■節子への挽歌3958:世界を広げる生き方
節子
人はなかなか自分が見えてきません。
その一方で、他者の言動に自分を見ていることが多いように思います。
私は基本的に、誰かが誰かを批判したりほめたりするのを聞くと、それは話している人のことだろうと思うことが多いです。
ということは、私が誰かのことを批判したくなった時には、その批判はまさに自分に向けられているということになります。
それに気づくと、誰かを批判することは難しくなってしまいますが、だからこそ、批判することの大切さを感じています。
誰かを質すことは自らを質すことですから。
批判は、「話す」(放す)のではなく「語る」(象る)のでなければいけません。
こう書くと何やら小難しい感じがしますが、平たく言えば、人は自分が見える世界でしか生きていないということです。
人の生き方は2つあります。
自分の世界のなかで生きるか、自分の世界を広げるように生きるか。
いろんな人と出会って、たぶん前者の生き方が幸せなのだろうと思います。
節子と一緒に阿蘇の地獄温泉に行った時、そこの宿屋で働いている男性が、生まれてこのかた、熊本市にも下りたことはなく、ここでずっと働いているといっていました。
毎朝、庭の掃除からはじまり、決められた作業をして、一日(一生)を終える。
実にやさしく、そして満ち足り表情をしていたのを今も覚えています。
その人の心には、不満などないのでしょう。
多くの人は、そうやって生きてきた。
ところが突然にある日、その自分の世界が壊されてしまう。
今回の西日本豪雨は、そうしたことを多くの人にもたらしました。
しかし、ただ現在の世界が壊れてからと言って、後者の生き方、つまり自分の世界を広げる生き方になるわけではありません。
壊された世界もまた「自分の世界」。
その世界の中で生きていくことは十分に可能であり、またある意味での幸せなのかもしれません。
こんなことを書いたのは、節子と私の生き方の共通点が、後者の生き方だったからです。
2人とも志やビジョンを持っていたわけではありませんが、新しい世界への関心はそれなりに高かった。
不謹慎な話ですが、もし節子と私が、自分の住んでいる家を壊されたらどうしただろうかと思ったりします。
人は歳と共に、世界の広がりを望まなくなる。
いや、世界の広がりの望まなくなるから、歳をとるのかもしれません。
しかし、幸か不幸か、私には今や。落ち着いて平安を楽しむ世界はありません。
落ち着くべき自分の居場所がないからです。
節子のいない世界には、とどまる世界はない気がします。
ですから外に向かうしかない。
だから歳をとれないのかもしれません。
困ったものです。
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