子どもたちは学校の先生から何かを学ぶのではなく、大人たちの生き方から多くのことを学ぶのです。
影響力の大きいモデルの一人が、総理大臣です。
そして、彼を支えているのは私たちです。
私たちの生き方です。

重要な問題であるにも関わらず、誰が嘘をいっているかも明確にしようとしない人でもリーダーがつとまるわが国の政治は、いったい何なのだろうかと、いささか哀しく思います。
まあ、今に始まったことではないのでしょうが、ここまで明確にみんなに見えているにも関わらず、よくやるなあ、と感心してしまいます。
いずれにしろ、事実に基づかなくとも政治ができてしまうのです。

嘘をついても嘘をつかれても、どちらも罰せられるのであれば、嘘をついたほうが賢いともいえます。
実際、今回の結果はそうなったような気もします。
もしそうであれば、嘘の勧めというお裁きだったわけです。

小泉さんは日本の未来を2回変えたと私は思っています。
前回は、私は国会デモに参加して、自己満足的な抗議を行いましたが、今回はもっと本質的な問題を含んでいますので、デモ程度では対応できそうにありません。
そこで、一度、政治ってなんだろうか、という集まりをやりたいと思っています。
関心のある方はご連絡下さい。

それはともかく、今回の事件を皆さんはどうお考えでしょうか。
言った言わないよりも予算を早く決めるほうが大切だ、という人もいますが、嘘を奨励する人が作る予算など何の役に立つのでしょうか。
NGOの正しい評価や構造改革も大切ですが、それ以上に嘘を正さないことのほうが問題ではないかと私は思います。
子どもたちでもわかるような、基本的な問題こそが大切なのです。
言葉に惑わされて、感覚を麻痺させてはいけません。
私たちの生き方の根幹が問われているのです。

あなたは、嘘をつくことに呵責を感じない人たちがつくる予算を信じますか。
雪印食品の事件にも現れていますが、私たちは「嘘をつくこと」にあまりにも寛容になってしまっているのかもしれません。
政治も経済も嘘(虚像)の上に成り立っている。これが現在の姿です。
このことのおかしさを、少し考えてみることが必要なような気がします。

以上が16年前に書いたことです。
読み返してみると、その時の不安が現実化してしまいました。
すべてはこの時から始まった。
私はそう考えていますので、小泉さんの「脱原発」など一切信頼できません。

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■誕生日に「おめでとう」のメッセージを送ること

私は、儀礼的な挨拶が苦手です。
そういう挨拶をするのはなんとかできますが、応えるのが特に苦手です。
困ったものですが。

昨日、喜寿の誕生日でした。
フェイスブックには、誕生日にメッセージを送ることが仕組みとして組み込まれています。
最初はそれがいい仕組みだと思っていました。
年賀状も同じですが、年に1回、普段あまり交流のない人に、安否もかねて交流することに大きな意味があると思っていました。

しかし、最近は、基本的には誕生日に「おめでとう」というメッセージを送るのをやめました。
というのは、そういうメッセージが私のところにも来ることで感ずることがあったからです。

もちろん、うれしいメッセージは少なくありません。
昨日も、そういううれしいメッセージも少なからずありました。
しかし、フェイスブック仕込みの画像などが送られてくるのは、私の趣味ではありません。
年賀状や何かの記念日の時に、メールで既成の動画ハガキが添付されてくるのも同じですが、これほど味気ないものはありません。
あまり交流もなく、パーティなどで数回お会いした人から、人生の意味などを説かれると、相手を間違っているのではないかと、その人の姿勢に違和感を持ちます。
きっと誰にでも出すパターン文章なのでしょう。
あんまり書くと、人を非難することになりかねないのですが、挨拶とはもっと「心を込めて、相手に寄り添う形で(つまり標準パターンではなく)」送るものだと思います。
だからと言って何も長いメッセージである必要はありません。
同じ「おめでとうございます」の一言であっても、その人との関係性で、言葉の裏にある「気持ち」が伝わってくることもあります。

「誕生日にどうしておめでとうというのか」という、ひねくれた問いかけを昨日書いてしまいました。
いろんなアドバイスをいただきました。
私が言いたかったのは、「おめでとう」という言葉を、フェイスブックで「いいね」を押すような気持ちで送ることへの問いかけでした。
なんでこの人に「おめでとう」というのだろうかと、ちょっと考えるだけでもいいかもしれません。
機械的に、ただ「符牒」として、「おめでとう」と声をかけることに疑問があるのです。
人によっては、また時期によっては、「おめでとう」と言われたくない誕生日の時もあるのです。
それに、「おめでとう」ではなく、誕生日ですね、というだけでもいいでしょう。

どうして私はこの人に「おめでとう」と声をかけるのだろうか。
それをしっかりと考えた上での「おめでとう」は、それでも私には少し違和感はありますが、素直に受け入れることはできます。
しかし、FBから「今日は誰それさんの誕生日なのでメッセージを送信しよう」などといわれて発信するような風潮には、いささかの違和感があります。
バレンタインデイにチョコレートを送ろうという風潮がかつてはかなりありましたが、そうした風潮にしたがうことは私が一番嫌いな行為でした。
従って、チョコレートは嫌いだなどと嫌味を言ったりしてしまいましたが、実はチョコレートは好きなのです。
最近は幸いに誰からもバレンタインデイのチョコレートは届きません。

また余計なことを、しかも誤解されそうな書き方で書いてしまいました。
また友だちが減りそうです。
困ったものです。

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■節子への挽歌3878:喜寿 一人で良く頑張りました

節子
喜寿を迎えたことを友人からほめられました。
「喜寿 一人で良く頑張りました」というメッセージが届きました。
小学校時代の同級生の女性からです。
彼女も、私よりも前に伴侶を見送っています。
その彼女も、間もなく喜寿です。
このメッセージは、彼女自らへの褒め言葉でもあるのです。
こういうメッセージは、心を感じられるので、私でもうれしいです。

伴侶を見送り、独りで生き続けることは、きびしいものです。
それを乗り越えられずに、再婚する人もいますが、その気持ちもよくわかります。
乗り越えられずに、後を追う(自死という意味ではありません)人も少なくないでしょう。
特に男性の場合は、独りで生きるのは不得手なような気がします。
私の場合は、娘たちがいたので、なんとか生きながらえましたが、精神的な人生は全く変わってしまいました。
生きる意欲はなくなり、生きる喜びは遠くに行ってしまった気がします。
ですから、誕生日おめでとうなどというメッセージも、気持ちを逆なでされる気分さえするのです。
でも、それはたぶんなかなかわかってはもらえないでしょう。

「喜寿 一人で良く頑張りました」とメッセージしてきた友人も、
でも最後にこう書いていました。

やはり < おめでとう >と申し上げます

何がめでたいのか、やはりよくわかりませんが、ここは素直に受けておこうと思います。

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2018/05/30

■節子への挽歌3877:「なんで誕生日には「おめでとう」っていうの?」

節子
とうとう77歳です。
節子には信じられないことでしょう。
私にも信じられないことですが。

いろんな人が、フェイスブックで「おめでとう」と書いてきます。
私は誕生日に「おめでとう」と言われることが好きではありません。
そもそも「おめでとう」という言葉の意味がよくわからない。
フェイスブックにはいつもそういうことを書いています。
しかし、みんな「おめでとう」と書いてきます。
それはただそういうことになっているからで、なかにはフェイスブック仕様のマニュアル化されたメッセージを送ってきます。
たぶんみんなに同じような言葉を送っているだろうなという文章もある。
心が入っていないメッセージは、私が一番嫌いなことなのに、それに気づいてくれない。
困ったものですが、あまり毎回言い過ぎるのも失礼が度を越すでしょう。
そこで今年は、だいたいこんなことを書きました。

気がついたら喜寿の誕生日でした。
よくまあ生き続けられてきました。
一応、定めでは「93歳」と聞いていますが(30年ほど前に京都の有名らしい人からお告げを聞いてきてくれた人がいます)、念願はできるだけ早くお暇したいと思っています。
ただ私の場合、10年ほど前に「心の時間」が止まったので、「身体の時間」とのずれが開いてきていて、時々、ダウンします。
今日は、畑作業から始まり、午前中は本郷のあたりを自転車で走っていました。
体力がついていけていないのがよくわかります。
午後は湯島で論敵との長い時間が予定されていますが、疲れて眠りそうです。

いろんな方々からの「誕生日おめでとう」のメッセージ、ありがとうございます。
昨年の誰かからのメッセージを受けて、素直に「ありがとうございます」ということにしましたが、やはりなぜ誕生日がめでたいのかよくわからない。
私の好きなテレビの番組に、「ちこちゃんに叱られる」というのがあります。
その時間に在宅できない時には、録画して必ず見ています。
それを見ながら、私もなんとボーっと生きているのだろうと反省しながらです。
その番組では視聴者からの質問を受けています。
質問できるのは一応「5歳児」ですが(ちこちゃんが5歳だからです)、私にもまだ「5歳児」が残っているので、資格があります。
質問は、「なんで誕生日には「おめでとう」っていうの?」
私が納得できる回答があったら教えてください。

そう書いたにもかかわらず、定型的なメッセージを書いてくる人がいます。
困ったものです。

でもなかには、こんなメッセージもありました。

誕生日、佐藤さんは「おめでとう」と言われたくはないのに、またそういう風に毎年書いているのに、たくさんの方がお祝いしてくださるのが素晴らしい。

何処が素晴らしいのか、よくわからないのですが、こういうメッセージはうれしいです。
きちんと私に話しかけてくれるからです。

それといろんな人が「なぜおめでとうというのか」の回答を送って来てくれています。
でもまだ、私を納得させてくれる回答はありません。
ちこちゃんに質問しなければいけません。

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■日大アメフト事件のその後の動きにまたまた思うこと

日大アメフト事件は、やはりいつもの通り、安直なところに落ち着いてしまった気がします。
日大アメフト部の部員の声明文は、大きな救いですが、
結局は、内田さんと井上さんと森さんが、切られただけで終わってしまいそうです。

この事件が起きた時、私はフェイスブックにも書きましたが、宮川選手の身を挺した内部告発行為だと感じました。
そしてそれは成功し、大きな話題になりました。
しかし、それが日大アメフト部の3人のリーダーにとどまったのは、私にはちょっと残念です。

私のフェイスブックに、友人が宮川選手に対して痛烈な意見を書き込みました。
オウムの場合、実行犯は死刑になったのに、宮川選手はみんなから同情された。
その違いは何なのかは、考えてみる価値があります。

私は、内田監督のような人には強い拒否感があります。
しかし、内田さんを厳しく非難するアメフト関係者やスポーツジャーナリストには、もっと強い拒否感があります。
これも以前よくブログに書いたことですが、組織が起こした問題は組織全体の責任だと私は思っています。
誰か一人に責任を押し付けたり、「反論できる状況ではなかった」などという言い訳が、私の最も嫌いなものです。
なかには「連帯責任」を否定している人もいますが、組織で起こった不祥事は組織にいる人は誰もが無縁ではありえません。
さらに言えば、その実態を知っていたり、知りうる立場にある人もまた、無縁ではありません。
原発事故の責任が、それを許していた日本人すべてにあるように、です。

日大の荒っぽいやり方は、アメフト関係者であれば、たぶん多くの人は知っていたはずです。
あそこまで「ひどい」とか「反則是認」と思っていなかったかもしれませんが、反則行為は全て連続しています。
薄々かもしれませんが、みんな知っていたでしょう。
だからこそ、最初の頃、多くの人が、SNSで広がらなかったらこんなに大きな問題にはならなかったと言われていたわけです。
そうした風潮の中で、内田さんは自らのやった行為が、自らの「除名」にまでつながるとは思ってもいなかったでしょう。
内田さんには、自分のやっていることがそんなに大きく逸脱しているとは思っていなかった。
そんな気がしてなりません。

関東学生連盟の関係者処分には、関東学生連盟関係者が含まれていなかったことに私は失望しました。
日大アメフト部の部員たちの声明文とは全く違います。
当事者意識がまったくない。
それでは内田監督や日大関係者と全く同じです。
だから、今回の事件で、日本のアメフトやスポーツ界はあんまり変わらないだろうと思った次第です。

日大アメフト部だけが例外だったのか。
私にはそうは思えません。
内田監督の反撃はないでしょうが、そして反撃しないような状況は作られるでしょうが、どうも「特別の事件」にされてしまっているのが、気になります。

アメフトを知らない者の妄想かもしれません。
しかし、事件解決の標準モデルのスタイルのような気がして、どうもすっきりしません。

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2018/05/29

■節子への挽歌3876:喜寿の会食

節子
生きながらえてしまい、私もとうとう喜寿を迎えました。
節子がいなくなってから、この種のお祝いをするのをやめていますが、ユカが企画してくれ、ジュン家族も含めて、みんなで会食しました。
久し振りに個室での中華料理でしたが、やはり節子がいないと私自身は元気が出ません。
節子の代わりに孫のにこがにぎわしてくれましたが、にこはとても素直で面白いです。
私のことは、最初は「むーさん」でしたが、私の希望で「おさむ(さん)」にしようと切り替えて苦労させてしまいましたが、最近は「おしゃむ」というようになりました。
時には「おしゃむ しゃん」ですが、まあどちらでもいいでしょう。

私たちに子どもができた時、子どもたちには名前で読んでもらいたいという提案をしましたが、節子は反対でした。
人は名前があるのだから、名前で読むのが基本ではないかと私は、今でも思っていますが、節子がいたらどうしていたでしょうか。

会食後、わが家に戻りましたが、先日の自分の誕生日に体験したケーキのロウソク消しが気に入っているようで、今回もわざわざ持参したロウソクを持ってきて、私と一緒に吹いて消しました。
その後、「おしゃむと写真」を撮ると言って、自分から膝に乗ってきました。
普段はそんなことをしたことがないのに、驚きました。
その後は、今度は「ゆかしゃん」と言って、ユカともツーショットでした。
不思議な気がしました。
子どもたちには、いろんなことが見通しではないのかと思ったのです。

位牌の前の風景を節子は見ていたでしょうか。

Kiju1


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■節子への挽歌3875:愛と涙と幸せ

畑に行ってきました。
ちょっと気分がすっきりしました。
野菜たちは何とか元気でした。
でも先行きいささかの不安はあります。
私と同じく、勢いのある元気が感じられません。
惰性的な元気、です。

先日、「100万回生きたねこ」のことを書きました。
私の知人もそうですが、多くの人は最後のところで涙が出てしまうと言います。
そんな記憶は私にはないのですが、いまは私もだいぶ「成長」したので、もしかしたら涙が出るかもしれないと思い直して、久しぶりに読んでみました。
……
まったく感動がない!
感受性はむしろさらに低下しているようです。
困ったものですが、涙が出ないところが、物足りなさを感じました。

そこで、ついでに、数年前に出た「100万分の1回のねこ」という、佐野さんに捧げるトリビューン・アンソロジーを読みました。
佐野さんの絵本に触発された13人の人が、それぞれの作品を書いています。
13人?
そういうところには、ついつい思いがいってしまいます。

谷川俊太郎さんは、その本の帯に、「『100万回生きたねこ』は、佐野洋子の見果てぬ夢であった。それはこれからも、誰もの見果てぬ夢であり続ける」と書いています。
「見果てぬ夢?」
よくわかりませんが、やはり私の感受性に問題があるのかもしれません。
しかし、この13編の小品は、どれもみんな面白かった。

『100万回生きたねこ』はミリオンセラーなので読んだ人も多いでしょうが、山田詠美さんの小品「100万回殺したいハニー、スウィート ダーリン」にとても簡潔にその内容が書かれていますので、その部分を引用させてもらいます。ついでに、「愛と涙」についての話も。長すぎるほど長い引用ですが、とても面白いので、ぜひ読んでください。節子にも読ませたいので。

お話は、とてもシンプルで、日頃、本なんて読まない私にも簡単に理解出来た。百万年死なない猫の話。百万回も死んで百万回も生きた「ねこ」という猫の話。死の局面のたびに、彼を深く愛していた飼い主たちは、誰もが泣く。でも、当のねこはへっちゃらだ。だって、どの飼い主のことも全然好きではなかったから。  ページをめくりながら、私は、ねこを、とても羨しく思った。誰も愛していないって、なんて気楽なのだろうと感じたから。私なんか、可愛いがってくれた誰が死んでも悲しみのあまり病のようになった。自転車泥棒に遭った際に一所懸命になってくれたおまわりさんの時も、冬になるとおみかんをおまけしてくれた八百屋のおばさんの時もだ。金欠の私の体を買ってくれたおじいさんの時なんか、じゃんじゃん泣いた。だって、世の中の逆風にもめげずに健気に生きとるお嬢ちゃんって言ってくれたんだもの。抱かれたその日は穏やかな天候で、全然、逆の風とか吹いていなかったけれども、若い娘への親切心をしっかり持っているお年寄の姿勢にぐっと来た。それなのに、御礼も出来ない内に死んじゃった。  そんなぐずぐずした私に比べて、ねこと来たら! こんなふうに、人と関わった人生をリセットして行けたら、どんなに生きやすいだろう、と我身と比べて溜息をついた私。私は、永遠にねこの飼い主側の人間。  しかし、ねこが白いねこと出会ったと読んだ瞬間から、心がそわそわし始めた。悲しみの前触れが訪れる時は、いつもそうであるように落ち着かなくなってしまう。この時もそうなった。(中略)  私の予感通り、白いねこを愛してしまったねこは、その死に際して泣いて泣いて、泣いて死んだ。そして、今度は、もう生き返らなかった。心から愛した者の喪失は、決して、彼の生をリセットさせなかったのだ。うんと幸せになった故に、うんと不幸せになってしまったねこ。

ただ、この小説の主人公は、この絵本を男友だちの前で読まされて、泣いてしまうのですが、それを見て、プレイボーイの、その男友達はこういうのです。
「おまえ、本気で泣いてる。すっごくいい!本物の愛に対するセンサーが、ちゃんとあるんだな。よし! おまえを次のビアンカにしてやる!」
この続きがまた面白いのですが、それは本を読んでください。

