■節子への挽歌3886:〈ないもの)から、〈あるもの)が生まれた
節子
昨日は早く眠ったのですが、案の定、夜中に目が覚めてしまいました。
それで読みかけていた「インド哲学10講」という岩波新書を読んでしまいました。
なかなか難しくて、ますます目が覚めてしまい、また寝不足です。
その本を読む気になったのは、先日、先日詠んだ「先史学者プラトン」などのせいですが、読みだしたらどうも難解で、少し読むのをやめていました。
そのため、枕元に積まれている本の仲間入りしていたわけです。
難解なのですが、気になっていた文章がありました。
インド哲学と言えばウパニシャッドですが、それを代表する思想家にウッダーラカという人がいるそうです。
今から3000年ほど前の人だと言われています。
その人が、息子に話した言葉が、残されています。
息子よ、はじまりにおいて、この世界は(あるもの)に他ならなかった。それはただ一者として存在して、2番目をもたなかった。この点について、ある人々は言う。「はじまりにおいて、この世界は〈ないもの)に他ならなかった。それはただ一者として存在して、2番目をもたなかった。その〈ないもの)から、〈あるもの)が生まれた」と。しかし、息子よ、いったいどうしてそのようなことがあるだろうか、とウッダーラカは言った。いったいどうして〈ないもの〉から〈あるもの〉が生まれることがあるだろうか。そうではなくて、息子よ、はじまりにおいて、この世界は〈あるもの〉に他ならなかった。それはただ一者として存在して、2番目をもたなかったのだ。
ウパニシャッドでは、最初に〈ないもの〉があったと書かれている、と私はぼんやりと記憶していました。
そして、〈ないもの〉からすべては生まれだすという考えになじんできました。
近代科学の主張する物質不変の法則よりも、もっと大きな世界があると確信しているからです。
科学が感知できるのは、それこそ「小さな宇宙の一部」でしかないと私はずっと考えています。
そのためこのウッダーラカの指摘はちょっと悩ましい問題でした。
〈ないもの〉から〈あるもの〉が生まれることがあるだろうか。
そうではなくて、息子よ、はじまりにおいて、この世界は〈あるもの〉に他ならなかった。
それはただ一者として存在して、2番目をもたなかったのだ。
この文章を考えているうちに、目がますます覚めてきてしまったのです。
結局、世界は〈あるもの〉に他ならなかったと、世界は〈ないもの)に他ならなかったとは、同じことなのだという結論になって眠れましたが、2番目、つまり他者が存在しないことは、ないことと同値なのです。
さてそこからいろんなことが広がっていきそうですが、それはまた別の機械に考えましょう。
まあ、そんなわけで、今日は寝坊してしまいました。
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