■節子への挽歌3850自らの死に出合う人のことも考えなければいけない
節子
毎週のように会っていた、節子もよく知っている武田さんが、1か月ほど前、しばらく著作活動に専念したいので、湯島の集まりなどはやめたいと電話してきました。
時折、彼とは意見の衝突があり、断絶することもあるのですが、今回はとりわけ意見の衝突もなく、一緒に武田さん中心の集まりなども始めたところだったので、少し違和感があったのですが、素直に受け入れて、予定していた集まりもキャンセルの連絡をして、しばらく縁が切れていました。
実はその後もらったメールに、「もう時間がないので」というような表現があったので、気にはなりました。
武田さんは、節子も知っているように、ちょっと健康上の爆弾を抱えています。
しかし、それが理由ではありませんでした。
一昨日、武田さんから突然電話があり、昨日、湯島で会いました。
私よりも元気そうでした。
会った途端に、疲れているようだね、と言われました。
まあその前に3時間ほど、ある人の相談に乗っていたのと、お昼を食べていなかったので、表情に元気がなかったのかもしれません。
あるいは、もっと大きな意味で、生きる気が薄れていたのかもしれません。
2人でちょっと遅い昼食をしました。
武田さんが、意外なことを言い出しました。
佐藤さんの死には出合いたくない。
親しくしているままで、佐藤さんの死には付き合いたくない、ということのようです。
親しい人が死ぬのは、たしかに辛いものです。
武田さんも一度、それを経験しているようです。
関係が次第に疎遠になって、いつか思い出して電話したら、佐藤さんがいなくなっていたというのがいい、と武田さんは言うのです。
たしかにそうです。
私も時々そう思うことがあります。
人との縁が深くなると、別れは辛い。
私が節子を見送って、10年たっても、生き直れないのは、あまりに縁を深めたからとも言えます。
友人がいなければ、別れの悲しみを体験することもない。
だから武田さんのいう意味は、よくわかります。
しかし、どうして武田さんは今、そんな気になったのでしょうか。
たぶん私も武田さんも、なんとなく死に近づいているのでしょう。
今回は、いつものように、政治論議なども含めて、いろんな話を3時間以上しましたが、いつもとはちょっと違った気がしました。
能天気に生きている私のことを、武田さんはいつも心配してくれています。
今回も、どうもしっかりとアドバイスしなければと思って、やってきたのかもしれません。
しかし、武田さんが何を言いたいか、それを私がどう受け止めるかなどは、お互いによく知っているのです。
だからそんな話にはなりませんでした。
しかし、そういう思いのやり取りはあったといえるかもしれません。
人は、言葉でしか話しているわけではありません。
なにやら不思議な時間でしたが、高齢になってきたら、人との別れを意識して生きていくことも必要なのだと気づかされました。
自分の死には出合えませんが、他者の死には出合いますし、何よりも自らの死に出合う人のことも考えなければいけないのかもしれません。
お互いにそういう年齢になったことを、武田さんは私に気づかせに来てくれたのでしょう。
感謝しなければいけません。
武田さんとの付き合いは、もう40年ほどになるかもしれません。
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