私はどうしてこの絵本で泣けなかったのでしょうか。
「本物の愛に対するセンサー」がないのかもしれません。
困ったものだ。

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■節子への挽歌3874:邪悪な血液が身心中を駆け巡っているような感覚

節子
この2日、夜中に目が覚めて、しばらく眠れなくなりました。
身体全体に、なにかおかしさを感じます。
心配はないのですが、どうも身体全体に違和感があり、邪悪な血液が身体中を回っているようなイメージがあります。
どこかが痛いわけでもないのですが、なにか寝苦しいのです。
うつ伏せになったり、起き上がったりして、その違和感を追い出そうとしますが、なかなかうまくいきません。
畑のやぶを刈り取って以来、身体全体のかゆみはまだ残っています。
ついに皮膚科には行かなかったのですが、かゆいのは皮膚だけでなく、血管までかゆいような気さえ、時にします。
ひどくなっているわけではないのですが、イメージ的に広がっている気がします。
さらに身体中が火照っているような気もします。
今も手足は火照った感じです。
こうした状況から、邪悪な血液が身心中を駆け巡っているようなイメージがあるのです。

こんなことを書くと、なにやら私が「危うい状況」にあるようなイメージを与えてしまいますが、元気なので、ご心配は不要です。
どうも私の文章表現は、いささかオーバーなようで、誤った印象を与えてしまうことが多いのですが、いまの状況を気分通りに書くとこうなってしまうのです。
「邪悪な血液」が身心(身体ではありません)を駆け巡っているというイメージは、今の気分にピッタリなのです。
でもまあ、これから少し経つと、そのイメージは消えるでしょう。
いつもの1日がはじまる。
ただ2日連続で、真夜中にちょっと寝苦しさを感じて、よくはねむれていないので、今朝もまたさっぱりできずにいます。
畑に行ってこようかと思いますが、疲労感も少しあります。
困ったものです。

節子は忘れているでしょうが、今日は私の76歳最後の日です。
誕生日も含めて、最近はそういうことにまったく興味が持てなくなっています。
節子がいなくなってからの時間は、止まったような感じだからです。
それも娘たちが、会食に誘ってくれたので、みんなの日程を合う今日、孫も一緒に食事に行く予定です。
人のお誘いは、基本的には断りませんので、実のところうっとおしさもあるのです。
気分を戻しておかないといけません。

ちなみに今朝もいい天気です。
節子がいなくなってからの大事な日は、よほどのことがないと、お天道様は私の味方です。
きっと節子のおかげでしょう。
今日は、久しぶりに「小節子」も一緒に連れて行こうと思います。

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2018/05/28

■節子への挽歌3873:水と火

節子
前の記事で、水が「いのち」を支えていることを書きましたが、それで思い出したのが、ゾロアスター教のことです。
ゾロアスター教は「拝火教」とも言われるように、火を使う祭儀が多いと聞いていましたが、最近ゾロアスター教に関する本を3冊ほど読んだら、どうも私の理解はかなり偏っていたことを知りました。
もちろん火も大切にされていますが、火と並んで「水」もまた祭儀の主役だったようです。

ゾロアスター教の発祥は先史時代だそうですが、当時、雨の少ないステップ地帯で、生きていくために必要だったのが「水」と「火」だったわけです。
原インド・イラン語族は、水を「アーパス」という女神たちとして凝人化して、祈りを捧げ献水をしたそうですが、そうした献水は、外に流出してしまった生命力を、再びその元素のうちにとりもどして、それを清浄かつ豊かにするものと信じられていたそうです。
この辺りのことは、知れば知るほど、面白い世界です。

わが家のリビングのスパティフラムは、時々水を欠かせてしまうと見事にしなだれてしまいますが、水をやるとまもなくシャキッとします。
植物と付き合っていると、水の大切さがよくわかります。
むかし、ある人に「土は生き物ですよ」と言われてから、庭の花に水をやる時に、花を植えていない植木鉢にある土にも必ず水をやるようにしています。
土はもちろんですが、石もまた生きているのかもしれません。

水や火が、「いのち」を支えている。
しかし、時に、その水や火が「いのち」を奪ってしまう。
「いのち」を支えるものが、「いのち」を奪うものでもある。
そう考えると、世界の面白さへの想像が広がります。

今日はちょっと時間破産と過労を口実に、畑に水やりに行きませんでした。
野菜や花が元気でいてくれるといいのですが。

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■節子への挽歌3872:水こそが「いのち」を支えている

節子
昨日は船橋市にある有機農場に行ってきました。
霜里農場の金子友子さんからのお誘いです。
山田さんという新規就農者の独身男性が10年かけて、広げてきた7つの農場です。
彼は、ほぼ毎日、その畑の往来です。
電車に乗るのは不得手だと言っていました。

霜里農場で、13年ほど前に実習していたそうです。
霜里農場の卒業生は各地に散らばって、新しい生き方や働き方をしているのがよくわかります。
そういう人たちのゆるやかなネットワークの場の一つに、湯島がなればいいなと思っていましたが、友子さんが早速動き出してくれたわけです。
湯島は、霜里農場分室になれるかもしれません。

暑い中を農場視察でちょっと疲れてしまい、昨日は畑には朝だけしか行けていませんが、幸いに今日は曇天なので大丈夫でしょう。
しかし山田さんが話してくれました。
水がともかく大切なのだと。
水をあまりやらないほうが、トマトは甘くなると言われていますが、そんなことはないようで、適度な水はどんな命をも守ってくれているようです。

私はあまり水を飲むのが好きではありませんが、もっと水を飲まなければいけません。
生命と深くつながっている人の話は、いろいろと教えられることが多いです。

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■日大アメフト反則行為事件に、改めて思うこと

日大アメフト反則行為事件に関しては、「追い込まれた状況」が焦点になってきて、宮川選手はむしろ「被害者」として支援されてきているような空気を感じます。
それに関連して、ちょっと思いだしたことを書きます。

「乖離」という日大アメフト部側の言葉も問題にされていますが、「乖離」など当然のことで、コミュニケーションとはそれを前提にして行われる行為です。
乖離をなくすことなどできるはずがなく、乖離を前提に共通の思いをどのくらい増やすかが大切なことです。
その出発点は、相手を変えることではなく、自らが変わることです。
これに関しては以前書いたことがあります。
http://cws.c.ooco.jp/communication1.htm
「コミュニケーション」という言葉が、あまりに安直に使われている風潮には違和感があります。

「追い込まれる」ということに関しては、以前、「自殺のない社会づくりネットワーク」を立ち上げた時に、自死遺族の人から、この表現では「自殺者」が責められているように感ずると言われました。
以来、「自殺に追い込まれることのない社会」という表現を使うようにしています。
それを思い出しました。

もうひとつ思い出したのは、たとえば、「秋葉原通り魔事件」の加藤さんのことです。
彼もきっと「追い込まれていた」のでしょう。

人はだれも、他者に迷惑などかけたくないはずだ、ルールも守りたいはずだと私は確信していますが、そのルールが破られる理由は2つあります。
ルールが悪いか、追いやられるかです。
そして、それは重なっています。
絶対のルールなどありませんから、どのルールに従うかは、時に矛盾します。
ISの行為がいかに理不尽に見えても、その世界の人には、理に合ったルールなのでしょう。
日大アメフト部のルールがあって、それが宮川選手を追い込んだ。
世間一般のルールと日大アメフト部のルールの、どちらを守るべきか。
そこで、自分が見えなくなる。
加藤さんもそうだったのかもしれません。
宮川選手と加藤さんを並べることには異論を持つ人が多いでしょうが、私にはつながって見えてしまいます。
さらに言えば、そういう人はたくさんいる。

だからこそ、宮川選手へのシンパシーは高まるのでしょう。
しかし、そこにも私は危うさを感じます。

念のために言えば、宮川さんの記者会見直後に書いたように、私は宮川さんの記者会見に感激しましたが、それはこういうことを明らかにしてくれた勇気にです。
宮川選手がやったことは、やはり彼自身が自覚しているように、きっちりと償われなければいけません。
宮川さん自身のためにも。

さらに加えれば、世界には多様なルールがあります。
しかし、一番大切なのは、自らのルールです。
納得できないルールに、毅然として「ノー」というためには、自らのルールが必要です。
ルールは思考停止の道具ではなく、よりよく生きるための思考を支援する道具です。
ですから、ルールは時には破られてこそ、意味がある。
マニュアルと同じように。

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2018/05/27

■カフェサロン「日本国憲法の、何を変え、何を守るのがいいのでしょうか」報告

湯島では、憲法議論はこれまで何回もやりました。
でもどうもすっきりしません。
そこで今回は、抽象的な議論ではなく、「日本国憲法の、何を変え、何を守るのがいいか」について、それぞれの意見を出し合おうという呼びかけをさせてもらいました。
休日にもかかわらず、また国会前でのデモなどもあったにもかかわらず、12人の人が集まりました。
残念ながら女性は1人だけでした。
生活保護家族の子どもたちに関わっている女性です。
こういう人が参加してくれるのが一番うれしいです。

呼びかけの主旨を受けて、最初に意見を述べてくださった方は、「天皇条項」を最初の1条に置いたことを問題にしました。
そして、先の戦争では同じ敗戦国だったドイツとイタリアの憲法が、それぞれ「人間の尊厳」や「国民主権」を第1条に掲げていることを紹介してくれました。
それと12条も問題にしました。
憲法で保障する自由および権利は、「国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」という条文です。
同時にその条文は、公共の福祉のために(自由と権利を)利用する責任を負うということを決めています。
福祉に関わっている女性は、生存権を規定している25条を守りたいと指摘しました。
「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という条文です。
その2項では、それを保障するための国の責任が明記されています。
彼女は、12条の「国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」には肯定的な意見でした。
私は、第11条を一番守りたいと言いました。
「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」というところです。
その基本は、13条の「すべて国民は、個人として尊重される」ことではないかと、自分で憲法改正を書いて出版している人が補足してくれました。
これに関連して、日本国憲法には、人権原則と統治原則が献愛しているという指摘もありました。

憲法の一番大切なのは「前文」だと思うという指摘もありました。
それに関連して、日本国憲法は理念とルールが混在しているという話も出ました。
アメリカ憲法はルール的な内容であり、理念は独立宣言などに謳われているという話も出て、「憲法とは何か」というような議論もちょっと出ました。
英米法の世界では、「国のかたちを規定する理念」と「統治のためのルール」を合わせて、「憲法」であり、条文としての成文憲法だけが憲法ではないとされますが、「日本国憲法」をそういう意味で、もう少しゆるやかに捉えることも必要かもしれません。

9条に関しては、もちろん議論の対象になりました。
自衛隊は憲法違反かどうか、戦争をする権利は国にあるのか、自衛戦争ではない戦争はあるのか、などという議論はありましたが、みんな「平和」でありたいという思いは一緒だと思います。
しかし、平和を実現するための方法がまったく正反対なわけです。
私自身は、それはそもそも「平和」の捉え方が間違っているからだと思っていますが、今回はあまり深入りしませんでした。

司法の問題も出ました。
司法の頂点にいる最高裁長官は内閣の指名により天皇が(形式的に)任命すると憲法6条で規定されています。
つまり行政が司法のトップを決めることができますから、日本では三権分立にはなっていません。
そのために、砂川判決のような「統治権最優先」が可能になり、政府による違憲行為を止める法あくがなくなったわけですが、そこをただすべきだという指摘がありました。

98条の「憲法は国の最高法規」であって、その条規に反する法律、命令などは、その効力を有しないという条項も議論の対象になりました。
条文にはないですが、憲法違反者は厳罰に処せられることを明記すべきだという指摘もありました。

具体的に条文が出てきたのはこのくらいでしょうか。
メールでは、地方自治や財政原則などに関する意見ももらっていましたが、紹介はさせてもらいましたが、地方議員がいなかったこともあり、話題にはなりませんでした。

そもそも今の日本国憲法は文章が整理されていなくて、読んでもわからないことが多い。
もっと誰でもわかるような平明な文章に治してほしいという指摘がありましたが、これはたぶん参加者みんなの意見でもあるようでした。
しかし、だからと言って、いまの憲法を変えなければいけないということでもないと思っている人も半分くらいいたように思います。

まだまだいろんな意見が出ましたが、話題の選択も含めて、以上の報告は私の主観的判断がかなり入っていると思います。
参加者によっては、受け取り方も違っていると思います。
しかし、改めて、こういう憲法を話し合う場が、広がっていくといいなと改めて思いました。

憲法をテーマにしたサロンは、誰かやりたい人がいたら、随時開催していこうと思います。
話したい人がいたら、気楽にご連絡ください。

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■節子への挽歌3871:自分を自由に放し話し合える場

節子
昨日は憲法について話し合うサロンでした。
10人を超える人たちが集まりました。
いつもどうしてみんな参加してきてくれるのか不思議です。
節子と一緒にサロンをやっていた時も、いつも思っていたことです。
その理由が知りたくて、サロンを続けているというのもあります。
理屈では説明はできるのですが、その説明にはあまり自分でも納得できていません。
どうして人は集まるのか。

サロンが終わっても、みんななかなか帰ろうとしません。
昨日も、4人の人が残って、サロンとはあまり関係のない話を始めました。
それがまた盛り上がってしまい、サロンパート2になってしまいました。
明後日の企画書づくりが気になっていましたが、まあ仕方がありません。
それにサロンも、なにやら私が呼びかけたような内容にはならなかったような挫折感があり、今回もまた疲労感が残りました。

この頃、改めて感ずるのですが、どうも私の呼びかけはうまく伝わっていないようです。
そして、テーマではなく、話し合う場を求めているのが、多くの人の本音のような気もします。

Kさんは、ここでは、よそでは話しにくいことを何でも話せそうなので、今日も自分の思っていることを話したいと言って、話しだしました。
言い換えれば、よそではあまり「話したいことを話せない」社会になっている。
それに気づいていなのは私だけなのかもしれません。

もっとも湯島で話し合っていることが、そんなに特別のことかと言えば、私にはそうは思えません。
誰かに聞かれて問題になりそうな話など、出たことはありません。
密談や謀議などあろうはずもありません。
ただ、原発に反対とか、憲法9条を変えたくないとか、官僚は嘘ばかりつくようになったとかいう話の発言者として特定されるのが危険だと多くの人は思い出しているのかもしれません。
そんな気配が社会に充満している気配は、私でも感じます。

だから、湯島のような匿名の場で話せるところに人が集まるのかもしれません。
ある人が、ここはまだ目をつけられていないだろうからと言っていましたが、みんな何を不安がっているのでしょうか。
そのことの方が、私には異常です。

しかし、人はだれも、自分を自由に放し話し合える場が必要なのかもしれません。
私にとって、それは節子との話う場でした。
隠し立てはなく、話しながら自分でも気づかない自分に出合うような関係は、節子を置いてはありませんでした。
その節子がいなくなり、私も最近は完全には自分を開放していないのかもしれません。
それが10年つづいているので、どこかに何かが蓄積されてきているために、最近、なにか身心が重いのかもしれません。

昨夜、そんなことを考えながら、いつのまにか寝てしまいました。
そのせいか今朝もあまりすっきりしません。
しかし、今日もとてもいい天気です。
畑に水やりに行ってこようと思います。

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2018/05/26

■節子への挽歌3870:時間がないことに気づきました

節子
昨日、会社の決算をしました。
最近はきちんとした活動をしていないので、ほとんど収入もなければ支出もありません。
ですから1日で年度決算書が作成できます。

今期も残念ながらわずかとはいえ赤字でした。
また債務が増えてしまいました。
まあ現在の収入状況では、事務所維持すら困難ですから、仕方がありません。
遺産も入る可能性はないので、どこかで頑張らないといけません。

以前、会社の経理は節子の仕事でした。
税理士事務所と契約していたのですが、その窓口が節子でした。
節子は、家計簿もつけない人でしたので、苦手でしたが、良くやってくれました。
しかし、なんで忙しいのに収入がなくて、支出ばかりなのかと、言われていました。
税理士からは、もう道楽はやめてくださいと言われましたが、道楽などしていたことはありません。
税理士にとっては、無償の仕事引き受けは道楽になるようです。
しかし、時に予想以上の対価をもらうこともありました。
それで結果的に会社は継続できたのです。

いまは節子もいませんし、税理士との契約も解除しました。
なにしろ以前のように税理士と契約したら、その契約金だけで会社収入のほとんど消えてしまいます。
それで今は私が一人で、1日で年度決算をしてしまうわけです。

会社を解散してもいいのですが、ちょっと債務が残っているので、勝手にはつぶせないと以前に税理士から言われたので、そのまま継続していますが、今年は対価をもらえるビジネスに、久しぶりに取り組もうかと思っています。
しかし、もう10年以上、そうした活動をしていないので、いささか迷いはあります。
そのプレゼンテーションを来週の月曜にする予定なのですが、昨夜、その準備が全くできていないことに気づきました。
今日はサロン、明日は有機農場見学が予定されていて、時間があまりありません。

それで今日は、午前中の畑行きは止めて、企画書づくりです。
明日も午前中は時間があるので、その続きです。
さてさて、しばらくビジネスをしていないと、やはり感覚がずれてきています。
いやはや、困ったものです。
クライアントに迷惑をかけてはいけませんので、いまだ少し迷いがあります。
引き受けたら、少し生き方を変えないといけないですから。

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2018/05/25

■節子への挽歌3869:「意味」を考えてはいけないこともある

節子
「生きる意味」をテーマにしたサロンの報告で、私が参加者の発言に失望して、疲れてしまったと書いたのですが、それを読んだある人が、メーリングリストにこう投稿してきたのです。

今晩は。 佐藤さんの、ヘルプメッセージのような?メールに、 参加もしてないのに、状況も解ってもなく。 なぜ生きるのか?について、大好きな絵本があります。 佐野洋子作、絵「100万回生きた猫」です。 絵本なのですが、読みごたえがありました。 読んでるうちに、泣けてきました。 土俵が、随分、ずれてたら、すみません。

