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2018/06/14

■節子への挽歌3895:終わった人

節子
前にも書きましたが、いま「終わった人」という映画が話題になっています。
http://www.owattahito.jp/

私も違う意味で「終わった人」だと自覚はしています。
私は、以前からよく「終わった人」という表現を使ってきています。
それなりに社会的な活動をしている時に、よく使った言葉ですので、それを聞いて気分を害されていた方も少なくないと思います。
その頃はまだ自分は「終わっていない」と考えていたのです。

私が言う「終わった人」というのは、未来を創るのではなく過去を語る人です。
15年ほど前でしょうか、教育を考えるフォーラムが連続で行われたことがあります。
毎月、ホテルオータニでさまざまな分野の人たちが話し合うフォーラムでした。
そのコーディネーター役を頼まれたのですが、そのメンバーを見て、私は「終わった人たちのフォーラムですね」と余計な感想を述べてしまったのです。
メンバーは有名人が多く、あるいは要職にある人が多く、私でも名前を知っている人がほとんどだったので、ついついそういう言葉が出てしまいました。
でも結局、引き受けさせてもらいました。
みんな一家言ある人なので、話し合いは大変でした。
コーディネーターの癖に、自分の意見を主張して、メンバーを怒らせてしまったこともありますが、やはり私には退屈でした。
しかし、社会を動かしているのは、そういう「終わった人」たちなのかもしれません。
そして、社会を変えていくのは、そうではない若者や社会からの逸脱者なのでしょう。

いま、話題になっている「終わった人」は、そういう意味ではないようです。
私は映画は見ていませんが、予告編によれば、仕事も趣味も夢も、そして居場所さえもなくなった人のようです。
私にはまだ居場所がありますので、「終わった人」ではないかもしれませんが、私の認識としては、十分に「終わった人」です。
過去を語ることは、いまもあまり好みませんし、未来を語ることもありません。
未来も創ろうとせず、過去も語らず、ただただ「いま」を生きている。
「終わった人」というよりも、生きる人生から抜け落ちた人なのかもしれません。
一応、外見的にはがんばっているように見えるでしょうが、実のところは、ただ今をなんとなく生きているだけなのです。

過去を語る人が、社会的に頑張っているのがいいことかどうかはわかりません。
私には、そういう生き方は無理ですが、でも「終わった人」にも役割はあるとは思っています。
むしろそういう責任感のようなものが、私のどこかに残っています。
本当はもっともっと「終わった人」になりたいのですが、いまは「中途半端に終わった人」として、時々、「もういいか!」という気分になりながらも、惰性的に生きている。
いいかえれば、「終われない人」になっているのかもしれません。
困ったものです。

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