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2018/07/26

■相模原市のやまゆり園障害者殺傷事件から2年目

今日は2年前、相模原市のやまゆり園で障害者殺傷事件が起こった日です。
忌まわしい事件ではありましたが、それまで多くの人が回避してきたことを可視化したという意味では、大きな意味を持った事件でした。

加害者の動機は、コミュニケーションもできず生産性のない人は生きる価値がないということだとされていますが、まさにその思いは、現代の日本社会の核にある価値観でもあります。
ですから、加害者の言動に正面からノーとはっきり言える人は必ずしも多くないのではないかと思いますが、だからこそ、この事件は衝撃的でした。
しかし、この事件で、多くの人が意識と行動を変えたことは間違いありません。
それは、当事者に近い人にとっても同じことです。
いや、そうした問題を身近に感じている人の方が、変えやすかったというべきでしょうか。
事件後2年の、死を免れた障害者の家族の生活をドキュメントしたテレビ番組を2回見ましたが、障害者本人も家族も、また周辺の人たちも、生き方を変えてきていることを感じました。
そして、テレビ番組からは、みんな幸せを高めていることがメッセージされています。
そのメッセージにはいささかの違和感はありますが、言動の変化がゆたかさをもたらすことには共感します。
私もそうですから。

たぶん加害者の植松被告も、事件を起こす前にはそうした努力をしていたはずです。
少なくとも私よりも一生懸命に取り組んでいたはずです。
しかし、変えられなかった。
そして考えを変えさせられてしまった。
実に残念ですが、加害者ほど極端ではないにしても、その方向に向かう環境と誘惑をとても強いです。
なぜなら社会の価値観全体が、そちらを向いているからです。
学校教育も社会生活の仕組みも、そちらを向いているようにさえ思います。

たとえば、植松被告が言う「コミュニケーション」や「生産性」が、多くの物ごとの判断基準になってきています。

しかし、そもそも現在使われている「コミュニケーション」とか「生産性」とかという言葉自体がきわめてある価値観に支配されています。
言語や行動を通さなくともできるコミュニケーションはたくさんあります。
生産性は、その反面に「消費性」を含意しており、何を持って測定するかで、まったく逆な結果にもなります。

財政が厳しい時に税金の無駄遣いということも被告は話していますが、財政の目的をどう考えるかで、何が無駄かは全く変わってきます。
しかし、恐ろしいことに、植松被告の発想の枠組みは、現代の日本を生きる多くの人たちを覆っています。
だからこそ、多くの人は植松被告を説得できない。
植松被告の前に、自らさえも説得できていないのではないか。
そんな気がします。

明日、湯島で、午後6時半から、この事件をテーマにしたサロンをやります。
お時間が許せばご参加ください。
自らの生き方を質すためにも。

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