「100万回生きたねこ」は、40年以上前に出版された佐野洋子さんの絵本です。
大きな話題になり、いまもまだたぶん増刷がつづいているのではないかともいます。
ミュージカルにもなっています。
ちなみに私は、まったく面白くありませんでした。
どうしてあんなに話題になったのか理解できませんでしたが、いまもって読まれているようです。
薦めてくださった方には申し訳ないのですが、今回、改めて読んでもやはり退屈でした。

物語の大筋は、誰かに依存して、何回も生まれ変わって生きていた猫が、恋をして家族を持ち、大切な人を亡くすことで、はじめて愛を知り悲しみを知る、そしてもう生まれ変わることはなかったという、輪廻転生と解脱の話です。
しっかりと自分を生きないといけないと死ねないよというかたちで、生きることと死ぬことは同じことというような意味も含意されています。
そこに「生きる意味」のヒントがあると思う人もいるのでしょう。
私にはピンときませんが。

今回、ついでに、この絵本を契機に生まれた「100万分の1回のねこ」という、アンソロジーを読みました。
3年ほど前に出版された本です。
これはとても面白かったですが、なにかみんなくらいのです。

「生きる意味ってなんだろう」などと考えると、人はどうも暗くなるのではないか。
そんな気がしてしまいます。
「生きる意味」などあるはずがない。
「意味」を考えてはいけないこともあるのではないか。
それが私の最近の考えです。

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■節子への挽歌3868:畑で2時間

節子
畑がだいぶ「畑らしく」なってきました。
節子がやっていた頃にはまだたどりつけていませんが、来年にはかなり近づくでしょう。
しかし逆に庭の方はまったくひどい状況のままです。

今日は午前中みっちりと畑仕事でした。
少しずつ耕しはじめていますが、1時間やっても、ようやく畳2畳分くらいしか畑ができません。
まあそれほど状況が悪いからです。
しかし笹竹の成長速度はすごいです。
横で見ていると伸びているのがわかる気がするくらいです。

いまのところ、キュウリ、トマト、ナス、みょうが、ピーマン、蕗などが植えられていますが、まだなかなか安定しません。
第一陣のカボチャは全滅しました。

一方、家のプランターに種をまいたキュウリと茄子は、たくさん芽を出しました。
これをどうするか。
これを育てたら、それこそ大変です。
農業に取り組むというのは、いろいろと考えさせられることが多いです。

その上、畑の野草をさっぱりしたら、前年の野菜の芽が出てきました。
たぶん大根か青菜類ですが、これを刈り取るべきかどうか迷います。
畑と付き合うのは大変です。
でもそのおかげで、体調はいいです。

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2つの記者会見は矛盾していないように思います

日大アメフト反則行為事件で、宮川選手と内田監督・井上コーチの、それぞれの記者会見の発言が真逆だというような報道がほとんどです。
内田・井上両名は、宮川発言を全否定したと報道している新聞やテレビ出演者もいます。
私はかなり丁寧に記者会見をテレビで視聴したつもりですが、双方の発言には致命的な矛盾はないように思いました。
見方や捉え方が違うだけで、とても整合性があり、事実がよりよく見えてきた気がします。

報道関係者も視聴者も、両者が「敵対」しているという前提で、勝手に物語をつくっているような気がします。
誠実に、内田さんや井上さんの発言を聞けば、宮川さんの発言をむしろ補強しているようにさえ、私には思えます。
井上さんは、明確に「宮川選手は嘘をついていない」とも言っています。
誰か個人を悪者にしているだけでは、気持ちはすっきりしても、問題は解決しません。

双方の言い分を要素分解し、それを時系列に並べて行ったら、その発言の真意も見えてきて、全体像はかなり明確になってくるはずです。
そしてそこからこそ、事実や課題が見えてくる。
発言を最初から「正しいか嘘か」と見るのではなく、双方の違いから、事実を説いていく姿勢が大切ではないかと思います。

日大アメフト部の現役選手が動き出したようですが、マスコミが彼らをまた「使い込む」危惧を感じます。
しかし、宮川会見は、こうしていろんな動きを起こし出しました。
大きな変化は、いつも小さな変化から始まります。
こうした動きが、若者の世界を超えて、官僚や政党や企業や自治体にも、波及していくことを願います。
そのためにも、単純な敵対構図に基づく同調文化は打破したいです。

私には、宮川選手も内田監督も井上コーチも、同じ状況の中で、同じ行動をとっていると思えます。
そのことを一番よく認識しているのは、宮川選手のようにも感じます。

私は、いつも一歩退いて、マスコミ報道を捉えるようにしています。
国会中継をずっと見ていると、ニュースがいかに自分勝手に切り取りをしているかがわかります。
与えられた情報は、材料であって、それをベースに自分で考える姿勢を大事にしたいと思います。
マスコミはまさに「フェイクニュース」を創ってきている。
それは、いまのマスコミの限界かもしれません。
そう思って、マスコミ報道に接しています。


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2018/05/24

■節子への挽歌3867:不思議な出会いの日

節子
昨夜は30年程前にお会いした人と会食でした。
もう忘れていたのですが、5年ほど前に、あることで電話がかかってきました。
名前になんとなく記憶がったので、あの時のNさんですかと訊いたら、なんとそのNさんだったのです。
その後、その件で、お会いしたのですが、その時には何人かでお会いしたのでゆっくり話せませんでした。
私には、その人に確認したいことがあって、一度話したいなと思っていたのですが、今年、その人が副社長になったので、ちょっと会いにくいなと思っていました。
その会社の部長に偶然に会った時にその話をしたら、あの人は気さくな人だから大丈夫だと言って、秘書を通じて連絡してきてくれたのです。
私は基本的には、主流から外れてしまっているので、有名になった人とは距離を置くようにしていますが、今回はその人の接待を受けてしまいました。

その会食の場が、池袋のメトロポリタンホテルにある中華料理屋さんでした。
その人との話はとても示唆に富む楽しいもので、あっという間に3時間近く話し込んでしまいました。

実は、前にも一度書いたような気がしますが、池袋のメトロポリタンホテルにはいささかつらい思い出があるのです。
その地下1階に、免疫療法で有名な帯津さんのクリニックがありました。
節子は癌が再発してから、そこに何回か通ったのです。
もう10年以上たつのに、ホテルのロビーや入口は同じ雰囲気です。
ですから、前もそうでしたが、着いた途端にすべてが思い出されてしまうのです。

ロビーでは、官足法の施術の説明をしてもらったこともあります。
1階のロビーは、その時の状況のままのような気がします。
私の記憶違いかもしれませんが。

Nさんが私の講演を聞いたのが、Nさんとの出会いでした。
当時は私は、日本の企業のあり方を変えていきたいという夢を持っていました。
御殿場の経団連のゲストハウスで合宿だったのですが、夜の懇親会でNさんの悩みに少しは役立つ話をしたようで、それでNさんは私を覚えていてくれたのです。
そして不思議なことに、その会社がある事件に巻き込まれた時に、これも偶然に私が少し役立つことができたのですが、そのプログラムのためにNさんは呼び戻されたようです。
Nさんにとっては、大きなプロジェクトの時に、なぜか私とのささやかな接点があったわけです。
あの時うまくいかなければ、いまの私はないかもしれないと、Nさんがボソッと言いました。
人の出会いは本当に不思議です。

さらに話しているうちに、思ってもいなかった共通の知人がいたのです。
早速、その人に今日報告しました。
その人も驚いていました。

昨日は不思議な出会いの日だったのです。

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■日大アメフト反則行為事件に思う事その2

日大アメフト反則行為事件に関連して3つの記者会見がありました。
被害者の父親、加害者本人、そして日大関係者です。
それを見て、改めて文化の違いを実感しました。

とりわけ強烈だったのは、日大アメフト部の内田監督と井上コーチの記者会見でした。
たぶん日本国中ブーイングで、その報道の仕方も強烈です。
しかし、私自身は内田監督や井上コーチの心境も、それなりに理解できます。

ですから、内田さんと井上さんを一方的に非難する風潮にはやはり違和感を持ちます。
そして、立場が弱くなった途端に、姿勢を変えるマスコミと、それに同調する「大衆」には恐ろしさを感じます。
宮川選手を生み出したのが、日大アメフト部の文化なら、その日大アメフト文化を生み出したのが何なのか、そして、私もまたそれに遠くではつながっていることを、それぞれがしっかりと認識して、批判したいものです。

それ以前に、森友・加計学園、官僚の記録文書の意図的廃棄などの方にこそ、そのエネルギーが向かってほしいものです。
内田さんと安倍首相を比べたら、私には安倍首相の言動の方こそ、大きな問題ではないかと思っています。

私は「文化の違い」を理解しあえていないことが問題ではないかと考えています。
違った文化であることを理解しないと、会話は成り立たない。
それを踏まえて、問題を考えていかないとすれ違いと非難のやり取りで終わってしまうからです。

私は昨今のスポーツのあり方には強い拒否感があります。
スポーツ産業化を感じています。
最近のスタイルのオリンピックには賛成できません。
オリンピック産業に便乗する人たちとは別の世界に住んでいるので、彼らを否定はしませんが、共感はできません。
また、芸能やスポーツの分野で、親が子どもを一筋に集中させることにも嫌悪感を持っています。
先日、湯島でやった「児童労働」とどう違うのかと思うことさえあります。

企業や政治も同じですが、そうした文化そのものを考え直すべきではないかと思っています。
せめて、その次元で、お互いに分かり合って、より良い方向を一緒に創りだす。
それが大切ではないかと思います。

異論にも耳を傾けて相手を理解するとともに、自らの考えを相対化しようと言いたいのです。
相手を責めてばかりいる姿勢には共感はできません。
格闘技はもちろんあまり好きではありません。
射撃などがスポーツと言われると拒否感が生まれます。

国会デモのシュプレヒコールは、私には安倍首相の空疎な答弁や今回のラフプレーに通ずる「暴力性」を感じて、最近はその種のデモには参加できなくなっています。
「デモ」とは何かも捉え直したい。
力に対して有効なのは力ではないと思っています。
核抑止論否定論者で、ガンジーのスタイルに共感します。

最近では、文化の多様性が消えて、ほぼみんな「金銭経済の文化」に取り込まれていることに大きな危惧を感じます。
働き方改革法案の問題設定にも基本的に違和感があります。
働き方ではなく、生き方を見直すべきではないのか。
そもそもライフ・ワーク・バランスや男女平等参画と言っている発想を見直すべきではないかとも思っています。

書きだすときりがないほど、現代の社会には違和感があります。

蛇足ですが、内田監督や井上コーチを一方的に非難するテレビタレントにも、哀しさを感じます。
彼らはまったくリスクを取っていない。
もっと怒りを持つべき対象が、自分の世界にもあるだろうと言いたい気分です。

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2018/05/23

■節子への挽歌3867:場所のちから

節子
湯島に来ると何やら開放感を味わえます。
私にとっては、間もなくここを開いてから30年が経ちますが、私を育ててくれて場所でもあります。
ここにはいろんな思い出があり、この部屋にいると思い出がランダムに浮かんできます。

この部屋を見つけてくれたのは、都庁のCIプロジェクトの事務局だった市川さんです。
市川さんは最近交流がありませんが、どうしているでしょうか。
エネルギッシュな方でした。
何やら急に会いたくなりました。

実は今日も、久しぶりにお会いする人がいます。
たぶんこのオフィスを開いた頃で、まだそれなりに仕事をしていたころにお会いした方です。
いまは某大企業の副社長になっていますが、何か急に会いたくなって連絡したら、時間を取ってくれました。
夕食をご一緒する予定です。
歳のせいか、思い出して急に会いたくなる人は少なくありません。

ところでこの場所ですが、なぜかここに来るとほっとするという人が少なくありません。
来月も北九州市の人が、湯島で会いたいと言ってきました。
彼も昔は東京出張時にはよく湯島に来てくれました。

湯島でのサロンは、安心して本音で会話できます。
なぜそうなったのか。
たぶんここに来てくれた2000人近い方々が、この場の記憶を育ててくれたのでしょう。
そういうたくさんの人たちのエネルギーを感じます。

ありがたいことです。

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■節子への挽歌3866:時にぼやきたくなります

節子
最近、朝の目覚めの時に、なんとはない不安感におそわれます。
不安というよりも、虚無感というべきかもしれませんが、なんとなくすっきりしなくて、そのまま節子の位牌の前でぼやくこともあります。
最近心を改めて、この挽歌では、できるだけ前向きに書こうと思いながらも、時にぼやきたくなることがあります。

たぶん同じような状況から抜け出られないままの人も少なくないと思いますが、思考が弱まった時に、そういう状況に気づきます。
以前は楽しかったことが、楽しくない。
いや楽しいのですが、どこかが違うのです。
なにか核が抜け落ちたようで、楽しいのに楽しくない。

節子がいた頃はどうだったでしょうか。
朝目覚めると、今日は何をやろうかという思いでワクワクする。
いまも、今日は何をやろうかとは考えますが、なぜかわくわくしない。
そのままだと滅入ってしまうので、節子の位牌に向かった、後に遺された大変さをぼやくわけです。
他の人にはあんまり知られたくないですが、わかってもらえる人にはむしろ知られたいという、これまた奇妙な気持ちなのです。

きょうもついついぼやいてしまった。
10年以上たっても、まだこのありさま。
困ったものです。

さて今日はがんばろうと思って、電話を見たら留守電や不在着信がいくつか入っていました。一人に電話したら、出た途端に、「遅い!」と叱られました。
その一声で、今日もまたはじまりました。
こうして、もう11年近くがたったわけです。

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■文化の違いが生みだす不幸

最近つくづく「文化の違い」を感じます。
多様な文化は、豊かさを生み出すと考えている私にとっては、同時にそれが、「不幸」を生み出すことに気づかされるのは、いささかさびしいことです。

たとえば、今回の日大アメフト反則行為事件。
昨日の実行者宮川さんの記者会見を見ながら、みんな「被害者」かもしれないと思ったのです。
それまでは内田監督に強い拒否感を持っていましたが、その気持ちが逆に薄れました。
問題は、それぞれの「文化の違い」なのだと思ったのです。

たとえば、狛江市のセクハラ辞職。
たぶん市長には「セクハラ」という意識はなかったでしょう。
それが「セクハラ」だと言われそうですが、ハラスメントとは「文化の違い」から生まれるのかもしれません。
ある文化の「常識」が、別の文化では「悪事」になる。

こうしたことはいくらでも出せるでしょう。
文化の多様性は、ある意味では「生きづらさ」を生み出すのかもしれません。
つまり「自由」こそが「生きづらさ」の原因にもなりうるわけです。

今日の朝日新聞の「声」(投書欄)に、12歳の中学生の山口君が『あこがれた「自由」は苦しかった』と投稿しています。
彼は中学校の入学式で「この学校には拘束はありません」と言われてうれしかったそうです。
それまで通っていた小学校には、厳しい校則があったからです。
しかし、校則がない環境で生活していくうちに、「自由は苦しい」ということに気づいたそうです。
湯島のサロンでも、同じようなことの体験談が語られたことがあります。

ちなみに、山口君は、今の心境も書いてくれています。
「いまは、苦しいかもしれないけれど、これからこの自由の中で色々なことを学び、早く自由を心から楽しめるようになりたいです」

もしかしたら、日本の育児や教育の世界は、順序を間違えているのかもしれません。
そのために、自発的な自己規制や主体性が育つ前に、管理的な規則(指示)遵守姿勢が育ってしまうのかもしれません。
多様な感性を持っていると悩むことも多いですが、機械の部品になれば、悩むことはありません。
「生きる力」とは何でしょうか。

オルテガは「大衆」の時代への危惧を指摘しました。
ネグリは、「マルチチュード」(群衆)の可能性を指摘しました。
可能性があるのであれば、それを信頼するというのが私の信条です。

ちょっとした「文化の違い」を、増幅させるのではなく、その根底にある共通性から、私は学びたいと思います。
そういう意味では、昨今のマスコミの姿勢には大きな危機感があります。
まるで全体主義国家時代のような報道姿勢には違和感を持ちます。

「文化の違い」を活かし合う、豊かな社会を目指したいです。
宮川さんも、狛江市長も、とても大切なことを学んだことでしょう。
私もまた、彼らと同じように、そこから学びました。
彼らは、いずれも象徴的な存在として、大きなメッセージを発してくれていますので。
宮川さんにも内田さんにも、狛江市の市長にも、感謝しています。
私の言動も質さなければいけません。

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2018/05/22

■節子への挽歌3865:死の不幸は遺された人の不幸

節子
訃報が届きました。
節子の友だちの倉敷のTさんのパートナーです。
病院関係のお仕事をされていて、私も何回かお会いしています。
活動的なご夫婦でしたので、おふたりでよく旅行もされ、わが家にもご夫妻で来てくれたこともあります。
お似合いの、カップルでした。

最近、有名人の訃報も多いです。
私自身は、訃報にはあまり感ずることはなくなってきていますが、ひとりの人の死は、その周りにたくさんの物語を生み出していることでしょう。

朝丘雪路さんもなくなりましたが、夫の津川雅彦さんが、自分の方が先に逝くのではなくてよかったと話していました。
津川さんも、本当は自分が先に逝きたかったでしょう。
でも朝丘さんの状況を考えれば、津川さんの思いはよくわかります。
いいご夫婦だったのでしょう。

どちらが先に逝くかは、夫婦に限らず、とても大きな意味を持っています。
訃報を「ご不幸があった」などと表現しますが、あれは「残された人の不幸」を言っているのであって、亡くなった方のことではないことに最近気が付きました。
だれもが避けられない死は不幸ではありません。
不幸なのは、「順番を違って、先に逝かれてしまうこと」なのでしょう。

私も、順番と違って、遺されてしまいました。
その「不幸な死」方、まだ抜けられずにいます。

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■節子への挽歌3864:畑らしくなってきました

節子
畑がだいぶできてきました。
昨日はきゅうりとトマトと茄子を植えて、添え木もつくりました。
第一弾にとりあえずの仮植えて物は苦戦していますが、そのおかげで少しずつ畑部分が広がっています。
適度の労働で体調はいいです。
身体のかゆみはまだ治っていませんが。

