■節子への挽歌3908:「元気をもらいました」
節子
兄と食事しました。
また大論争になってしまい、最後はお互いを反省して、なかよくわかれました。
家族や元家族は、どうもうまくいきません。
家族よりも、血縁のない人との関係の方が平和かもしれません。
私たち夫婦も、よく喧嘩しましたから。
私は、家族に限らず、言いたいことを言いすぎるほどいうので、いつも話し終わって別れた後、反省します。
しかし、その一方で、すべてを話してしまうとなんだかすっきりします。
それが大切なことなのかもしれません。
私たち夫婦は、私は最初からですが、最後はお互いに好きなことを何でも言い合える関係になっていました。
湯島にやって来る人の中には、来るなり自分の関係の話を話しだして、口をはさむのが難しいようなことも少なくありません。
そういう人は、ひとりできますが、1時間ほど話すと、なにやらほっとした感じで、話したことの弁明を少しします。
たぶん他のところでは話しにくいのかもしれません。
今月来たそういう人は、みんな遠方の人です。
自分の生活圏とはかなり遠くにいる私であればこそ、話しやすいのでしょう。
それに私は記憶力があまり良くないので、話を聞いても忘れてしまうのです。
私がその話を聞いてもほとんど何の意味もありません。
たぶん相手の人も、それは十分認識していますし、だからこそすべてを放(話)せるのです。
職場の話もあれば、家族の話もある。
かなり微妙の話も少なくありません。
自分の話もあります。
話終わった後、必ずいう言葉があります。
「元気をもらいました」
人は心の中にある、あんまり消化できないでいることを、そのまま心の外に吐き出すと元気になるのかもしれません。
私も時に、そういう放すための話も必要です。
それが昔は、節子との会話でした。
いまはもしかしたら、その矛先の一つが兄かもしれません。
あるいは、最近は畑作業かもしれません。
畑はだいぶ整ってきました。
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