■節子への挽歌3873:自分を自由に放し話し合える場
節子
昨日は憲法について話し合うサロンでした。
10人を超える人たちが集まりました。
いつもどうしてみんな参加してきてくれるのか不思議です。
節子と一緒にサロンをやっていた時も、いつも思っていたことです。
その理由が知りたくて、サロンを続けているというのもあります。
理屈では説明はできるのですが、その説明にはあまり自分でも納得できていません。
どうして人は集まるのか。
サロンが終わっても、みんななかなか帰ろうとしません。
昨日も、4人の人が残って、サロンとはあまり関係のない話を始めました。
それがまた盛り上がってしまい、サロンパート2になってしまいました。
明後日の企画書づくりが気になっていましたが、まあ仕方がありません。
それにサロンも、なにやら私が呼びかけたような内容にはならなかったような挫折感があり、今回もまた疲労感が残りました。
この頃、改めて感ずるのですが、どうも私の呼びかけはうまく伝わっていないようです。
そして、テーマではなく、話し合う場を求めているのが、多くの人の本音のような気もします。
Kさんは、ここでは、よそでは話しにくいことを何でも話せそうなので、今日も自分の思っていることを話したいと言って、話しだしました。
言い換えれば、よそではあまり「話したいことを話せない」社会になっている。
それに気づいていなのは私だけなのかもしれません。
もっとも湯島で話し合っていることが、そんなに特別のことかと言えば、私にはそうは思えません。
誰かに聞かれて問題になりそうな話など、出たことはありません。
密談や謀議などあろうはずもありません。
ただ、原発に反対とか、憲法9条を変えたくないとか、官僚は嘘ばかりつくようになったとかいう話の発言者として特定されるのが危険だと多くの人は思い出しているのかもしれません。
そんな気配が社会に充満している気配は、私でも感じます。
だから、湯島のような匿名の場で話せるところに人が集まるのかもしれません。
ある人が、ここはまだ目をつけられていないだろうからと言っていましたが、みんな何を不安がっているのでしょうか。
そのことの方が、私には異常です。
しかし、人はだれも、自分を自由に放し話し合える場が必要なのかもしれません。
私にとって、それは節子との話う場でした。
隠し立てはなく、話しながら自分でも気づかない自分に出合うような関係は、節子を置いてはありませんでした。
その節子がいなくなり、私も最近は完全には自分を開放していないのかもしれません。
それが10年つづいているので、どこかに何かが蓄積されてきているために、最近、なにか身心が重いのかもしれません。
昨夜、そんなことを考えながら、いつのまにか寝てしまいました。
そのせいか今朝もあまりすっきりしません。
しかし、今日もとてもいい天気です。
畑に水やりに行ってこようと思います。
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