畑で見つけた卵ですが、友人のアドバイスでホッカイロを入れて保温しながら保存していますが、何しろ殻が一部壊れてしまったので、孵化は難しそうで、状況は日々悪化しているようです。
でもまだ埋葬する気にはなれずにいます。

かゆみの原因となったドクガの幼虫ですが、最近はむしろ敵対視しています。
以前は、草のあるところにわざわざ逃がしてから草刈りをしていたのですが、それが禍したようです。

花壇もだいぶ整ってきました。
数日前に蒔いた花の種も芽が出始めていますが、花壇の上の方にアジサイを移植しました。
今日はオミナエシなどを植えようと思います。

しかし失敗もあります。
昨年苦労して移植した琉球朝顔がだいぶ伸びていたのですが、うっかり笹竹を切る時に根っこから切り取ってしまいました。
まあこういう失敗はよくありますが。

今日も朝早くから畑に行きます。
初夏のように晴れ上がった、いい天気です。
世間がどんなに乱れても、この天気は変えられないでしょう。
やはり信頼できるのは、太陽です。

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2018/05/21

■カフェサロン「世界は変えられる!子どもがそう信じられる社会に」報告

日本子どもNPOセンターが、ブックレット「児童労働、NPO/NGOのチャレンジ」を出版したことのお知らせもかねて、そこで取り上げられているNGOフリー・ザ・チルドレン ジャパン(FTCJ)の代表の中島早苗さんをゲストに、サロンを開催しました。
このタイトルにとても魅かれた私としては、たくさんの人で会場が大丈夫かなと実は心配していました。
実際には参加者は13人でしたが、半数は日本子どもNPOセンターの関係者で、ある程度問題を知っている人たちでした。
やはり「児童労働」というテーマは身近には考えてもらえないのかと、少し残念な気がしました。

フリー・ザ・チルドレンジャパン(FTCJ)については、案内文に書きましたが、次のサイトに紹介されています。
http://www.ftcj.com/

現在、世界には約1億5000万人の児童労働者数がいるそうです。
5歳から17歳の子どもたちの10人に1人が、義務教育を十分に受けられない状況に置かれているということです。
こうした状況を変えていこうと思い立ったカナダの12歳のクレイグ少年がはじめたのが、「フリー・ザ・チェルドレン・プロジェクト」です。
クレイグ君は、実際に各地の児童労働の現場に行き、悲惨な児童労働の実状を目の当たりにします。
問題はとても大きく、子どもである自分に何ができるだろうか。
彼を勇気づけたのは、マザー・テレサの「若者には世界を変える力がある」という言葉でした。
そして、今やクレイグ少年の活動は、世界に広がる大きな運動になってきているのです。

中島さんは20代の時に、アメリカでこの活動を知って、1999年に日本で活動を始めました。
知った以上は何もしないわけにはいかないというのが中島さんの気持だったようです。

クレイグさんや中島さんたちは、「自分にできることを、自分に関心のあることに活かせていけば社会は変わる」と考えています。
人は誰でも「贈り物」(Gift 才能)をもらっている。
そのGift(才能)を、社会の気になる問題(Issue)に向けていこう。
そうすれば世界は変えられる。
“Gift+Issue=Change”。
好きなことを活かして変化を起こそう!世界を変えることは自分を変えることだ、というわけです。
その信念に基づいて、できるだけ多くの子どもたちに、それを実感できる場を創っていこうというのが、中島さんたちの活動です。
そして、そうした体験をした子どもたちは、変わっていく。
そして世界も変わっていく。
とても共感できる活動です。
「世界は変えられる!」と、子どもたちが信じられる社会になれば、世界は変わっていくでしょう。

お話を聞いた後、いろんな話が出ました。
まずは、家族労働と児童労働とは違うという話がありました。
家族が支え合って、子どもの頃から家族と一緒に働くのは、むしろ肯定されるべきかもしれません。
教育を受けられずに、文字が読めないことが生命にかかわってくる事例も話題に出ました。
ご自分の体験から、他国の文化に関わっていくことには慎重でなければいけないという意見も出ました。
豊かな日本の子どもたちよりも、経済的に貧しい国の子どもたちのほうが、目が輝いているという話もありました。
またNGOだけでは限界があるので、行政も巻き込んだ方がいいのではという意見もありました。
大人たちが、そうした子どもたちを応援することも重要だという指摘もありました。
たぶんみんなそうなのだと思います。

しかし私は、やはり「子どもたちが主役になって動き出したこと」に、新しい時代のはじまりを感じました。
その一方で、日本の子どもたちの置かれている状況はどうなのだろうかと思いました。
さらに日本の大人たちはどうだろうか。
「世界(社会)は変えられる」と思っている大人たちはどのくらいいるのだろうか。
いろいろと考えさせられるサロンでした。

ちなみにクレイグさんたちの活動は、名称を“WE movement”と変えていますが、アメリカ各地で“WE day”という子どもたち主役の集まりをやっています。
ネットで動画が見られますので、ぜひご覧ください。
https://www.facebook.com/pg/WEmovement/videos/?ref=page_internal
中島さんたちは、3年後に日本で “WE day”を開催したいと考えています。
そのために資金的な支援を含めて、この動きをたくさんの人に知ってほしいと考えています。

未来は子どもたちが創っていきます。
しかし、大人も、その子どもたちを支援することはできます。
“Gift+Issue=Change”は、大人たちにも当てはまります。

フリー・ザ・チルドレンジャパン(FTCJ)のサイトをご覧になって、何かできることが見つかったら、ぜひ応援してください。
http://www.ftcj.com/
私も、「世界は変えられる!」と、改めてまた確信しました。
元気が出るサロンでした。

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2018/05/19

■節子への挽歌3863:人は「つながり」に支えられて生きている

節子
また身体がかゆくて、朝早く目が覚めてしまいました。
パソコンを開いたら、いろんな人からメールがはいっていました。
昨夜、いくつかのメールを発信していたからです。

このブログは、一時期、あまり書かなかったことで、アクセウス数が激減しました・
最初の頃は、時評と挽歌をそれぞれ毎日書いていたのですが、当時は毎日300~400のアクセスがありました。
時評編を時々しか書かなくなったら、200前後に低下しました。
それが、最近は100前後にまで減少しています。

先日、煙石さんが話題になった時には、1日1000を超えるアクセスがありました。
昨日も、ここでも書いた「九条俳句訴訟」の判決が出たので、少し増加しましたが、200には達しませんでした。
時評編を書けば、アクセスは増えるのですが、昨今の世情では、時評を書く元気がなかなか出てきません。
日本も「茶色の朝」になってきてしまった気がしてなりません。
しかし、だからこそ時評編を書くべきなのかもしれません。

しばらく音信がなかったイルカさんという、まだお会いしたことのない方から、先日、メールが来ました。
ブログを読んでくださっているとのことです。
そういえば、広島の折口さんも、たぶん読んでくださっているでしょう。
いずれもまだお会いしたことのない人です。
そういう、私も知らない方とつながっていることは、支えになります。

湯島のサロンでつながっている人たち。
ブログやフェイスブックでつながっている人たち。
人は「つながり」に支えられて、生きていると言っていいでしょう。

昨日、先日開催した第3回「生きる意味」サロンの報告をメーリングリストで発信しました。
いささかの疲労感と挫折感とちょっと怒りを含んだ内容の報告でした。
どうもそれが「ヘルプ」に受け取られたようで、早速、2人の人が反応してくれました。

ひとりはこう書いてくれました。

佐藤さん、私は楽しかったし、一緒にお誘いした○○さんも楽しかった!と言っていました。
何故楽しいか?ただ本音を言っている安心感と信頼感が楽しいだけです。
あまりあれこれ考えずに、自分の本音を自由に話すって楽しいです。
また人が自由に話すのもなんだか嬉しいし、面白いです。

もうひとりの参加していなかった方は、
なぜ生きるのかについて、大好きな絵本があります。
「100万回生きた猫」(佐野洋子作・絵)

と教えてくれました。

他にもうれしいメールが届いていました。
人のつながりに感謝します。

今日は雨なので、畑には行けそうもありません。
机に積んでおいてあるだけのフーコーを読もうと思います。

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2018/05/18

■第3回「なぜ生きるのか」サロン報告

「なぜ生きるのか」をテーマにした3回目のサロンを開催しました。
初参加の方も含めて、13人が集まりました。
このサロンは、これまで、それぞれの問題を解放し、どうしたらいいかなどを話し合うのが基本だったのですが、今回は、主客を逆転させて、誰かに助けを求めるのではなく、それぞれの人が、自分でできることを語りあおうという呼びかけをしました。
それは同時に、自らへの肯定感を強め、自らを認めることにつながると考えたからです。

最初は少しそういう方向に動きましたが、結局、いつものように、自らの問題を解放しながら、その問題をどうしたら乗り越えられるかというような話になっていきました。
私としては、毎回、同じ話を聞くわけですが、同じ話ばかりして、ここは慰め合うだけの場ではないと、意地の悪い発言をしたくなってしまいます。
それを言ったらおしまいなのですが、今回はそれを言ってしまいました。
感情に負けてしまいました。
案の定、参加者からは、きびしい抗議を受けました。

疲労感と挫折感が大きくて、報告を書けずにいました。
できたらどなたか、私をこき下ろす内容でもいいので、報告してもらえればうれしいです。

念のために言えば、参加者による、前向きの話もいくつかありました。
元気づける話もありました。
翌日、また続きをやりたいというメールももらいました。
懲りずに4回目をやろうかどうか、迷います。
サロンは、それなりに疲れます。

初参加の方は、少し戸惑われたかもしれません。
お許しください。

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■日大アメフト反則行為事件に思う事

日大アメフト反則行為事件が連日テレビをにぎわせています。
議論する以前の、あきれた話なので、事件そのものにはあまり関心はないのですが、肝心の日大アメフト部員が、内田監督体制に「ノー」を突き付けだしたという報道に、うれしいものを感じます。
体制にしたがうのではなく、ノーという動きが、ようやく出始めたかと期待します。
これは、もしかしたら、新しい時代の到来の予兆かもしれません。

愛媛県知事の、霞が関への「ノー」も元気づけられます。
誰が考えてもおかしな発言を繰り返す霞が関や永田町に、ようやく「ノー」を言い続ける知事が出てきたわけです。
いままでは、沖縄県知事くらいしか、「国家」と対峙してこなかった、日本の国のあり方が変わる予兆を感じます。

おかしなことはおかしいと言わなければいけません。
もし、それが言えないのであれば、それはもう「人間をやめていること」です。
最近では、いかに多くの人が、人間をやめてしまっていることか。

今回、実際に反則行為をやった選手は、3回もやっていますが、そこにある「メッセージ」も感じます。
彼は、もしかしたら、「抗議」を仕掛けたのではないかとさえ思います。

テレビの解説では、アメフトはフォーメーションプレーだと言われています。
今回の事件を見る限り、私には日大のチームの行動はフォーメーションプレーなどとは思えません。
監督の独裁プレーでしかありません。
フォーメーションプレーは、ひとりひとりのメンバーの主体性が大事にされてこそのチームでなければいけません。
人の存在しないフォーメーションプレーはありえません。

話がそれましたが、日大の学生たちのこれからの行動に期待しています。
自分たちで、自分たちの組織は変えていかねばいけません。
霞が関の官庁や大企業も、そうなっていけば、未来はきっと開けていきます。
社会を変えるのは、若者たちです。
日大の学生たちに、その希望の光を感じています。

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■節子への挽歌3862:庭の木の実

節子
また畑に行ってきましたが、竹藪的なところがまだ残っていたので、そこをまた伐採してきました。
昨日購入したゴムの手袋は、2日にしてぼろぼろになってしまいました。
いかに過酷な作業かがわかります。

今日は孫が来るので在宅なのですが、庭の整理はなかなか進みません。
ユスラウメとジュンベリーに実が付きだしました。
鳥の餌が少しずつ増えてきています。
先日見つけた鳩の卵は、あたたかな状況を維持していますが、孵化の可能性はあまりなさそうです。
もう少し様子を見ますが、逆に万一孵化したらどうするのかという難問が待ち構えています。

午前中はひとりで退屈なので、テレビをかけましたが、同じニュースばかりでますます退屈です。
かといって、何かをする気も起きず、本を読む気も起きず、中途半端な時間を過ごしています。
困ったものですが。

Yusura


Jun


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■節子への挽歌3861:居場所と逃げ場

節子
今日もさわやかな朝です。
出かける予定をやめて、今日も畑に行くことにしました。
最近少し湯島に行く回数が減ってしまいました。

報告をまだ書いていないのですが、15日に第3回目の「生きる意味」をテーマにしたサロンをやりました。
12人もの参加がありました。
それじたい、私には不思議なのですが、そもそも正面から「生きる意味」を考えている人がいるのでしょうか。
それでもこのサロンには常連までできてしまいました。
今回、このサロンをまたやろうと思い立ったのは、もう傷をなめ合うだけではなく、もっと真剣に自分に向き合って、誰かに救いを求めるのではなく、自らの中にある「誰かに何かをしてやる力」を見つけようというように、ベクトルを変えようとはっきりと言いたかったからです。
しかし、残念ながら、今日もまたいつもと同じような、自己開示サロンや抽象的なアドバイスサロンになってしまいました。
途中でいささか、ムッとして、いつもと同じではないか、と言ってしま合ったら、みんなから「冷たい目線」を向けられました。
開催したことを後悔しましたが、それでもいつものように気付きを得た人もいたようで、また4回目をやるかもしれないと思いました。

今回は初参加の方がいました。
1人は自らもサロンをやりたいという人ですが、あとの2人は生きづらさをかかえている人です。
そういう人の居場所にはなりたいのですが、注意しないと、そこで安住してしまうことです。
それではこのサロンが、マイナスに作用しかねません。
居場所づくりが、逃げ場づくりになってはいけません。
これはとても悩ましい問題です。

これは私にも当てはまります。
いまの畑づくりもそうですが、ときに逃げ場を探してしまうのは、人の常かもしれません。
注意しなければいけません。

さて今日は、その畑作りに行ってきます。
逃げ場に向かずに、居場所を広げるために。
今朝も鳥がにぎやかです。

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2018/05/17

■「先史学者プラトン」は世界を広げてくれます

月曜日の朝日新聞1面下の書籍広告欄で、國分功一郎さんが、「大胆な議論をぜひ楽しんでもらいたい」と、「先史学者プラトン」を推薦していました。
それで読んでしまいました。
30年ほど前の著作ですが、日本では今年になって翻訳出版されました。

プラトンと先史時代といえば、アトランティス大陸を思い出しますが、本書の著者はアトランティス大陸ではなく、大異変後の大きな戦争の痕跡に焦点を当て、人類の定住や文化の原型に関して、考古学と神話をつなげながら語ってくれます。
いささか複雑で全体像がすっきりしないのですが、これまでの常識とは大きく違った全体像がおぼろに見える気がします。
古代アナトリアのチャタル・ヒュユク遺跡の話がとてもていねいに書かれていますが、今から7500年ほど前にこんな建物と生活があったのかと驚きました。
エジプトやシュメールの文明はどこから来たのか、今も明確ではありませんが、その謎解きの一つの材料が、そこにありそうです。
1万年ほど前に、先史文明があったという議論はいろいろとありますが、そうしたものが消えてしまったのは海岸線の上昇のためとも書かれています。
当時の文明は消滅し、辺鄙な山奥の文明が辛うじて残り、それが復活したのが、古代文明というわけです。

もうひとつ興味深かったのは、ゾロアスターの役割です。
現代のいわゆる三大宗教のすべてに関わっていることが示唆されています。
いやそこから「宗教」とは何かという問いさえ感じられます。

イラストも豊富で(ほんとかなという疑問を時々感じながら見ましたが)、論理を超えて強烈な印象を受けました。
そのおかげで、日本の市松模様もアナトリア発だったのだと、洗脳されてしまいました。

おまけとして、プラトンの『ティマイオス』と『クリティアス』の関連個所抜粋がついていますので、私も初めて読みました。
これが実に面白いです。

國分さんがいうように、大胆な議論を3日間、楽しませてもらいました。
退屈している人には、お薦めの1冊です。
ディテールに引きずり込まれると、大胆な議論は楽しめないので、要注意ですが。

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■節子への挽歌3860:花は、不思議な力をもっています

節子
ユリの香りが届いていますか。
先日の母の日に、ジュンが大きなユリを届けてくれました。
ユリは、私も節子も大好きです。
特にその香りが2人とも好きでした。
わが家の仏壇にはお盆でも仏花は供えません。
葬儀の時にも、できるだけ仏花的でないものをと頼んだのですが、ダメでした。
ですから、その後も基本的には華やかで明るい花を選びます。
実はいつも命日に節子の友人たちが花を送ってくれるのですが、その時だけはちょっと気が重いのですが、ちょっと仏花的になってしまいます。
そうした気持ちはなかなか伝えるのが難しいです。
人に花を送るのは難しいものです。

私も以前、一度だけ、お花を持っていったことがあります。
大宰府に住んでいる、節子も知っている若い女性が亡くなったのですが、そこに花を持って行ったのです。
花選びがこんなに大変なことなのだということを、その時初めて知りました。
たぶん私が自分で選んでアレンジしてもらった、最初にして最後の花束でした。
節子には、ついに花束を送ったことはなかったのですが、いまは位牌の前に置く花は、それなりに気を付けています。
まあ実際に買ってくるのは娘たちですが、ふたりとも私たちの好みをよく知ってくれています。

玄関のバラが満開になりました。
節子の時代に比べれば、半分以上ダメにしたと思いますが、庭もだいぶ花が咲きだしました。
花が咲くと、やはり心が明るくなります。
花は、不思議な力をもっています。

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■節子への挽歌3859:畑の竹やぶがようやく刈り取れました

節子
多大な犠牲を伴った家庭菜園予定地の笹薮刈りがほぼ完了しました。
上からみた今日の夕方の状況です。

上側が道に面した斜面の「花壇予定地」です。
ここはまだ完成していませんが、先日一部に蒔いた花の種の芽が出始めました。
しかし同時に、それ以上の成長速度で、以前そこを支配していた篠笹や野草が成長しています。

畑予定地は、一応、全面制覇しましたが、数日放置していくと元の木阿弥になりかねません。
笹のタケノコがいたるところに生えだして、集めたら食べられるのではないかと思うほどです。
1日に5センチくらい成長します。
藪の中に放置されていた鍬やシャベルも出てきました。
もちろんもう使用できないほど壊れていますが、昔を思い出します。

いよいよ本格的な畑作りに入りますが、鍬で耕す作業は一番きついのです。
なかなかやる気が出てきません。
とりあえず仮植えしておいた野菜は、あまり元気がありません。
まわりは一応耕したのですが、うねをつくらなかったので排水が悪く、几帳面に水をやったのが逆に禍になったのかもしれません。
風がともかく強いところなので風に負けてしまったのかもしれません。
特に、カボチャは、なぜか虫に葉っぱが食べられて全滅に近くなってしまいました。

今日からきちんとした長袖とゴム手袋を着用するようにしたので、皮膚への被害はなかったようです。
今日もたくさんの虫に出合いました。
大きな毛虫がとてもたくさんいました。
アゲハではなく、蛾かもしれません。
5センチほどの黄色い毛虫に10匹以上会いました。

明日からいよいよ耕し出します。
花壇には芝桜やマツバギクを植えようと思っています。
節子がいたら、いろいろといい知恵が出てくるのでしょうが。

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■明日、5月18日に、「九条俳句訴訟」の高裁判決が出されます

明日、5月18日に、「九条俳句訴訟」の高裁判決が出されます。
これからの私たちの社会を方向づける、大切な判決だと思います。
それに合わせて、訴訟関係者たちによって「九条俳句訴訟と公民館の自由」(佐藤一子/安藤聡彦/長澤成次編著 エイデル研究所)が緊急出版されました。
ぜひ多くの人に読んでいただきたいとともに、18日の判決にも関心を持っていただきたくて、ホームページやブログで本の紹介をさせてもらいましたが、フェイスブックでも紹介させてもらうことにしました。

さいたま市のある公民館の俳句サークルで選ばれた秀句が、いつもなら掲載されるはずの「公民館だより」への掲載を拒否されるという事件(2014年6月)は、覚えている方も多いでしょう。
その対象になった俳句は、「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」。
その句が、「社会教育の政治的中立性」という理由で、行政から掲載拒否されたのです。
俳句の作者と仲間たちは行政に異議申し立てし、その支援者も広がりだしました。
しかし、市民と行政との話し合いは、うまくいかずに、訴訟にまで発展し、「九条俳句事件」として今なお争われているのです。
一審で敗訴した行政は控訴し、高等裁判所による控訴審の判決が、明日の5月18日に出されます。

俳句サークルの人たちやその応援団の人たちは、この数年、社会教育法をはじめ、さまざまなことを学びながら、「おかしなことをおかしい」と主張してきました。
問題を広く知ってもらうための公開イベントなども開催してきました。
新聞やテレビでも取り上げられましたので、湯島のサロンでも話題になったことはありますが、私は、そんな動きが広がっていることさえ知らずに、最近では忘れてしまっていたことを大いに反省しました。

本書は、こうした「九条俳句訴訟」事件のドキュメタリーです。
自治体から突然、理不尽な圧力を受けた女性たちが、それに抑えられることなく、正面から対峙し、公民館で住民が学び続ける意味を再確認するとともに、表現の自由を守る活動へと広がっていった経緯が、事件に関わったさまざまな人たちの「思い」も含めて、立体的に紹介されています。
本書から、この事件から見えてくる最近の日本の社会の「あやうさ」と、実践活動を通してのメッセージが伝わってきます。

原告作者は「もう70年前の様な時代に逆戻りは絶対ごめんです」と、2015年7月の提訴にあたっての呼びかけ文に書いています。
また、かつて公民館職員だった方が、ある事件に関連して、かつて社会教育と政治の関係について次のように述べていたことが紹介されています。
「私たちの生活に関する話題は、そのほとんどが政治にかかわることだといっても過言ではありません。政治にかかわる事柄が、政治的だという理由で公民館活動のなかで禁止されるとしたら、人間の自己教育活動としての社会教育は成立しなくなってしまうのではないでしょうか。」

まったく同感です。
俳句の掲載拒否の理由はいうまもなく『九条守れ』が問題視されたのです。
そもそも憲法を遵守しなければいけない行政職員が、憲法を守れということに否定的という、それだけも公務員の倫理責任に反するようなことが堂々とまかり通るようになっている現実は、変えていかねばいけません。
一人でも多くの人に本書を読んでいただきたいと思います。
6月には、本書をテーマにしたサロンを湯島で開催する予定です。

ちなみに、私は、昨今の「社会教育」のあり方に大きな違和感があります。
時代状況が変わる中で、「社会教育」(学校教育もそうですが)の捉え方を変えていくことが必要だと思いますが、一度できた枠組みはそう簡単には変わりません。
いまだに、統治視点からの行政主導の「与える社会教育・与えられる社会教育」、「国民の意識を高める(国民教化)ための教育型の活動」が中心か、もしくは自分の趣味を広げる(つまりある意味での社会性を抑え込む)「生涯学習型の社会教育」になっているような気がしてなりません。
しかし、社会がここまで成熟し、人々の意識や生き方が変わってきている中で、そろそろそうしたあり方を見直し、むしろ方向性を反転させて、私たち生活者一人ひとりが主役になって、「お互いに学び合う社会教育」「まちや社会を自分たちで育てていく社会創造型の活動」にしていく段階に来ているのではないかと思います。
それは同時に、私たち一人ひとりの社会性や市民性を高めていくことでもあります。

そこで、3年ほど前に、「みんなの社会教育ネットワーク準備会」を友人たちと立ち上げました。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2016/02/post-04b2.html
しかし残念ながら、その試みは挫折したまま、今もって動き出せずにいます。
本書を読んで、改めてまた、社会教育のベクトルを反転させた「みんなの社会教育ネットワーク」も、再挑戦しようと思い出しています。
共感して下さる人がいたら、ぜひご連絡ください。


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■節子への挽歌3858:ドクダミ効果

節子
笹薮との戦いのためか、手足などに湿疹が出てきてしまいました。
かゆくてどうにもなりません。
皮膚科に行こうかと思いましたが、有機農家の金子さんのアドバイスを思い出しました。
そういう時には、野草を3種類、すり合わせて、その液をぬると言い。
ドクダミがあれば、ドクダミだけでもいい。
それで皮膚科に行く前に、ドクダミの葉をすりこんでみました。
そうしたら効果があったのです。
かゆみが軽くなり、皮膚科に行かないですみました。
もちろん完全にかゆみがなくなったわけではありません。
何しろ身体中ですから、手が届かずにすりこめないところもあるのです。
しかし、農家の人の知恵には感心しました。

ところで、肝心の畑と花壇ですが、いささか最近疲れてきました。
今日も朝早く起きていくつもりだったのですが、また某所から銀行の残高が不足して引き落としできなかったので、直接振り込んでくださいと連絡がありました。
その工面をしているうちに、畑に行く元気がなくなってしまいました。
お金があるのも困りますが、ないのも時に困ります。

昨日、また野菜の苗を買ってきました。
ですから畑を耕して、苗を植えられるようにしなければいけないのですが、今日は風が強いので、畑行きはやめました。
まあ、こうやって理由を見つけて、作業をさぼるのは、素直に生きている私としては、やむを得ないことでもあります。
困ったものですが。

その代わりに今日は、ゾロアスター教の本を読みました。
かなり前に入門書を読んでいますが、「先史学者プラトン」を読んだせいか、その時とは全く違った印象です。
世界は、自らの知識(世界)によって、まったく違う風に見えるものです。

今日は在宅なのですが、午後は久しぶりにフーコーです。
節子もよく知っている柴崎さんが、毎日、少しずつフーコーの「言葉と物」を読んで、コメントを送ってきます。
それで私も読まざるを得なくなったわけです。
柴崎さんは、節子が知っているころと変わりません。
せっかくの知識と発想力が、他者に伝わらないのが残念です。

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2018/05/15

■節子への挽歌3857:ゾロアスター

節子
「先史学者プラトン」は、後半に入ったら、なにやら話が細かくなってきてしまい、退屈になってきたので後半は、200頁を一気に読み流してしまいました。
読むというよりも、見るという感じですが。
それでも今から75年ほど前に、ギリシアの遺跡とも見間違うようなチャタル・ヒュユクの遺跡の様子には、これまでの石器時代の認識が一変し、私の思っていた1万年前の世界のイメージがまんざらでもない気がしてきました。

最後に出てきたのが、ゾロアスターです。
ゾロアスターは気になる宗教です。

節子との最後の海外旅行はイランでした。
その時に、ゾロアスター教の拝火壇の廃墟の丘に登りました。
当時はまだゾロアスター教の知識も関心もほとんどなく、キリストが生まれた時になぜゾロアスター教の博士がお祝いに来たのかも、深く知りませんでした。
ニーチェがなんで、ゾロアスターなのだということも、興味を深めるまでには行きませんでした。
ただ何となく秘儀的な物に関心があっただけでした。

「先史学者プラトン」を読んで、改めてゾロアスター教に関心が出てきました。
著者によれば、先史時代に大きな役割をはたしたもののようです。
つまり人類の発展の方向に影響を与えた可能性があるわけです。

火はふしぎなものです。
毎朝、ロウソクを上げながら、そう思います。

Zoro1


Zoro2


Zoro3


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■節子への挽歌3856:畑のやぶの中から卵が見つかりました

節子
昨日の夕方、帰宅してから畑に行きました。
開墾作業の続きで、笹竹のやぶを刈り取る作業です。
これが意外と大変なのです。

小一時間の作業の最後に、藪の中に卵を見つけました。
鶏の卵と同じ大きさで、泥で汚れていましたが、かなり固い感じでした。
それで、誰かが投げ込んだおもちゃかと思っていましたが、汚れていたので水をかけて洗おうとしたら、ピシッと音がしてひびが入りました。
生きた卵でした。
笹薮の奥の方なので、鳥はあまり入れないはずです。
それでヘビの卵かと思いましたが、それにしては大きいのです。
鳩でしょうか。
昨年、わが家の庭木に卵を産んだキジバトの卵と同じ大きさです。

さてどうするか。
ひびが入ったので、もう孵化はしないでしょうか。
選択肢は5つ。
このまま放置するか、なんとか孵化の努力をするか、卵焼きにして食べてしまうか、カラスの餌にするか、埋葬するか。
しかし、第6の方法として、わが家の庭に持ってきて、あんまり目立たないところに、明日の朝まで置いておくことにしました。
夜中に、タヌキかネズミか猫か、あるいはカラスが来て、なかったことにしてくれるかもしれません。

そのことをフェイスブックに書きました。
そうしたら、殻が破れても孵化する可能性はあるのだそうです。
それを教えてくれた人が、20日に湯島に行くから、それまでひと肌程度の温かさで保管しておくようにと言ってきました。
さてさて大変なことになってしまいました。

朝起きて庭に行ったら、たまごはまだありました。
なかったことにはならなかったのです。
もう少し見えやすいところに置けばよかったです。
それで、なんとかあたたかさを維持しながら保管することにしました。
おっかなびっくりです。
なにしろ「生きている存在」ですので。

節子はまた、鳥になって戻ってくると言っていました。
まさかこの卵ではないでしょうね。
なにやらおかしなことになってきました。

Tamago


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2018/05/14

■節子への挽歌3855:晴耕雨読

節子
昨日は午後から雨のために畑に行けませんでした。
代わりに自宅のプランターに、ナスときゅうりの種をまきました。
芽が出るでしょうか。
以前はいつも苗を買ってきましたが、今年は種から始めようと思います。

雨だったので、午後は久しぶりに読書をしました。
本を読んでいますが、横道の読書は久しぶりです。
この数日、本を読む気があまりしなかったので、畑仕事のせいか、読むが戻ってきたのです。
読みだしたのは、少し古い本ですが、今年になってようやく翻訳出版された「先史学者プラトン」です。
副題が「紀元前1万年-五千年の神話と考古学」です。
新聞に国分功一郎さんが紹介していたので、気になっていたのです。
プラトンと歴史と言えば、いうまでもなくアトランティスの話ですが、本書はそこに示されている寓意を読み解いているのです。
まだ半分しか読めていませんが、とても面白く、パウサニアウ・ジャパンの友人たちにも知らせたくなりました。

というわけで、昨日はまさに晴耕雨読でした。
昨夜も雨だったので、畑はぬかるんでいますので、午前中は読書をしていました。
でも晴れてきました。
晴耕雨読であれば、読んでいるわけにはいきません。
今日は在宅の予定なのですが、畑はまだ無理そうなので、庭の手入れをしようと思います。
われながら実に健康的な生活です。

ちなみに昨夜は身体がかゆくて目が覚めていましたが、朝起きてから、友人に教えてもらったように、3種類の野草をすってかゆいところに塗ってみました。
見事にかゆみは消えました。
生活の知恵は、歴史の中で積み重なってきているのです。
神話から学ぶことも多いです。
「先史学者プラトン」は時間と精神に余裕のある方にはお薦めです。

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2018/05/13

■節子への挽歌3854:早朝から畑です

節子
最近、私が畑開墾作業に従事していることを知って、いろんな方が心配してきてくれます。
家庭菜園ならともかく、開墾作業ですから、大変だろうと推察してくれるのです。
そして、帽子を忘れるな、水は切らすな、長袖のシャツを着ろ、暑い時は避けろ、ほどほどにしろ、などといろんなアドバイスをくれます。
ありがたいことですが、いずれのアドバイスも、なかなか守れません。
手作業ではなく、耕運機を刈ったらどうかという人もいますが、やはりそれは私の作法には合いません。

しかし、そういうアドバイスをしっかりと守っていないせいか、身体はいささかボロボロです。
身体のかゆみは未だ消えませんし、階段の上り下りが時に辛いです。
それに加えて、新しい不都合が発生しました。
首がうまく動かないのです。
動かすとどこかに違和感があり、痛みを感じます。
寝違いではありません。
昨日の午後からですから、畑仕事が影響していることはまちがいありません。

こういう書き方をすると、なにやら「大変」に受け取られそうですが、これはきっと何かをメッセージしてくれているのでしょう。
そのメッセージを読み解かねばいけません。

今日は5時に目が覚めました。
午後から雨になるようですから、午前中に畑仕事に行く予定ですが、首の痛みがちょっと気になります。
それに昨夜、血圧を測ったら、また高くなっていました。
しかし、今日は朝から鳥たちがよくさえずっています。
朝食の前に畑に行こうと思います。
はやく畑に植えられるように開墾作業をしなければいけません。
ついでに花の種も蒔いてこようと思います。

独りで行くのはさびしいですが。

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2018/05/12

■節子への挽歌3853:畑と花壇が少しずつかたちになってきました

節子
数日ぶりに畑に行ってきました。
昨日もらった苗を植えるためです。
もっとも畑はまだ完成していないので、とりあえずの仮植えです。
それでも大変でした。

写真を撮りました。
なんだかよくわからないでしょうが、この一角が「畑らしく」なった部分です。
刈り取った笹は廃棄せずに野菜のまわりを覆うといいと言われたので、そうしたため、すっきりした畑には見えませんが、まあこれがまもなく、きっと、いやたぶん、あるいはもしかしたら、見事な野菜畑になるでしょう。

道沿いの斜面は少し花壇らしくなってきました。
先日、ユカに蒔いてもらったひまわりと百日草が芽を出していました。
今日も、斜面の篠笹の根っこを少しずつ切っていたら、通りかかった高齢の女性が、精が出ますね、となつかしい言葉をかけてくれました。
その道を毎日散歩しているそうです。
以前はきれいな花壇でしたので、楽しみにしていますと言われてしまいました。
うれしいことですが、大変なことになったとも言えます。
毎日、水やりに来なければいけなくなってしまいました。

というわけで、今朝は朝から汗をかきました。
帰宅して血圧を測ったら、なんと136/79です。
昨日は、196/105でした。
「酢たまねぎ」を毎日食べ、呼吸法も脚の運動もしています。
しかし一番効果的なのは、どうも野草や土とのコミュニケーションのようです。

今日の午後は、我孫子まちづくり編集会議の集まりです。
戻ったら、また畑です。
兼業農家になった気分です。

Hatake


Hatake2


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■コムケアサロン「介護者になること、遺族になるということ」のご案内

6月は宮田さんをゲストに、「ケア」の本質を考えるコムケアサロンを開催しますが、併せて、実際問題にどう向き合うかに焦点を絞ったコムケアサロンも開催します。
それも視点を少し広げて、「介護者になること、遺族になるということ」を切り口にして、「coping」という手法を駆使して、実践的に課題解決に関わっている千葉さん(一般社団法人コレカラ・サポート代表)にお話をお願いしました。

千葉さんからのメッセージです。

「coping」とは“課題に向き合うこと”です。 介護者や、人が亡くなったあと遺族となった人は、様々な課題を抱えることになります。 そこには、誰もが知るような表面的な悩みもあれば、当事者も気づくことが難しい内面的に 隠れた悩みもあります。 高齢期における当事者と、支えになる人を包括的に支援するには、 どのように向き合っていけばよいのでしょうか? 今までコレサポは、遺族支援や介護者支援の様々な現場で「coping」を実践してきました。 このセミナーは、今まで経験してきた「coping」の事例をご紹介します。

こんな感じで、サロン前半で千葉さんからお話をしてもらい、後半はそれに基づいての話し合いを考えています。
千葉さんは、copingセミナーも定期的に開催していますが、そのエッセンスも今回紹介していただけると思います。
具体的な相談などお持ちの方は、相談を持ち込んでいただいても結構です。

copingの考え方や手法に触れるだけでも、きっと何かの気づきを得られると思います。
みなさんの参加をお待ちしています。

○日時:2018年6月10日(日曜日)午後2~4時
○場所:湯島コムケアセンター
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○話題提起者:千葉晃一さん(一般社団法人コレカラ・サポート代表理事)
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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2018/05/11

■節子への挽歌3852:親切を受けるのは大変です

節子
大変なことになってきました。

私が畑作業を復活させたことを知った小学校時代の友人たちが、いろんな苗や参考書を湯島に届けてくれたのです。
前回も、いろいろと持ってきたのですが、今回は大丈夫だろうと思っていたら、前回以上です。

ひとりの友人は数年前から家庭菜園をやっているのですが、フェイスブックで、私が開墾作業をやって畑ができてきたのを知って、そこに植えたらいいということで、手間暇かけずに育つものを選んで、たくさん持ってきてくれたのです。
自分の畑から抜いてもってきてくれたようで、いずれももうかなり成長しています。
なんと大きなキャリーバックとビニール袋に詰め込んできてくれました。
なぜか大きな山椒の木までありました。
前回も5種類の苗を持ってきてくれましたが、今回は放っておいても大きくなるものを選んだと言っていましたが、責任重大です。
家が近ければ、畑にまで来そうな勢いです。

もうひとりの友人は、「有機・無農薬でできる野菜づくり大事典」を持ってきてくれました。
彼女の伴侶の霜里農場主の金子美登さんの著書です。
金子美登さんは、前にも書きましたが、有機農業のパイオニアです。
その本も大判で重かった上に、酢タマネギとかレタスとか、いまが一番おいしいスナップエンドウとか、いろんな野菜まで持ってきてくれたので、帰りは昔常磐線で見かけた野菜を売りに都心に出ていた人のような感じでした。

なんとか苦労して持ち帰りましたが、植える元気がなく、明日に持ち越しましたが、これで畑作業もますますさぼれなくなってしまいました。
親切なのですが、困ったもので、もう十分だからあんまり持ってこないでよと言いましたが、こういうのは性分ですので、先行きが心配です。
しかし、いろんな知恵もさずかりました。
かゆみの原因は、ぶよで、その対策も教えてもらいました。
それと笹や刈り取った野草は捨ててはいけないと叱られました。
笹は土の上に敷くとか枝は支えにするとかいろいろと使いようがあるのです。
今日、みんなで食べたバナナの皮も、肥料にするからと言って、金子さんは持って帰りました。
この精神が、有機農家の精神なのだと教えられました。

実は今日は、湯島で新しい集まりをやろうという相談のはずだったのですが、あまりにも無知な私への入門講座にもなりました。
その上、何か私にはついていけない韓流ドラマの話や家族の話などにも広がりましたが、新しい企画もまとまりました。
霜里農場で実習した有機野菜農家の人に野菜を持ってきてもらい、「有機野菜の旬を食べる会」を定期的に開こうというものです。
できれば、そういう人たちのゆるーいネットワークが生まれればもっといいです。

節子がいたら、きっと一緒にやってくれたでしょうが、私はただ食べるだけの参加になるでしょう。
それにしても高齢女性の元気は見上げたものです。

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■カフェサロン「いまの政治でいいのだろうか」へのお誘い

「茶色の朝」サロンの4回目です。
このサロンは、フランスで話題になった、社会が茶色一色で染まっていって、気がついたら自由のない生きづらい社会になっていたという寓話を描いた「茶色の朝」を読み合うことから始まったサロンです。
「茶色の朝」は短い寓話で、日本でも翻訳されていますし、またネットでも全文が公開されていて、次のサイトから無料で入手できます。
http://www.tunnel-company.com/data/matinbrun.pdf

私たちのまわりにある、「ちょっと気になっていること」を話し合いながら、誰もが気持ちよく暮らせる社会に向けて、それぞれができることを考えていくような場として、このサロン(茶色の朝、brown morning salonの頭文字をとってこれからBMSカフェと呼びます)を継続的に開催していこうと思っています。
政治の捉え方はいろいろありますが、みんなが暮らしやすい社会を実現することが大きな目的であるならば、政治は私たちの生活に深くつながっています。
にもかかわらず、「政治」にはあまり関わりたくないと思っている人も少なくありません。
現在の政治についての話し合いさえしたがらない傾向があります。
しかし、消費税も憲法改正も、社会保障も教育行政も、私たちの生活に深くつながっています。
生活者である私たち自身が、しっかりと関心を持ち、意見を表明していくことは、政治をよくしていく上でとても大切なことです。
このBMSカフェでは、自分の生活に影響を与えるような社会のあり方に関心を持ち、ちょっと気になることがあれば、まわりの人と話し合ってみる。
そんなかたちで、少しずつ政治とのつながりや社会のあり方も話し合えるような場を目指したいと思います。

今回は、ちょっと「いまの政治」を少し話し合えればと思います。
いまの政治でいいのだろうか?
3人の子どもの母親で、専業主婦の方に日頃思っている疑問などを話してもらい、それを入り口に、それぞれが持っている疑問を投げかけるサロンにできればと思います。
誰もが気楽に話し合えるお茶会のような感じで、気楽にご参加ください。

中学生から高齢者まで、さまざまなお立場の方に、ぜひご参加していただければと思っています。
まわりの方もお誘いいただければうれしいです。

○日時:2018年6月12日(火曜日)午後2~4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:いまの政治でいいのだろうか?
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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■嘘をつく人に振り回されたくありません

昨日、柳瀬さんの国会での参考人発言が中継されていましたが、見ませんでした。
そもそもなぜ「嘘をつく人」を国会にまで呼んで大騒ぎしなければいけないのか。
一度嘘をついた人は、謝罪して嘘を認めない以上、さらに嘘を重ねていくしかありませんし、そもそも嘘をつく人の意見に耳を傾けること自体に、意味はないと思います。
佐川さんの証人喚問の時、テレビの報道をずっと見ていて、残念ながらそのことを再確認しました。
だから今回は見ませんでしたし、録画もしませんでした。
柳瀬さんが嘘をついていることは、子どもであれば誰もわかるでしょう。
認めないのは、自らも嘘をつくことを知った大人だけでしょう。
柳瀬さんには、親身になって諭してやる家族や友人はいないのでしょうか。
佐川さんの時もそうでしたが、柳瀬さんの写真を見るといつも同情を禁じ得ません。

テレビのサンデーモーニングで先週、田中秀征さんが、柳瀬さんは誠実な人で、自分のために発言しているとは思えない、というようなことを話されていました。
この発言には驚きました。
「自分のためではない?」
田中さんも同じ穴のムジナなのかと、がっかりしました。
柳瀬さんの言動は、どう考えても保身のためとしか思えませんが、そうは見えてない人もいるわけです。

嘘をつく人を相手にするのは、もうやめたほうがいい。
嘘をつく人たちから、政治を取り戻したいですが、いまや政治の世界は嘘つきしか活躍できないのかもしれません。
保身のための嘘で、どれだけの国税が浪費されていることか。
嘘をついたおかげで国税庁長官になれるような社会では、嘘をつくことが奨励されるようになっていくでしょう。
税金を払いたくなくなる人も増えかねません。
脱税とか税務申告漏れも「嘘つき行為」でしょうが、官僚や政治家たちの「脱税的嘘」が、もっと厳しく糾弾されないと、嘘が美徳の社会が来てしまいかねません。

15年ほど前に、ホームページに「嘘の上に成り立つ社会のありように疑問を持ちましょう」というメッセージを書きました。
その頃の危惧がまさに現実になってしまったのがさびしいです。
http://cws.c.ooco.jp/messagefile/messagekiroku.htm#m2

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■節子への挽歌3851:孫との付き合い

節子
寒いですが、今日はいい天気になりそうです。

昨日も2歳になった孫がやってきました。
私の名前は、当初「むーしゃん」だったのですが、それを「おさむ」に変えようと働きかけをしたため、いささかの混乱が生じています。
なかなか言えずに、時に名前が出て来なくなってしまいました。
娘は「むーさん」のほうがよかったのではないかと言いますが、会うたびに「おさむ」を強調しています。
子どもにとって、同じものに名前が複数あるのは、とまどうのでしょう。
いまは「オシャむー」で、やはり「む」が大きい声になります。
最初の「試練」です。

昔、チョロQというミニカーがはやりましたが、それと同じ、床の上で、後ろに戻して離すとねじが巻かれて前に走りだすバスのおもちゃがあります。
孫はそれが不得手です。
後ろではなく、前に滑らそうとします。
前進のために後進させるなどというのも、素直な発想ではありませんから、当然のことではあります。

孫と付き合うと、こうした面白い気付きがたくさんなります。
昨日は庭で野草を摘み取っている時にやってきました。
孫の前で、野草を摘み取っていたら、娘から花を抜くようになるのではないかと言われました。
孫は花や草に触るのが大好きです。
しかし、やさしく触るように親に言われているせいか、ていねいに撫でています。
さてそうした行動とどう調和させるか。
これもまた面白い課題です。

孫と付き合っていると娘たちと付き合っていた頃のことを思い出します。
あの頃は、育児の苦労は節子に任せて、いいとこどりをしていたかもしれません。
節子は一切不満は言いませんでしたが、孫を見ていると育児の大変さがよくわかります。
孫と付き合う喜びを、節子が味わえないのが、とても残念です。
時々、節子の歓声を聞きたくなります。

孫が来るのはうれしいですが、たまには節子にも来てほしいです。

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2018/05/10

■煙石さんの冤罪事件が番組で特集されました

挽歌編でも書きましたが、時評編で何回か紹介した広島で起こった煙石さんの冤罪がテレビで取り上げられました。
30分以上のしっかりした報道だったので、かなり正確に伝わったように思います。
私は、煙石さんとは面識はありませんが、友人が最初から煙石さんの無罪を確信して、私にも教えてくれていたのです。
先入観を持たずに、事実をしっかりと聞くだけで、たぶん煙石さんの無罪は最初から明らかだったように思います。
しかし、実際には2回の裁判で有罪という結果になり、最高裁でようやく無罪になりました。
日本の裁判の位置づけや役割が、よくわかる裁判事例だと思います。

日本の裁判は、国民の生活を守ることを第一義にはしていません。
そう言い切れるのは、有名な砂川裁判で、最高裁は「統治行為論」を持ちだして、政府の下部組織であることを明言したからです。
当時の状況を考えれば、やむを得なかったのかもしれませんが、砂川裁判で、日本の司法は死んでしまったように思います。
同時に、それは、日本における「正義」を方向づけました。
今日も国会で参考人として証言した柳瀬さんのような官僚を生み出してしまったこととも無縁ではありません。
最近は少し揺らいでいるようですが、「一強体制」の恐ろしさは、三権分立で社なく、行政独裁にあるように思います。

今回の番組を見てもらった人には伝わったと思いますが、日本の裁判や警察は、国民の生活を守るためにあるわけではありません。
いとも簡単に、平和な生活を壊す暴力性を持っています。
以前、厚生労働省の村木さんの事件がありました。
彼女は、その体験を活かしてくれませんでしたが、それでも裁判の問題点をいくぶんか顕在化してくれました。
司法の世界はもっと透明性と公正性を求められるべきではないかと思いますが、ある意味では、司法の世界は、権力にとっては大切な機能ですから、そう簡単には民主化はできないのでしょう。

煙石さん家族は、冤罪は晴れたとはいえ、人生を一変させてしまったでしょう。
煙石さんの人生が戻るわけでもありませんし、いまなお冤罪だということを知らない人もいるでしょう。
冤罪というよりも、一度、逮捕されたり訴追されるだけで、人の人生は脆くも崩れます。
それだけのつよい暴力性を持っている裁判制度が、司法関係者によっていかにも恣意的に運営されていることへの恐ろしさを感じます。

しかも、こういうことは、誰にも起こり得ることです。
幸いに、煙石さんには伴侶と息子さんがいました。
信頼する友人もいたでしょう。
裁判や警察という「暴力装置」から自らを守るためには、そういう、絶対に信じてくれる存在が不可欠です。
それにしても、司法から身を守ることが必要だという状況は恐ろしい気がします。

私もいつ煙石さんのような状況に追いやられるかわかりません。
その日のために明言しておきたいと思いますが、私はどんな時にも、決して嘘はつきません。
柳瀬さんや佐川さんのような人間ではないことだけを、ここに誓って明言しておきます。
もし「犯罪」を犯した場合は、その責はしっかりと受けるつもりです。
ちなみに、私は「犯罪」を犯すことよりも、嘘をつくことの方が恥ずべきことだと思っている人間です。

この番組のことは、煙石さんの友人でもある折口さんから教えてもらいました。
私も多くの人に知ってほしくてフェイスブックで紹介したら、10人を超える人たちがシェアしてくれました。
そして番組を見た感想を何人かの人が送ってきてくれました。
私の過去のブログへのアクセスも昨日は久しぶりに1000を大きく超えました。
わざわざ電話をくださった人もいます。
ささやかに煙石さんへのエールになれて、とてもうれしいです。

煙石家族の誠実な対応に敬意と感謝を捧げます。
煙石さんの行動が、間接的ではありますが、私の生活を守ってくださったことは間違いありません。

しかし、不条理の多い時代です。

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■節子への挽歌3850:煙石さんの冤罪事件が番組で特集されました

節子
今日もまた寒い雨の日です。
冬物はしまってしまったので、何を着ていいかわからないので困ります。
幸いに今日は自宅なので、季節外れの床暖を入れて、縮こまっています。
パソコンのある私の部屋にはエアコンはありませんので、こういう時にやれることはテレビを見ることくらいです。

昨日放映された広島で起こった煙石さんの冤罪事件の番組を録画していたので、それをまず見ました。
やはり憤りがよみがえってきました。
私が日本の裁判に疑問を持ったきっかけは、映画「真昼の暗黒」を見てからです。
この映画は、実際にあった「八海事件」の冤罪性を訴えた映画です。
中学生だった私は、ひとりでこの映画を見に行ったのですが、映画館の帰り道、身体が震えて仕方なかったのを覚えています。
それで検事になろうと思い法学部を選びましたが、挫折してしまいました。
そのためずっと罪の意識があるのですが、日本の司法には疑念を持ち続けています。
知れば知るほどおかしいことが多いですし。

煙石さん家族は、これによって人生を一変させてしまったでしょう。
広島にいる友人から、この事件のことは1審判決後から関心を持っていました。
このブログの司法時評でも、あるいは私のホームページでも、何回か取り上げたことがありますが、煙石さんの人生をかけた闘いによって、冤罪を晴らすことができました。
しかし、冤罪が晴れたからと言って、煙石さんの人生が戻るわけでもありませんし、いまなお冤罪だということを知らない人もいるでしょう。
冤罪というよりも、一度、逮捕されたり訴追されるだけで、人の人生は脆くも崩れます。
それだけのつよい暴力性を持っている裁判制度が、司法関係者によっていかにも恣意的に運営されていることへの恐ろしさを感じます。

しかも、こういうことは、誰にも起こり得ることです。
節子とはよく話していましたが、そうした場合、身近に絶対に信じてくれる人がいるかどうかが大切です。
煙石さんには伴侶と息子さんがいました。
煙石さんを信頼する友人もいたでしょう。
裁判や警察という「暴力装置」から自らを守るためには、そういう絶対に信じてくれる存在が不可欠です。
節子がいない今、私は煙石さんのように頑張れるかどうか不安はあります。

この番組のことは、煙石さんの友人でもある折口さんから教えてもらいました。
私も多くの人に知ってほしくてフェイスブックで紹介したら、10人を超える人たちがシェアしてくれました。
そして番組を見た感想を何人かの人が送ってきてくれました。
ささやかに煙石さんへのエールになれて、とてもうれしいです。

しかし、不条理の多い時代です。

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■節子への挽歌3849:自らの死に出合う人のことも考えなければいけない

節子
毎週のように会っていた、節子もよく知っている武田さんが、1か月ほど前、しばらく著作活動に専念したいので、湯島の集まりなどはやめたいと電話してきました。
時折、彼とは意見の衝突があり、断絶することもあるのですが、今回はとりわけ意見の衝突もなく、一緒に武田さん中心の集まりなども始めたところだったので、少し違和感があったのですが、素直に受け入れて、予定していた集まりもキャンセルの連絡をして、しばらく縁が切れていました。

実はその後もらったメールに、「もう時間がないので」というような表現があったので、気にはなりました。
武田さんは、節子も知っているように、ちょっと健康上の爆弾を抱えています。
しかし、それが理由ではありませんでした。

一昨日、武田さんから突然電話があり、昨日、湯島で会いました。
私よりも元気そうでした。
会った途端に、疲れているようだね、と言われました。
まあその前に3時間ほど、ある人の相談に乗っていたのと、お昼を食べていなかったので、表情に元気がなかったのかもしれません。
あるいは、もっと大きな意味で、生きる気が薄れていたのかもしれません。
2人でちょっと遅い昼食をしました。
武田さんが、意外なことを言い出しました。

佐藤さんの死には出合いたくない。
親しくしているままで、佐藤さんの死には付き合いたくない、ということのようです。

親しい人が死ぬのは、たしかに辛いものです。
武田さんも一度、それを経験しているようです。
関係が次第に疎遠になって、いつか思い出して電話したら、佐藤さんがいなくなっていたというのがいい、と武田さんは言うのです。
たしかにそうです。
私も時々そう思うことがあります。
人との縁が深くなると、別れは辛い。
私が節子を見送って、10年たっても、生き直れないのは、あまりに縁を深めたからとも言えます。
友人がいなければ、別れの悲しみを体験することもない。
だから武田さんのいう意味は、よくわかります。

しかし、どうして武田さんは今、そんな気になったのでしょうか。
たぶん私も武田さんも、なんとなく死に近づいているのでしょう。
今回は、いつものように、政治論議なども含めて、いろんな話を3時間以上しましたが、いつもとはちょっと違った気がしました。

能天気に生きている私のことを、武田さんはいつも心配してくれています。
今回も、どうもしっかりとアドバイスしなければと思って、やってきたのかもしれません。
しかし、武田さんが何を言いたいか、それを私がどう受け止めるかなどは、お互いによく知っているのです。
だからそんな話にはなりませんでした。
しかし、そういう思いのやり取りはあったといえるかもしれません。
人は、言葉でしか話しているわけではありません。

なにやら不思議な時間でしたが、高齢になってきたら、人との別れを意識して生きていくことも必要なのだと気づかされました。
自分の死には出合えませんが、他者の死には出合いますし、何よりも自らの死に出合う人のことも考えなければいけないのかもしれません。

お互いにそういう年齢になったことを、武田さんは私に気づかせに来てくれたのでしょう。
感謝しなければいけません。
武田さんとの付き合いは、もう40年ほどになるかもしれません。

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2018/05/09

■宮田喜代志さんを囲むコムケアサロンのご案内

久し振りに熊本の宮田喜代志さんのサロンを開催します。
宮田さんは、コムケア活動が始まった時に、いち早くその理念に共感していただき、熊本で様々な活動につなげてくださった方です。
現在は、実に多彩な活動に取り組んでいます。
理念がしっかりしていると、実際の活動は限定されずにどんどんと広がっていくと私は考えていますが、宮田さんの活動を見ているとまさにその典型のような気がします。

従って今回は、特にテーマを設定せずに、宮田さんの生き方や最近の活動紹介、さらには宮田さんの今の関心事を中心に話しをしてもらい、そこから自由に話し合いを展開していきたいと思います。
といってもそれだけでは、宮田さんをあまりご存じない方には、雲をつかむような話ですので、宮田さんが最近特に関わっているであろうことを少しだけ紹介しておきます。
宮田さんは、昨年、タイ・バンコクでの子ども医療・療育と特別支援学校の視察調査に行ってきました。そこから、障害者福祉分野での国際協力の展望が聞けるかもしれません。
長年取り組んでいる「農福連携」の進展の話もたぶん出るでしょう。
宮田さんは、小規模多目的ホームの館長として福祉施設の経営に関しても豊富な体験をしていますので、そんなお話も聞けると思います。
私自身は、かなり「破綻」気味に生きている宮田さんの人生観に興味があります。
まあそんなわけで、何でもありの「宮田サロン」を企画したいと思います。
できれば、そうしたなかから、「ケア(支え合い)」の意味を考えられればと思っています。

宮田さんというお人柄に触れるだけも、きっと満足してもらえるサロンです。
ぜひ多くの人に参加していただきたいと思っています。

○日時:2018年6月5日(火曜日)午後7~9時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○話題提起者:宮田喜代志さん(小規模多目的ホーム明篤館館長・農福連携研究者)
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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■節子への挽歌3848:意味のない世界

節子
昨日につづいて、今日も寒い日になりました。
この3日ほどで気温が10度以上変化していますので、身体にも堪えます。
その上、今日は雨。

悟りを開くと世界はどう見えてくるのだろうかと、ふと昨夜思いました。
とても退屈かもしれません。
そこには「人」はいないかもしれません。
そんな気がしました。

最近、テレビのニュースを見ていても、そこにまったくと言っていいほど、意味が感じられなくなってきています。
しかも同じことを、着飾ったり、ぼやかしたりして、時間を埋めているようにさえ感じられることが多いのです。
人はなんでこんなことを話題にするのだろうかとも思います。

寒い雨のせいか、わけのわからない書き出しになりましたが、節子がいなくなってから世界の意味が一変してしまった後、やはり戻っていないような気がしています。
意味のない世界で、生きるのは結構退屈です。
しかし、生きつづけないわけにはいきません。
そこに矛盾があります。
自らを元気づけてはいますが、時に「堕ちて」しまう。
雨なのに、今朝はすぐ近くで鳥がさえずっています。
節子でしょうか。

今朝はちょっと不快なメールが、いくつか飛び込んでいました。
精神がなかなか安定しません。
昨日は意識を変えて、サロンの企画をいくつかまとめ、案内をつづけさまに2つも出したのですが、すっきりしません。
悟りとは程遠い状況です。
一度揺らいだ心は、なかなか元には戻らない。
支えによって何とか維持されてきていたことを、改めて思い知らされます。

やはり最近少し疲れているようです。
どうしたら抜け出せるでしょうか。
無彩色の世界に、いのちが戻るにはどうしたらいいのか。
ちょっとした「うつ」状態でしょうか。
困ったものですが、今日は元気が出ません。

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2018/05/08

■カフェサロン「柳兼子をご存知ですか?」のご案内

ちょっと知的なカフェサロンとして、柳兼子を取り上げることにしました。
柳兼子といってもご存じない方も多いと思いますが、民藝運動を起こした柳宗悦の伴侶で、声楽家としても有名な人です。
柳宗悦・兼子夫妻は、私が住んでいる我孫子市に7年ほど住んでいました。
柳宗悦の叔父にあたる嘉納治五郎(講道館柔道の創始者)の別荘が我孫子にあったのが縁ですが、さらにその縁で、白樺派の文人たち、たとえば志賀直哉や武者小路実篤などが我孫子に移住し、活動していた時期があったのです。

柳夫妻も含め、白樺派の文人たちが住んでいた名残は、いまもいろんな形で残っていますが、残念ながら、その人たちが我孫子でどんな暮らしをしていたかを知っている人は多くはありません。
民藝運動や白樺派、あるいは嘉納治五郎は知っていても、我孫子とつなげて考える人も多くないでしょう。

白樺派の文人たちが我孫子に住んでいたのは、日本が治安維持法に向かいだした時代です。
彼らの中にあって、時代にもっとも抗議したのが柳宗悦でした。
そして、それを支えていたのが、柳兼子です。
いまの時代状況を考えると、民藝運動や白樺派の活動から学ぶことはたくさんあります。

そんなことを踏まえて、我孫子時代の柳兼子についていろいろと調べている我孫子市在住の海津にいなさんに、柳兼子と白樺派の活動の話をしてもらい、いまの時代における私たちの生き方を話し合えればと思います。
なお、海津さんは、白樺派の女性芸術家としての柳兼子をNHKの朝の連続テレビ小説に取り上げてもらおうと活動していますが、多くの人に柳兼子を知ってもらうことで、海津さんの夢にも近づけたらと思っています。
できれば、参加者のみなさんにも、テレビドラマ化を実現するための知恵をもらいたいと海津さんは考えています。

海津さんの話がどこに飛んでいくか、いささか心配で、もしかしたら、ダ・ヴィンチにもつながるような話まで飛び出すかもしれません。
それくらい柳兼子の世界はとても広くて豊かなのです。

ぜひたくさんの人たちに参加していただければと思います。

○日時:2018年6月24日(日曜日)午後1時半~4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
○テーマ:「白樺派の女性芸術家・柳兼子をご存知ですか」
○話題提供者:海津にいなさん(国際理解NGO代表、筑波大学博士課程後期)
○会費:500円
○参加申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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■節子への挽歌3847:孫の2歳の誕生会

節子
孫の“にこ”の2歳の誕生日会に招待されました。
節子がいたらどんなに喜ぶだろうかと、いつも思います。
そのためか、こうしたお祝いが心底喜べないのが残念です。

にこは、毎日のように成長しているのがよくわかります。
育児に関しては、私は口を出しませんが、時代の違いか、どうも違和感はあります。
節子が元気だったら、どうしたでしょうか。

峰行の両親も元気そうでした。
お2人とも私よりも年上です。

年取ってからの孫ですので、私はどこまで付き合えるかわかりません。
そう思うと少しさびしさがありますが、まあたぶん一番かわいい盛りに付き合わせてもらえることでしょう。
本当は、親にも相談できずに悩みだす頃に付き合いたいのですが、その頃はもう私自身が、現世にいるとしても、頼りにはならないかもしれません。
まあ、その分、いま、いろんな人の相談に乗っていられるのかもしれません。
明日も相談したいというメールがあり、朝早くから湯島です。

にこは、今日、はじめて、お子様専用の自分のメニューを発注できました。
ケーキのろうそくも、見事に消していました。
毎日のように、言葉も増えているようです。
こうやって世代は交代していくのでしょう。
孫の成長ぶりは、自らの老衰ぶりの証でもあるのでしょう。
私もしっかりと老衰していかねばいけません。
時に忘れがちですが。

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■煙石博さんの冤罪事件がテレビで取り上げられます

広島で起こった煙石博さんの冤罪事件に関しては、ブログやフェイスブックで何回か書きこませてもらいましたが、5月9日(水)の午後9時からのTBS特番「一番だけが知っている」で取り上げられることになりました。
番組中、30分ほど、煙石時間が取り上げられるそうです。
お時間が許せば、ぜひともご覧ください。

友人経由で、煙石さんからのメッセージが届きましたので、ご紹介しておきます。
以下は、煙石さんのメッセージです。

最高裁での無罪判決が出て1年を過ぎましたが、失ってしまったものは、あまりにも大きく、壊されたグラスは元には返らない憤りと悔しさが消えません。少しでも私の人権の回復の為にならないかと色々バタバタしてはみますが、なかなか大変なものがあります。私の冤罪事件については、この3月にRCC中国放送が、無罪判決が出て1年として、特集で放送してくれましたが、これまで、東京の放送局から、ラジオ番組がひとつ、いくつかのTV番組から出演協力の依頼がありましたが、色々複雑な思いがあり、どれもお断りしてきました。

しかし、胸中には、常に私の身に降りかかったこの冤罪事件は、私だけの問題ではなく、同じパターンでこれがなされると、一般市民の誰でもが、いくらでも私の様な被害にあってしまうというそら恐ろしさを抱いておりました。再度、似た様な被害者が出て、自白したり、示談したりして人生を失い、泣き寝入りする事が無いように願うばかりですが、私の様な被害者が私の後に出ない為に、私の身に起こった、あってはならない真実を忘れて頂かない様にと思うのです。

ところが、「よかったですね。」と言って下さる方の中に、私の事件の顛末を詳しく知らない方もあり、具体的に真実を話すと改めて驚かれるのです。そんな訳で、身に降りかかった事件をかいつまんで私のホームページのブログの中に書いてきたもの(おととし2016年の10月頃から翌年3月10日最高裁の無罪判決が出る前まで書いています。)を改めてまとめて書きますと、・・・

私は身に覚えのない66600円の窃盗犯に仕立て上げられて、警察では証拠が無いのに信じられない理不尽な自白(お金を盗ってもいないのに盗ったと認めろという)を迫られ、検察では、「警察の間違いを指摘して下さい。」と私が懇願するのに、「盗ったか盗らないかは別にして、66600円に色を付けて、10万円位お金を払えば済むんです。」と、ひたすら示談を勧める検事に驚愕。結局、広島地裁と広島高裁での裁判は、正義と真実の女神(西欧の司法の歴史の中で、大切にされなければならない理念としてある様で、司法を勉強された方々は初学の頃習われるらしいのですが、)この正義と真実の女神の手足を縛って留置場に入れ、裁きの理論を構築していったようなもので、何が何でも有罪ありき(日本の司法は、逮捕、起訴されると有罪率99.9%という問題とされる数字は、それを物語っているものだろうと思います。)の裁判とは、有罪へのエスカレーターでした。

・・・私が体験した事を分かりやすく申し上げると以上の様になります。

それと、東京キー局への番組出演を複雑な思いの中にお断りしてきましたが、この度、TBSの特別番組で、東京で「行列のできる法律・・・」でよく知られている北村晴男弁護士が出演される「一番だけが知っている」という番組に、最高裁で無罪を勝ちとって下さった久保豊年弁護士とVTRで出演します(すでに収録済み)。制作スタッフも出来るだけ真実に基づいて番組作りをして下さる様ですが、とにかく、私の様な被害者が私の後に出ない事につながる様な内容となる様お願い致しました。

番組では、どなたかが私の役とそれぞれの役を演じる再現ドラマがあるそうです。そこは、ドキュメンタリーではないので、私の体験した真実通りではない部分もあるかもしれませんが、今後、私のような被害者が出ない事を願って、多くの方に見て頂きたいと思います。


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■節子への挽歌3846:気になっていたことがひとつ解消しました

節子
連休中に刈り取った畑の野草がごみ袋20くらいになりました。
今日は草木の回収日なので、その半分を出巣ために、ゴミを出すところまで5回ほど往復しました。
その時に、近くのYさんに会いました。
そこでずっと気になっていたことを尋ねました。
2階の窓が冬でも開いているのですが、なぜですか?
予想していた回答がありました。
夫がたばこを吸うんです、と。
最近はたばこを吸う人は苦労が多いようです。
できるだけ吸わせてやってくださいね、とまた余計なひと言を言ってしまいました。

戻って、窓があいているのはたばこのせいだそうだと、娘に話したら、そんなことを訊いたのかとまた呆れられてしまいました。
私は、気になったことがあるとすぐに質問してしまうという悪い習癖があるのです。
しかし、気になったことは当事者に訊くのが一番です。
それに訊かずにそのままにしておくことは、精神衛生上よくありません。
でもまあ、失礼にあたるのかもしれません。

節子がいた頃も、そういう質問をしたくなって、時々、尋ねてもいいかなとこっそり相談したこともありますが、いつもやめるように言われていました。
付き合いだしたころには、止める人もいなかったので、節子にはさぞかし失礼な質問をしていたことでしょう。
あまりにも馬鹿げた質問に受け取られることもあるので、怒ってしまう人もないわけではありませんでしたが、気になったことは質問したくなるのは私の悪癖なのです。
困ったものですが。

ちなみに、私はたばこをすいませんし、たばこの煙には弱いタイプです。
しかし、たばこを吸いたい人には、ゆったりと吸ってほしい気もします。
自分が快く生きたいのであれば、自分とは違う生き方をしている人にも、快く生きてほしいと思います。
自由を大事にしている私としては、いろんな生き方に寛容でありたいです。

しかし、最近は寛容になれない生き方も増えています。
とりわけ昨今の政治家や著名な人の生き方は、私にはどうもなじめません。
節子がいたら、どうでしょうか。

しかしまあ、今日は気になっていたことが一つ解消したので、さっぱりしました。

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■節子への挽歌3845:仏様からのメッセージ

節子
富山のIさんからメールが届いていました。
四国遍路の一部を5日間、回ってきたそうです。
最後に会った仏さまが、力の抜けた顔をして、頑張り過ぎるなよ、とでも言いたげに感じた、と書いていました。
彼女は、いつも一生けん命に生きているために、疲れてしまうのです。
疲れると湯島にまで来てしまうのですが、力を抜いていきたいと思っていることが、きっと仏様の表情に出たのでしょう。

人は、置かれている状況に応じて、世界が見えてきます。
仏様は、とりわけそうであるような気がします。
私の記憶でも、まったく違い表情になっていることを何回か体験しました。
仏様に限らないのでしょう。
世界の風景もまさに、自らの心象風景でしかないのかもしれません。

連休前には、いろいろと迷うことが多く、たとえば、湯島で毎週のようにやっているサロンも、はたして何の意味があるのだろうかと思ったりしていました。
私は気分に大きく影響されるのです、そのために1か月近くサロンを休んでしまいました。
しかし、連休明けに少し気分が整理されたおかげか、またやりたくなって、一気に3つほど予定してしまいました。
昨日、案内を出したら、それぞれに早速反応がありました。
人に見える世界は、その人の心の動きで決まってくるのかもしれません。

Iさんは、一度は自殺まで考えた人です。
元気になって本当にうれしいです。

ちなみに富山にはいい仏様がいることを最近知りました。
節子がいたら、早速に会いに行きたいですが、ひとりではまだ動く元気が出ません。

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2018/05/07

■節子への挽歌3844:子育ての責任

節子
大型連休も終えた途端に、いろんなことが動き出しそうです。
期待していたことも、していなかったことも、ですが。
もしかしたら、私と同じくこの連休を無為に過ごしすぎたのかもしれません。
急に忙しくなりそうです。

今日は湯島の縁カフェでした。
常連化したのがちょっと問題ですが、必ずと言っていいほど、一番にやって来るのが、小学生のお母さんのOさんです。
彼女はいまの政治の状況に、強い怒りを感じているのです。
財界の人たちにも怒りを感じています。
学校のあり方にもです。
何かしたいのだがどうしていいかわからない。
実際にいろんな行動を起こしているようですが、流れはどうも変わらない。
その怒りをぶつけに湯島の縁カフェに通ってくるのです。
こういう人の居場所になれることはうれしいのですが、話を聞きながら、私が叱られているような気もします。
このままで、子どもたちの未来はあるのかと言われれば、答えに窮してしまいます。

今日は、子育ての話も出ました。
私には、あまり語る資格はないのですが、話しているとどうしても節子のことを思い出します。
私も節子も、子育ては失格でした。
子どもは育つものという思いが強すぎました。
たぶん2人とも、親の反対を押し切って生きてきたからです。
いまにして思えば、あまりにも親勝手なことがおおすぎました。
その咎は、いま私がすべて受け止めています。
節子にもシェアしてほしかったです。
節子がいたら、状況は大きく変わっていたと思いますが、父親と娘の関係は、結構微妙です。
2人の娘は、とても親思いではありますが、付き合うのは大変です。
時々、節子に助けに来てほしいと思うことがあります。

子育て議論は、私にはとても苦手です。
心が痛むことがあまりに多いからです。
節子にも、責任を半分とってほしいといつも思います。

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■カフェサロン「日本国憲法の、何を変え、何を守るのがいいのでしょうか」のご案内

日本国憲法の改正論議が広がっています。
しかし、「護憲」とか「改憲」という言葉ほど、わからない言葉はありません。
何を守り、何を改めるのかが、わからないからです。
憲法は「条文」ではなく「理念」が大切だと思うのですが、その理念の議論があまりありません。
いま、私たちが考えるべきは、何を変え、何を守るのかであって、「憲法」を変えるか守るかではないように思えてなりません。
もし「守るべきこと」のために憲法の条文に不都合があれば、変えるのがいい。
もし「変えるべきこと」のために憲法の条文を変えたほうがよければ変えたほうがいい。
議論すべきは、そして議論できるのは、「守るべきこと」「変えるべきこと」出合って、「憲法」そのものではないでしょう。
もちろん、いまの憲法は、アメリカからの押し付けだから、作り直そうというのであれば、理解はできますが、それなら「憲法改正」などという言葉を使うべきではないでしょう。
それは「革命」なのですから。

私は、「国家は人々が幸せに暮らすための仕組み」であり、国家がそうであるために憲法は存在していると思っています。
幸いに、日本は、私にとっては、とても暮らしやすい国です。
しかし、最近は、少し暮らしにくくなった気もします。
それは「憲法」と関係あるでしょうか。
もしあるのならば、どこにあるのか。

私は、「憲法改正に賛成か反対か」と問われても、応えられません。
しかし、「日本国憲法の、何を変えるのがいいか」と訊かれたら、応えられます。
人々が幸せに暮らすための国にしていくために、どんな憲法であればいいのか。
現在の日本国憲法の条文の中で、自分が一番守りたいものはどれか。
あるいは、こういう条文を追加したいという意見をお持ちの人もいるでしょう。
そんなことを、いまの憲法をベースにして、参加者がそれぞれ話し合えるサロンを開催することにしました。

みなさんの参加をお待ちしています。

○日時:2018年5月26日(土曜日)午後2~4時
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「日本国憲法の、何を変え、何を守るのがいいのでしょうか」
○問題提起者:原則として参加者全員(話したくない人も歓迎ですが)
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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2018/05/06

■節子への挽歌3843:大型連休も終わりました

節子
昨日は、子どもの日でもあり、孫に付き合って、手賀沼公園に行っていました。
孫のにこも、間もなく2歳です。
節子がいたら今とは全く違った状況になっているでしょうが、孫は週に半分くらいはわが家に来ていますが、来ると最初に節子に「チーン」をすることになっています。
節子の位牌に向かってかねを鳴らし、手を合わせるのです。
節子には会っていませんが、節子の写真を見て、節子というようになっています。
私は、まだ「むーさん」ですが。
今日もやってきて、遊んでいました。

大型連休が今日で終わりました。
私はほぼ連日、畑の開墾作業でした。
こんな連休は生まれて初めてです。
世間的な人付き合いは、基本的には中日の1日だけをのぞいて、ありませんでした。
めずらしい体験でした。

読書もあまりしませんでした。
部屋を片付けようかとも思いましたが、それもしませんでした。
ともかく畑の開墾作業に黙々と取り組みました。
といっても、その時間はせいぜい1日3時間です。
それ以外の時間は何をしていたのか。
何もしていませんでした。
実に空疎な大型連休でしたが、これが正常なのかと思ったりしていました。
節子が元気だった頃は、なんであんなに忙しかったのでしょうか。
たぶん、生き方を間違えていたのでしょう。

気が付くときは、いつも間に合わない。
自らの愚かしさにはやりきれなささえ感じます。
無為に過ごしたので、心が浄化されたはずなのですが、さびしさが残った大型連休でした。

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2018/05/03

■節子への挽歌3842:血圧が今日は高いです

節子
2日間、畑に行かないせいか、あるいは昨日、ちょっとストレスのかかるミーティングを2つも持ったせいか、今日は血圧が高くて、調子がよくありません。
あるいは先ほどかかってきた長い相談電話でのやり取りのせいかもしれません。
薬を飲もうかどうか迷っていますが、せっかく10日ほど、薬なしで調子がよかったので、その努力が無駄になるみたいな気がして、飲まずにいました。
しかし、そもそもそうやって迷うことそのものが、呪縛されていることだと気づき、飲んでしまいました。
薬と付き合うのはそれなりに難しいです。

酢タマネギも、もうだいぶ食べ続けているので、だんだん飽きてきました。
脚の運動も、呼吸法も、いずれも最近は停滞しています。
こうやって人は一番安直な薬への依存になっていくのでしょうか。
困ったものです。

今年はこの10日間、真ん中の2日(昨日)を除いては、意識的に何も予定をいれませんでした。
連日、畑作業の予定だったのですが、雨が降っては畑もできません。
それで今日は、手持ち無沙汰というわけです。
節子がいたら、手持ち無沙汰になることなど絶対にありませんでした。
ただ一緒にいるだけで、退屈しなかったのです。

とこう書きながら気付いたのですが、おそらくこれは、事実ではないでしょう。
記憶はこうやって、美しいものになっていくわけです。
「過去」と「記憶」は違いますし、「記憶」と「思い出」も違います。

降圧薬の効果が出てきたようです。
頭がすっきりし、体調が戻ってきたようです。
いやこれもまた、気のせいかもしれません。

明日は畑に行きましょう。
明日は孫も来ると言っていましたが、畑と孫で血圧は正常化するでしょう。

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■憲法記念日のお薦めの3冊

今日は憲法記念日です。
私は毎年、この日には日本国憲法を読むことにしています。
必ずしもすべてを読むわけではありませんが、前文だけは必ず読みます。
私は、日本国憲法は前文だけでいいのではないかと思っていた時もあります。
前文は文章的には、あんまり美しくはありません。
内容もいささか整理されていない気もします。
しかし、そこには、国家は人々が幸せに暮らせるための仕組みでなければいけないという精神を感じます。
「人々」というのは、国民だけではなく、世界中の人々という意味です。
そこには心底共感します。

いま、憲法改正が話題になっています。
しかし、「護憲」とか「改憲」という言葉ほど、わからない言葉はありません。
何を守り、何を改めるのかが、わからないからです。
憲法は「条文」ではなく「理念」だと思うのですが、その理念の議論があまりありません。
いま、私たちが考えるべきは、何を変え、何を守るのかであって、「憲法」を変えるか守るかではないように思えてなりません。
しかし、実際には、そこから本質を変えられていくのでしょう。
ですから「護憲か改憲か」という問題が成り立つのだろうと思います。
でも、もし私が「護憲か改憲か」とか「憲法改正に賛成か反対か」と問われても、応えられません。
「国家は人々が幸せに暮らせるための仕組み」でなければいけないか、と問われたら、即座に「はい」と答えられますが。

今年になって2冊の憲法関係の本を読みました。
篠田英朗さんの「ほんとうの憲法」(ちくま新書)と中島岳志さんの「保守と立憲」(スタンド・ブックス)です。
前者は発想の空間を広げてくれ、後者は発想の時間軸を広げてくれる本です。
もう1冊。私の友人が15年ほど前に書いた本も推薦したいと思います。
武田文彦さんの「赤ペンを持って「憲法」を読もう」(かんき出版)です。

憲法を読んで、そこからいまの日本の社会の状況を考えるといろんな気付きがあるはずです。
連休中に、憲法をテーマにしたサロンを開こうかどうか迷いましたが、他でもたくさんの集会があるので、今年は企画しませんでした。

しかし今日、改めて前文を読み直して、日本国憲法の理念とは何なのか、そして、「何を守り、何を改めるのか」について、サロンを開きたくなりました。
できれば5月中に開催しようと思います。
よかったら参加してください。

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■節子への挽歌3841:不安を呼び込むような雨風の朝です

節子
久し振りに荒れた朝です。
雨風が強く、せっかく植えた野菜が全滅している恐れがあります。
自然の力は、いい意味でも悪い意味でも素晴らしいと改めて感じます。
連休前半は、あまり人に会うこともなく、畑の開墾作業でした。
サロンもすでに半月ほど、やっていません。

昨日は1週間ぶりに都心に出かけて人に会いました。
たくさんの話もしてきました。
今日からまた畑仕事に入る予定だったのですが、この天候では無理です。
昨夜は疲れて早く寝たので、今日は5時過ぎに目が覚めてしまいました。

これほど風が強くなるとは思っていなかったので、庭の植木鉢も片付けの途中にしたままでした。
まだ見に行っていませんが、いささか心配です。

昨夜、思い立って、第3回目の「生きる意味を考えるサロン」をやることにし、案内を出しました。
何人かの人から、メッセージが届いていました。
このテーマは、いささか気が重いのと、私自身に降りかかってくることの多さもあって、もう打ち切ろうと思っていましたが、継続してよかったと思いました。
再開しようと思ったのは、自分の間違いに気づいたからです。

時評編の「お誘い」に書きましたが、平和に向けてのNGO活動に取り組んでいる鬼丸昌也さんの書いた「平和をつくる仕事にする」を読んだのが、思い直しのきっかけです。
昌也さんは、自分の行動は、「今、自分に何ができるのだろう」を考えることから始まった、と書いています。
これは、私が人と会っている時に、いつも自問している問いかけと同じです。
すべてはそこから始まる。
そのことを、これまでの2回のサロンでも伝えてきたつもりですが、伝えたのではなく、そういう考えを発しただけだと気づきました。
そこで、もう一度、それを語り合うサロンを行うことにしたのです。
それぞれの人が、自分でできることを語るサロンです。

昨日、企業経営者のKさんに会いました。
Kさんがよく言うことの一つは、「能書きを垂れる前に行動せよ」です。
Kさんは、付き合いだしたころ、私を能書き垂れだと捉えていたようですが、最近は言われなくなりました。
少し私を信頼してくれたのかもしれません。
私も、「能書き垂れ」は大嫌いなのですが、外部からはそう見えるのかもしれません。
そして、見えるだけではなく、実際にそうなのかもしれません。
昌也さんの本を読んで、それに気づきました。

まだまだ自分の事はよく見えない。
節子がいたら、もう少し自分が見えるはずなのですが、最近はなかなか自分を相対化できないのです。
困ったものです。

雨風は一向に収まりそうもありません。
私の心にまで、入り込んでくるような、冷気や痛みを感ずる雨風の音です。
今日は、どうも気が重い1日になりそうです。
昨夜の夢が悪かったのでしょうか。
残念ながらまったく思い出せないのですが。

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2018/05/02

■コムケアサロン「なぜ生きるのか」のご案内

「なぜ生きるのか」をテーマにしたサロンを2回開催しました。
参加者からの要望があったからですが、湯島のサロンとしてはちょっと異質なので、定例化はやめるつもりでした。
しかし、もう一度やろうと思い直しました。
そのきっかけは、鬼丸昌也さんの書いた「平和をつくる仕事にする」を読んだためです。
昌也さんの話は、昨年、友人たちから聞いていました。
残念ながら、その時はお会いできませんでした。
それで、昌也さんが書いた本が目にとまったので読んでみました。

昌也さんは、自分の行動は、「今、自分に何ができるのだろう」を考えることから始まった、と書いています。
私が人と会っている時に、いつも自問している問いかけと同じです。
すべてはそこから始まる。
そのことを、これまでの2回のサロンでも伝えてきたつもりですが、伝えたのではなく、そういう考えを発しただけだと気づきました。
そこで、もう一度、それを語り合うサロンを行うことにしました。
それぞれの人が、自分でできることを語るサロンです。
誰かに助けを求めるサロンではありません。
誰かを助けることのできる自分に気づくサロンです。

いつものように出入り自由ですので、途中からの参加も、途中での退出も歓迎です。
ご都合に合わせてご参加ください。

○日時:2018年5月15日(火曜日)午後6時半~8時半
○場所:湯島コンセプトワークショップ
http://cws.c.ooco.jp/cws-map.pdf
○テーマ:「なぜ生きるのか/だれかの役にたつことを考える」
○会費:500円
○申込先:佐藤修(qzy00757@nifty.com)

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■節子への挽歌3840:鈴木さんがまたサンチアゴ巡礼に旅立ちました

節子
鈴木さんがまたサンチアゴ巡礼に旅立ちました。
70日の予定です。
今回はアルルからのスタートだそうです。
出発前の思いが、1日おきくらいにはがきで届いていました。
はがきによれば、いつものような出発前のワクワク感はなくて、緊張感があるそうです。
それも興味ある話です。

今回は、空港まで巡礼で知り合った人が迎えに来てくれるそうです。
巡礼で知り合った人との心のつながりは、とても深いようです。
もしかしたら、巡礼の歓びは、人との深いつながりが得られるからかもしれません。
広いつながりではなく、深いつながり。
そして、深いけれども、ゆるやかなつながり。

節子と一緒にイランに行った時、ダリウス大王のお墓の近くで、日本人とイラン人のカップルに会いました。
旅先で誰かに会うと、節子はよく話しかけました。
しかし、残念ながら付き合いがつづくことは少なかったです。
いまほどネットやメールが広がっていなかったからかもしれませんが、やはり、巡礼と観光とは違うのでしょう。

サンチアゴには、結局、私たちはいけませんでした。
四国お遍路も行けませんでした。
それがちょっと残念です。
鈴木さんのお土産話が楽しみです。


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■節子への挽歌3839:農作業の合間

節子
5日続けて畑の開墾作業をしていましたが、今日は、湯島に来ています。

午前中は、弁護士事務所にいました。
まさか私が裁判の当事者になるとは思ってもいませんでしたし、友人の弁護士からも、あなたは裁判には向いていないと言われていましたが、なぜか裁判の当事者になっていました。
最初は被告になりそうだったのですが、弁護士に相談したら、むしろこちらから訴えるべきだと言われたのです。
相手の不当利得を放置するのは、社会的にもよろしくないというような指摘を受けて、形式上の原告ではないのですが、もう一人の「被害者」と一緒に訴訟に踏み切ったのです。
弁護士費用を工面するのも大変でした。

この事件を通して、私が学んだのは、善意は必ずしも相手には伝わらないということです。
それに、自分の行為を「善意」と考えることの傲慢さも学びました。
人はみんな自分の考え方の枠内で考えますから、自分が思いもしないことは理解しようがないのです。
ですから、逆に善意が疑われ、悪意にとられかねないのです。
いや、実際に、相手にとっては「悪意」だったかもしれません。

他にもたくさんのことを学ばせてもらいました。
あまり気持ちのいい体験ではないのですが、学ばせてもらったことは多いです。
しかし正直に言えば、早く解放されたいという気分です。
裁判は争いではないのでしょうが、それでも相手の嫌な部分がどうしても見えてきます。
それは同時に、私自身の嫌な部分への気づきにつながります。

とても誠実な信頼できる弁護士なのですが、裁判とは別のことで友人になりたかったものです。

話し合いの後、久しぶりに湯島に来て、植物に水をやり、これからまた今度は会社の社長と会います。
多忙な方なので、休中に会えればと思っていましたが、今日になってしまいました。

大型連休ですが、その前後1週間を含めて、今年は湯島のサロンをひとつも入れませんでした。
1か月近くサロンを開催しないのですが、勢いをつけていないと息切れしてサロンもしくなりそうな不安があります。
そういう活動よりも、無為に土を耕し、笹竹を刈り取り、畑を開墾する活動のほうは、私には向いているかもしれないという気さえします。
今年の連休は、たぶん生まれて初めてといっていいほど、一人に時間が多いです。
ということは、考える時間も多いということです。

日本人に、いま必要なのは、お休みではなく「考える時間」のような気がします。
国民祝日に「考える日」をつくるべきですね。
よく考えるとよい人生が始まるかもしれません。
連休が終わったら、たぶん私の人生は「より善い」ものになるでしょう。
性格も、もう少し善いものになるかもしれません。
自分のことをいろいろと考えると、いかに自分の性格が「悪い」かがわかりますから。

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■節子への挽歌3838:救いが欲しい時には誰かを救いたくなる

節子
5日間の畑開墾作業のため、いたるところがかゆくなってきました。
これは、ダニかかぶれかのいずれかですが、いずれにしろかゆくてやりきれません。
やはり服装をしっかりとしないといけません。

今日は、朝、水やりに行こうと思いましたが、さぼってしまいました。
今日は広尾まで出かけねばいけません。
楽しい用事ではなく、心が萎える用事です。
関係者もいるので、ここには内容は書けませんが、ともかく私にとって一番苦手のことなのです。
節子が元気だったら、こんなことには巻き込まれなかったでしょうが。
まあ言い訳かもしれませんが。

人は「救い」が欲しいことがあります。
そして、そういう時に、誰かが「救い」を求めていると、ついつい判断を過ちます。
救われるべきは自分なに、誰かを救うことで、問題をすり替えてしまうのです。
それがいい結果を生む場合もありますが、時に禍になってしまうこともある。
私の場合、そのいずれも体験していますが、今日の用件は禍になってしまった事例です。
それもかなり深い禍です。

救いを求めている時に、誰かを救うことで、自らも救われることもあります。
むしろそちらの方が、多いでしょう。
しかし私の場合、2~3回、自分自身を奈落の底に落とされてしまったことで、かなり臆病になってしまっています。
他者にも、人を救うことが自らの救いになると言いたいのですが、それが素直に言えなくなっているのです。
はやくこの状況から抜け出なければいけません。
今日はそのための、悩ましい1日でもあります。

農作業がいかにいいものかを改めて感じます。
自然は素直に報いてくれますし、素直に罰してくれます。
その素直さが、人間にもまた戻ってきてほしいです。


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2018/05/01

■節子への挽歌3837:全身がかゆみにおそわれています

節子
今年も5月になりました。
大型連休は孤独な畑開墾作業に精出していますが、今日は朝から真夏のようなので、畑には水やりにだけ行こうと思いながらも、まだ行かずにだらだらしています。
さすがにメールの数も減りなした。
みんなきっと充実した連休を楽しんでいるのでしょう。
メールが来るとわずらわしいと思い、こないとちょっとさびしい。
人は本当にわがままで身勝手です。
いや、私だけかもしれませんが。

ともかく身体の肌が何かにかぶれた感じで、首筋から手足がかゆくてやりきれません。
かゆみ止めを塗っているのですが、すぐに効果は亡くなります。
手の甲は、少し腫れてきています。
そういえば作業中に、チクリとした瞬間的な痛みを感じましたが、なにかに刺されたのかもしれません。
昨日の作業中に感じましたが、農作業や畑の開墾は、殺生の連続です。
野草を刈り取ること自体が、まさに殺生ですし。

昔のお百姓さんは、「南無阿弥陀仏」と口にしながら、土を耕したと聞いたことがあります。
阿弥陀に殺生を許してもらいながら、農作業をしたわけです。
その気持ちは少しわかります。
私の肌がかぶれ、かゆさにおそわれているのは、阿弥陀への帰依が不足していたのでしょう。

それにしても、かゆみが全身に広がりだしてきているような気がします。
あてさてどうしたらいいか。
皮膚科に行くか、畑に行くか。
後者を選ぶことにしました。

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